バンッと開かれた扉の音に顔を上げたジェイ・モドックは、真っ蒼になった若い乗組員の姿に首を傾げた。
「どうしたんだ?」
「お、俺っ、俺が今日の当番なんです〜っ!!」
泣きそうな叫び声に、ジェイはああと笑った。
「名誉なことじゃないか。お前だってタマと2人きりになるのは嬉しいだろ?」
「そ、それはっ・・・・・あぁっ、頭に言わないで下さいよっ?」
「分かってるって。まあ、その特権があるからこそ、みんな嫌がりながらも立候補してるんだろ。お前もさっさと覚悟を決めてタマと
付き合え」
「料理長〜」
どうして乗組員がこんなに泣きそうな声を出すのか分かっているジェイは苦笑するしかない。
(タマが飽きるまでは付き合って貰わないとな)
海賊船エイバル号。
狙った船は必ず仕留め、人を殺すことなく全財産を奪い取り。
どんな国のどんな警備船からも見事に逃げおおせる、若い船長が支配する船。
エイバルの名は各国に轟き、船長であるラディスラス・アーディンの端正な容貌も噂に名高い船で、ジェイはラディスラスに直接
乞われて料理長として乗り込んでいた。
堂々とした体躯に剣の技量にも長けているジェイは、以前は別の海賊船で甲板長をしていたが、ある国の警備船に追われ、
船を捨てて逃げ出そうとした船長に背中を切られて一度は船を下りた。
その後、身を寄せた宿で働きながら料理を習い、厨房を任せられるようになってしばらくして、その港に偶然停泊したラディスラ
スがその宿に立ち寄って料理の味を気に入り、自分の船に乗ってくれるように誘ってきたのだ。
一度船を下りていたジェイは始めからその気は無かったが、なんとラディスラスは30日間宿に泊まり続け、ジェイの手が空けば
誘いの言葉を掛け続けた。
日が経つにつれ、ラディスラスの性格も把握出来、安穏な生活に慣れていたジェイの中にも、以前持っていた新たなものを求
める欲求を再び持つようになり・・・・・。
「なあ、後どの位口説けばいい?」
「明日、主人に辞めることを伝える」
「・・・・・いいのか?」
「面白い毎日を送らせてくれるんだろう?」
自分よりも年下の船長ということに何の拘りもない。
ジェイは自ら望んで、ラディスラスが宿に来てから丁度35日後、エイバル号の新しい乗組員になった。
まだ若い船員が多いエイバル号の中では、元海賊船の乗組員だったジェイは教育的な役割をすることも多かったが、船長のラ
ディスラスを始め、甲板長のラシェル・リムザン、船医のアズハル・キアという、能力的には海賊にするには勿体ないほどの者達と
想像以上に刺激的な日々を送ることが出来た。
そんなある日、また新たな仲間が加わったのだ。
誰よりも小さく、幼いくせに、誰よりも刺激的な存在に。
「あっ、ジェイ!」
「ああ、タマ」
甲板の上、海水で野菜を洗っていたジェイは顔を上げると、自分に駆け寄ってくる小さな姿に目を細めた。
「そんなに急ぐな、こけるぞ」
「だいじょー・・・・・うわっ!」
丁度大きな横波が当たって船が大きく揺れ、小柄な人物は大きくよろけてしまう。しかし、以前はそのままハデに転んでいたが、
かなり船上の生活にも慣れてきたのか、足を踏ん張り、中腰になるという不格好な体勢ながら踏ん張って、それを褒めてくれる
ようにとこちらを見る黒い瞳に、ジェイは笑いながら凄いぞと言った。
「もう、すっかり海の男だな」
「そうっ?」
男という言葉に反応し、嬉しそうに笑う顔はまだまだ幼いものの、それを言えば拗ねるだろうということは容易に想像出来る。
それが分かるほどには、ジェイはこの少年・・・・・いや、年齢的には立派な青年のことを見てきた。
名前は、【タマキ】。
歳は18歳で、男。
黒髪に黒い瞳という珍しい容姿のその青年は、驚くことにこの世界の人間ではないという。
不思議なことを信じる性質ではないはずだったが、そんなジェイでもタマキを知れば知るほど不思議だと思うことも多く、さらに、
タマキがタマキならばいいかと思うほどにタマキを気に入っていた。
「ジェイ、何してるんだ?」
「野菜洗い」
「りょーりちょーのジェイが?」
「当番制なんだ。負担は平等に、な」
「すごいなあ、ジェイは」
感心したように言われても、それは船に乗る時に決めたことなのでジェイにとってはごく普通のことで、褒められる方が気恥ずか
しい気がする。
「タマはどうしたんだ?」
昼も過ぎた今時分なら、ラディスラスが構い倒しているはずなのだが、タマキ1人でこんなとこにいるのが何だか不思議だ。
「俺は、今日のちょーたつ」
「・・・・・ああ」
それだけで、ジェイは全てが分かる。
「お手柔らかにな」
「なんだよ、それ〜」
タマキは冗談と思っているらしく大声で笑っているが、ジェイは先程食堂に駆けこんできた乗組員の顔を思い出してくれぐれもと
呟いてしまった。
タマキは案外忙しいらしく、それから直ぐにじゃあねと言いながら立ち去った。
まだ時折揺れる船の上で走り回っている姿はとても危なかしいが、通り掛かる乗組員皆が保護者のようなものなので大丈夫だ
ろう。
「ん?」
野菜が入った大きな籠を軽々と片手で持ちながら食堂に戻ろうとしたジェイは、反対側から来る男に気付いて立ち止った。
「ご苦労さん、ラシェル」
「野菜洗いか。相変わらずだな」
甲板長であるラシェルはずっと船の中を巡回している。船長であるラディスラスの次に責任のある立場のこの男はとても生真面目
なので、きっと隠れて休憩をするということもしていないはずだ。
(もっと、肩の力を抜けばいいのにな)
元はある国の軍に入っていたらしいラシェルの堅さは良い意味でこのエイバル号には必要だと思う。ラディスラスのような破天荒
な人間だらけならば、この船はもしかしたら・・・・・。
「さっき、タマに会ったぞ」
「タマ?」
「今日の準備に忙しいらしい」
「・・・・・ああ」
ラシェルも直ぐにその意味に気が付いたようで、不意に口元を柔らかく綻ばした。この男のこんな表情は滅多に見れるようなもの
ではなく、浮かばせるタマキは凄いと思う。
「全く、困った奴だな」
「気晴らしに丁度いいんだろう」
「ラディがいい加減、タマを本気で褒めれば終わるような気がするが」
「全くな」
ここにはいない男のことを口に出し、目を合わせればお互いが苦笑してしまう。そのまま再び巡回に行く背中に軽く片手を上げ
ると、ジェイも食堂に向かって歩き始めた。
飛び抜けた容姿と、圧倒的な指導力。性格も陽気で明るいラディスラスは、海賊船の船長という立場でありながら女達にモテ
た。
略奪をするために船に乗り込めば、女達は攫われる恐怖よりもまず、ラディスラスの容貌に見惚れてしまい、自ら奪われることを
願うくらいだった。
ラディスラスも適当に遊んでいたようだったが、あの日、タマキを海で拾って以来は女遊びも控えている。
幾ら可愛らしい容姿をしているとはいえ、男のタマキをそんなに追いかけてどうするのだと思っていたジェイも、タマキの無邪気さや
破天荒さ、一方で何事も諦めない強さと、誰かに甘えない姿勢を知るにつれて、ラディスラスがどうしてあんなにタマキに惹かれる
のか分かるような気がしていた。
いや、ラディスラスがあんなにもタマキへの愛情を見せ付けなかったら、もしかしたら自分も・・・・・そんなことを考えることもないわ
けではないが、ジェイは今の自分の位置に満足している。
この位置はきっと、ラディスラスにも、他の誰にも脅かされることは無いだろう。
大勢の乗組員の胃を満足させる料理を毎回作るのは大変なものの遣り甲斐はある。
厨房を任されている者達は遅い昼食をとった後、直ぐに夕食の下準備を始めるのだが、皆チラチラと入口の方へ視線をやり始め
たことに気づいたジェイは含み笑いを零した。
三日に一度、夕食前の一時はこの食堂は賑やかな嵐に巻き込まれる。
仕事をする上から考えれば邪魔なのだが、ジェイも密かに楽しみにしているこの出来事を中止させようとは思わなかった。
バンッ
「入っていい〜っ?」
既に扉を開けてから大声で言うタマキに、ジェイは鷹揚に頷いた。
「いいぞ。火を使うか?」
「今日はいい!生がいのち!」
「・・・・・」
(それは・・・・・大変だな)
もうしばらくしてくるはずの、あの若い乗組員の顔を思い出したジェイはそう思いながらも、一方ではどんな展開になるのか楽しみ
で仕方が無かった。
「料理長、今日はどんなものを作るんでしょうね」
厨房の中にいた乗組員が訊ねてくる。その目は興味津々といった様子で、ジェイは苦笑するしかない。
「さあな。生らしいが・・・・・」
「うわっ、湯通しもしないんですか?じゃあ、あのシオカラみたいな奴なのかなあ」
「見た目は不味いよな」
他の者達も自分達の会話に混ざってきた。
一番最初にタマキが厨房を使わせてくれと言った時には、職人気質の多い料理人達はいい顔をしなかった。ラディスラスが口添
えをしたので渋々受け入れただけだが・・・・・タマキの独創的で、破壊力があって、何より美味しい料理(?)に魅せられてしまっ
た料理人達は、三日に一度現れる《料理人タマキ》の訪れを密かに楽しみにしているのだ。
「あっ、あれ、さっき釣ってた魚じゃないか?」
「・・・・・うわっ、あぶなっ」
「一声掛けてくれたら俺がやってやるのに」
何度も料理をしているものの、タマキの手付きは変わらずに危なかしい。見ていてハラハラするよりも自分たちがしてやった方が
早いのだが、そう言えばタマキの機嫌が損なうことは・・・・・経験済みだ。
だから、では無いが・・・・・。
「タマ、こっちの刃物の方が切れるぞ」
「え?ホント?」
「ああ、ちょっと見てみろ」
そう言って近付いた1人の料理人は、タマキから包丁を受け取り、今自分が持っていったものでほらなと言いながら素早く白身魚
を捌いて行く。
難しい部分をあっという間に仕上げた料理人は、目を丸くしているタマキに向かって切れ易いだろうと言った。捌く工程のほとんど
をされてしまったのだが、良い意味で単純なタマキはうんと頷いた。
「すごいなあ〜。トギ方が違うのか?」
「よくやった!」
戻ってきた男を他の者達が褒め、再びじっとタマキの手元を見つめ始める。
この状態ではとても夕食の仕度は出来ないことは分かっているし、ジェイ自身もタマキのことが気になるので腕を組みながらじっと
その様子を窺った。
(生魚を切って・・・・・何するんだ?)
既に料理人が骨と身と皮を綺麗に分けているので、タマキはその身をただ切っているだけだ。
「ジェイ、やさい、もらっていい?」
「ああ、どんなのがいい?」
「はっぱ!」
「葉?青物か」
ジェイは料理の添え物に良く使う葉野菜をタマキに手渡した。
「タマ、一体何を作るんだ?」
「シーフードサラダ!」
「しい、ふうど?」
「魚のヤサイ。おいしーよー?」
そう言いながらタマキは厨房にやってくると、様々な調味料を混ぜ合わせ、時折味見をしながら眉間の皺を深くし、
「あれ?おかしーな」
などと、恐ろしいことを言っている。
「・・・・・手伝おうか、タマ」
「大丈夫!」
しかし、どうやら納得したらしい(諦めたのかもしれない)タマキはそれを持って元の位置に戻ると、切った魚、野菜、調味料を一つ
にして、素手でグチャグチャに混ぜ始めた。
「おい、あれ・・・・・」
「どんな味がするんだろうな」
こちら側で囁いていると、入口がゆっくりと開かれるのが分かった。
「あ、あの・・・・・」
「あっ、今日のとーばん?」
「は、はあ」
「ちょうど、出来上がりピッタシ!ほら、座って!」
タマキは自ら立ち上がると、まだ汚れている手で来い来いと手を振っていた。
そう。
タマキは毎回新しい料理を考え、その試食を乗組員達に頼んでいる。
見掛けはともかく、タマキの料理は美味しいことは分かっているが、初めてのそれはなかなか口にするのには勇気がいる見掛けで
はあるし、特にその作る工程を見ている自分達には結構な試練だ。
ただ、タマキも料理人に味見をしてもらうのは恥ずかしいらしく、その役目はもっぱら他の乗組員達で、その順番はどうやらクジ
で決めているらしい。
「ほらっ、ここ!」
「は、はい」
「今日のはマメ味。ちょっとニガイかもだけど、食べれるから!」
「・・・・・」
「・・・・・」
(タマ、その前置きはいらないんじゃないか?)
タマキの真の目的は、船長であり、自分の保護者であるラディスラスを唸らせることにあるようで、いわば他の乗組員はその前段
階の犠牲者なのだが、本人達が嫌がりながらもその役を嬉しがっているのは事実で。
「ね、食べて?」
至近距離でタマキの笑顔を見ることが出来るという特権に若い乗組員は顔を赤くしながら、覚悟を決めたようにサジを握る。
(さて、どんな味なんだろうな)
あの男が食べた後に、少しだけ味見をさせてもらおうか。
ジェイは目を輝かせながら男の反応を見つめているタマキの様子を見ながら、
「ほらっ、お前達、そろそろ手を動かせ!」
そう、部下達を叱咤して、飢えた乗組員達の夕食作りを始めることにした。
今回の料理の結果は、後のラディスラスの眉間の皺の深さが物語るのだが・・・・・それはもう少し後の話になる。
end