隆之&初音編





 
リハーサルを終えた【GAZEL】のボーカル、広瀬隆之(ひろせ たかゆき)は、そのまま建物の外へと向かった。
明後日からライブが行われる会場の周りには、既に何人ものファンがいて、メンバーの出待ちをしていることは分かってい
るので、敷地の外に出るわけにはいかなかった。
それでも、火照った身体を少し冷ますために、隆之は建物の裏口へと足を進める。

 「汗をかいたままウロウロしないでよ?タカの声が無かったらライブは出来ないんだからね」

 ちょくちょく抜け出す隆之に、メンバーでもあり、プロデューサーでもある真中裕人(まなか ひろと)はそれとなく注意をし
てくるし、

 「まあ、いいじゃない。タカのリラックスタイムなんだし」

と、ギターの山崎太一(やまさき たいち)はフォローをしてくれた。
 何だか自分が一番の問題児だなと思わないでもないが、あまり感情の触れ幅が無いと思われている自分は意外に臆
病で、神経質なので、こんなふうに1人になる時間がとても大切だった。
 「・・・・・?」
(誰か、いるのか?)
 建物の中や表は、ライブ関係でとても騒がしいが、機材の搬入を終えたはずの裏口は静かだと思っていた。だが、どうや
ら誰かいるらしい。
それがスタッフだとしても、誰かに会うというのが億劫だった隆之は踵を返そうとしたが、
 「・・・・・っ」
微かに聞こえてきた鼻歌に、思わず足を止めてしまった。



 リハーサルを見終えた音楽雑誌の新米記者である桜井初音(さくらい はつね)は、人気の無い裏口の階段に腰掛
けると、今夜会社に送る記事の下書きを書き始めた。
 きちんとしたものはホテルに戻ってから書くつもりだが、この高揚している気持ちを持ったまま記事を書くのも楽しかった。
 「幸せだなあ・・・・・何回も【GAZEL】の生歌聴けるなんて」
(本当に、記者になって良かった)
思わず歌ってしまうのは、【GAZEL】の曲ばかりだ。もちろん、隆之の歌唱力に遠く及ばないものの、好きな曲を自分の
好きなように歌うのは楽しい。
 「ふ〜ん、ふふ〜ん、ふ〜♪」
 気のせいか、歌いながらだと筆も進む。
 「君の〜誘う〜眼差しに〜」
 「濃い口紅の意味をきいても、笑われー」
 「!」
自分とは全く違う甘い声。
ついさっきまで聞いていたその声に、初音は慌てて振り向いた。
 「タッ、あ、ひ、広瀬さんっ?」
 「隆之」
 笑いながら訂正され、初音は直ぐに言い換えた。
 「た、隆之さん、どうして?」
 「ちょっとした気分転換。ここには誰も居ないだろうと思ってたら、俺の歌が聞こえてきて」
初音は自分の頬が熱かった。誰も居ないと思って鼻歌のように歌っていたのを、本人に聞かれてしまうのはとても恥ずかし
い。
 「す、すみませんっ、下手な歌聞かせちゃって!」
 「どうして?楽しそうに歌ってくれていたのを中断して、申し訳なかった」
そう言いながら頭を下げる隆之は、目元も口調も笑っている。どうやら機嫌を損ねたわけではなかったみたいだと、初音は
ホッと安堵した。



 「それ、【LIMIT】だよな?好き?」
 「あ、えっと、どの曲も好きなんですけど、あの歌のサビが・・・・・」
 「キスして、もっと、熱く、あなたの全てを?」
 「・・・・・き、君の身体の奥までも、僕の全てで支配する」
 【LIMIT】はダンスナンバーで、歌っている時は隆之も弾けてしまっているのだが、こうして言葉で歌詞をなぞると、なんだ
か恥ずかしく思える。
それは初音も同じ思いなのか、少し頬を赤くしていた。
 「歌を読むって、何だか変な気分だな」
 「それでも、いい曲です」
 「ヒロが作った歌だから」
 「そ、それもありますけど、隆之さんが歌うからです。バラードだって、ダンスナンバーだって、隆之さんの声があるから、凄
くいい曲になるんです!隆之さんの声が必要なんです!」
 「・・・・・ありがとう」
 ファンレターなどで、それこそこういう言葉は見慣れているが、こうして耳で聞くととても嬉しい。
裕人の曲が良いと褒めてもらうのはもちろんだが、自分の声が必要だと言ってくれるのが、それが、自分の初期からのファ
ンである初音の言葉だから尚更、だ。
(ファンを区別しているわけじゃないんだけど・・・・・な)
 万人に愛されることは必要だが、だれか1人を特別に思う自分の気持ちを否定出来ない。隆之は、自分の隣にいる
初音の手元を見た。
 「記事?」
 「あ!」
 初音はとっさにノートを閉じた。
 「見せて」
 「だ、駄目です!恥ずかしいから!」
 「でも、記事になったら読めるだろう?」
 「それでもっ、何だか自分の全部を覗かれているみたいで恥ずかしいんですっ!」
初音の気持ちは分かる。物を作り出す者は、それが曲でも文章でも、自分の内面を曝け出す行為だ。羞恥心を感じ
るかどうかは個々それぞれだが、隆之は自分と同じ感覚を初音が持っていることが何だか嬉しかった。



(ちゃんと、編集長にチェックしてもらった記事じゃないと自信ないし・・・・・っ)
 今のままでは、自分のメモは【GAZEL】への一方的なラブレターみたいなものだ。とても見せられないとしっかりとノート
を抱きしめると、隆之はそれ以上は言ってこなかった。
 「じゃあ、本が出るのを楽しみにしてようかな」
 「は、はい、お願いします」
 言葉が途切れても、初音はこの時間が気まずくは思わなかった。
隆之という人間に慣れたせいかもしれないが、一方でこれが現実だとは今もって思っていないからかもしれない。こんなコ
ンクリートの階段に、隆之と並んで腰を掛けているなど、絶対にありえない現実のはずだった。
 「あの・・・・・明後日から、頑張ってくださいね?」
 初日ではないが、隆之が1ステージ1ステージ、大切にしていると感じるからこそ、改めてそう伝える。すると、隆之が初
音の肩をポンポンと叩いた。
 「勇気をくれる?」
 「え・・・・・」
 振り向いた初音の驚きの声は、隆之の唇に重なって消えてしまった。
触れるだけの・・・・・キス。そう、確かに唇が重なった。
 「じゃあ、俺戻るから」
 目を細めるように笑った隆之は見るからに上機嫌で、裏口から建物の中へと入っていく。
その後ろ姿を呆然と見送った初音の顔は、驚きから覚めた瞬間、じわじわと今まで以上に赤く染まってしまった。





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