海藤貴士、誕生日編。
「そうか、綾辻と屋台のラーメンを食ったのか」
【すっごく美味しかったです!こっちでは珍しい豚骨味だったけど、チャーシューもおまけしてくれたし!今度海藤さんも
一緒に行きましょうよ】
「ああ、案内してもらうか」
【お店のオヤジさんって人も話が好きな人で、俺のことボウズ、ボウズって言って・・・・・】
楽しげな真琴の話を、海藤は自然と口元に笑みを浮かべながら聞く。
本当はこんなに楽しそうな真琴の顔を直に見たかったが、声でも十二分にそれは想像がついた。
どうやら綾辻はちゃんと真琴の相手をしてくれているらしい。心配はしていなかったが、聞こえてくる声が湿っていないこ
とに海藤は安心した。
本当なら、今日は一緒にいるはずだったが、昨日の昼に急に出張しなければならなくなり、こうして電話で話すしかな
い。寂しいと子供のように言うつもりはないが、それでもこうして電話を切りがたくなっている。
真琴もきっと同じ気持ちのはずだ。そうでなければ何時もは仕事先に電話をしない真琴が、いくら夜とはいえこうして海
藤の携帯に電話をよこしたのだ。
上からの命令ならば仕方がなく、昨日の夕方急に立つことになってしまったが、海藤は今すぐにでも東京の真琴のもと
に帰りたいと思った。
【海藤さん】
「ん?」
【あの・・・・・】
「・・・・・」
何か伝えたいことがあるらしい真琴は、何度も話しかけて言葉を飲み込んでいる。それを辛抱強く待っていると、小さな
声が耳に届いた。
【・・・・・誕生日、おめでとうございます。今日一番に言いたくて・・・・・】
「真琴」
【本当は、顔を見て言いたかったんですけど・・・・・】
「いや、嬉しいよ、ありがとう」
【・・・・・】
「お前の言葉が一番嬉しい」
たとえ顔が見えなくても、こうして嬉しい言葉を聞かせてくれたことが嬉しい。
真琴と出会うまで、海藤は自分の生まれた日など特に気にもしていなかった。幼い頃は伯父夫婦が祝ってくれたが、歳
を一つ重ねることに感慨はなかったし、それは年を経るごとにますます他の日常と変わらない日になっていた。
しかし、真琴と出会ったことでその意識は変わった。
海藤にとって自分が生まれた日というのは、真琴と出会うための意味のある日になった。
【・・・・・帰るの、明日ですよね】
「ああ」
【無事に、帰ってください】
「ああ、もちろんだ」
真琴の待っている場所に帰る。
海藤は携帯を握りしめ、目の前に真琴がいるように優しい眼差しになっている自分に気付かなかった。
大東組の理事に就任してから、海藤の日々はがらりと変わった。
もともと、開成会と系列会社の経営で忙しい日々を送っていたが、そこに大東組の仕事が加わったのだ。
全国に系列の組がある大組織の大東組は、その規模の大きさに比例して様々な問題も抱えている。今の組長がしっ
かりと頭を抑えてはいるものの、昔は敵対関係だった組同士が同じ系列に加わった例もあり、火種はそこかしこにあった。
それらの問題解決にはその地方の大きな組が間に入ることになっているが、それでも納まらない時は大東組内から人
が向かうことになる。
理事になりたてで、一番若い海藤がその任に就くことは多く、それが全国となれば通いや日帰りというのは難しい。
真琴も、組の仕事はわからずともその忙しさは理解しているようだ。
約束を直前で破っても文句も言わないし、日帰りの時はどんなに遅くとも起きて待ってくれている。
そんな真琴の気持になんとか応えたいと思い、この日はと自身の誕生日は空けていたのだが、直前になって関西の組で
問題が起き、海藤が向かうことになってしまった。
自分の誕生日というよりも、真琴と過ごす時間がなくなってしまったのが残念だった。
真琴は見送る時は何も言わなかったが、多分何かを計画してくれていたのではないかと思う。その気持ちを不可抗力と
はいえむげにしてしまい、海藤はそれが心残りだった。
「・・・・・真琴」
しばらくの沈黙の後、海藤はその名を呼ぶ。
「帰ったら、一緒に祝ってくれるか?」
【・・・・・で、も、過ぎちゃってますよ?】
「お前が、今日は9月25日だって言ってくれたらいい」
日にちなど、本当はどうでもいい。海藤にとって大切なのは、真琴の笑顔とたった一言だけだ。数日過ぎようと、何カ月
過ぎようと、海藤にとっては真琴が祝ってくれるその日が誕生日だ。
「後少し、待っていてくれ」
【・・・・・はい】
「おやすみ」
【おやすみなさい】
真琴から電話を切れないとわかっているので、海藤からその言葉で電話を切った。
まだシャワーを浴びていないので付けたままだった腕時計を見れば、時刻はそろそろ午前一時になろうとしている。
今日一日無駄なく動けば、日付が変わらないうちに東京に戻れるはずだ。
「・・・・・」
その時、また携帯が鳴った。
一度電話を切った真琴が再び電話をかけてくるとは思わない。もしかしたら何か突発的な事件が起きたのかと急いで掛
かってきた相手を見た海藤は、その思いがけない番号に思わず目を見張った。
「・・・・・」
すぐには、電話に出れなかった。
しかし、相手は電話を切ろうとはしない。海藤はふと我に返って電話に出た。
「・・・・・はい」
【・・・・・起きていたか】
「まだ寝る時間ではありませんよ」
先ほどまでの真琴との電話とは違う淡々とした声が、自身では意識しないまま口から出る。
「何かあったんですか?」
以前にも狙われたことがあり、もしかしたらということが頭を過った。
海藤の携帯の番号は非常時のために教えていたが、今までプライベートな用件で掛かってきたことなどない。
今も変わらずに護衛は付けていて、何かあったという連絡はなかったが、万が一ということを考えて思わずそう訊ねてし
まった。
【・・・・・いや、今、時計を見てな】
思いがけないその言葉に、海藤は声が詰まってしまった。滅多なことでは驚かない海藤だったが、まさかあの人からこん
な言葉を聞くとは思わなかった。
それこそ、物心ついたころから、けして自分には向けられない眼差し。
どうしてだとかいう疑問も、なぜという不満も、多分始めから自分には生まれていなかったように思う。海藤にとって、そう
だということがあまりにも当たり前で、返って時折声を掛けてもらうことに戸惑っていた。
それは成長してからも同じで、この世界に入ってからはあくまでも同じ世界の先人だとしか思えない。
それが少しだけ変わったのは、それこそ真琴と出会ってから・・・・・。
「・・・・・私は、甘いものは食わない」
「私は食わないが、彼女は好きだろう」
伯父のこと以外を口にするのを、どのくらいぶりで聞いただろうか。真琴に対して返答をするとも思わなかったし、拒絶
しなかったことも驚いた。
【御前にお変りはないか?】
「元気ですよ。あなたから連絡をされていないんですか?」
【不必要な連絡はご心配をおかけするだけだ】
「・・・・・」
(相変わらずだな)
己の妻や子よりも、自分が仕えた伯父、菱沼のことを第一に考えるあの人らしい。
今、この時に電話をしてきたのも、きっと偶然なのだと思った。
【貴士】
「はい」
【・・・・・あの子も、元気か?】
「・・・・・え?」
一瞬、誰のことを言われたのかわからず、海藤は思わず聞き返してしまった。
「あの子って・・・・・真琴のことですか?」
【他に誰がいる。お前は大東組の理事になったそうだが、己にとって何が一番大切なのか、自分自身がわかっていな
ければな】
「・・・・・はい」
【もう遅いな。明日も大事な仕事があるんだろう、もう寝なさい】
「・・・・・おやすみなさい」
【おやすみ】
電話は切れた。
時間にすれば三分もない。沈黙の時間を差し引けばもっと短かったはずだ。それでも、海藤にとってはあまりにも濃密な
時間で、なんだか夢のような気がしてしまった。
たまたまだと、思った。伯父の様子が聞きたくて電話したのが、たまたま今日だっただけだと。
しかし、こうして電話を切って改めて思い返してみると、今の電話には内容といったものはなかった。伯父のこともまるで
話の繋ぎのように聞いてきただけで、その上真琴のことまで聞いてきた。
「・・・・・今日・・・・・」
もしかしたら、本当に海藤の誕生日ということで電話をしてくれたのだろうか。
祝いの言葉がなかったというのに、その事実だけが妙にくすぐったく思えてしまう。
「真琴・・・・・」
(お前がいたら・・・・・)
今、本当に真琴がここにいたらと切実に思った。きっと、このことを自分よりも喜んでくれるだろう。
早く知らせてやりたい・・・・・海藤はようやく長い息をついて携帯から手を離した。
妙に落ち着かない気分のままシャワーから出ると、遠慮がちなノックの音がした。
こんな時間に部屋まで訪ねてくる者など限られている。部屋の外には護衛もいるので危険な人物は近付かないとわかっ
てはいるが、それでも用心して海藤はドアロックを掛けたまま僅かに開けた。
「遅くに申し訳ありません」
「倉橋か」
「少し、よろしいですか」
もちろん否とは思わず、海藤は一度ドアを閉めてからロックを外すと改めて倉橋を招き入れた。
まだスーツを着たままの倉橋は手に小さな紙袋を持っている。
「何か緊急の連絡か?」
「・・・・・そういうわけではないのですが・・・・・」
なぜか、倉橋は口ごもって目を伏せた。
今回の同行は倉橋が自ら申し出た。海藤が大東組の理事になってから、その関係の仕事は意外にも綾辻の方が前に
出てやっていたのだ。
それは、けして能力の差ではなく、綾辻の方が大東組内部に顔が広いというだけなのだが、倉橋自身は内心いろいろ
思うことがあるらしかった。
今回のことも、電話を取り次いだ倉橋が海藤に直談判をしてきて、今回の同行ということになった。
今日も完璧な仕事で何の問題もなかったが、本人は何かを気にしているのだろか。そんな倉橋の気持を出来るだけ楽
にするように、海藤の方から口を開いた。
「真琴から電話があった」
「真琴さんからですか?」
海藤が意図したとおり、倉橋の表情が少し柔らかくなった。海藤にとって真琴が癒しであるように、倉橋にとっても真琴
は明るい光のような存在として好ましく思っているのだろう。
「・・・・・よかった」
すると、小さな呟きが倉橋の口からもれたのが聞こえた。
「倉橋?」
「ちゃんと、一番に言葉を交わせたのですね。・・・・・東京で、真琴さんといらっしゃるのなら、私などが出てくるつもりは
なかったのですが・・・・・」
そう言いながら、近くの応接セットのテーブルの上に紙袋を置くと、倉橋はその中から白い箱を取り出した。形を見れば、
中に何が入っているのかは海藤にもわかった。
「日中は、そんな時間もないかと・・・・・こんな時間に申し訳ないと思ったのですが」
倉橋の細い指が箱を開いた。
「・・・・・ケーキか」
「丸い誕生日ケーキを買う勇気はありませんでした」
倉橋らしくない冗談を言いながら、その耳は赤くなっている。そんな部下の顔を見つめてから、海藤は取り出されたケー
キに視線を向けた。
ごく普通のイチゴのショートケーキ。違うのは、今倉橋が立てたローソクだけだ。
「一本?」
「すみません、歳の数はとても立てることが出来ないと思いまして・・・・・」
「そうだな、立てたら穴だらけになる」
「・・・・・そうですね」
顔を上げた倉橋と目が合うと、自然に口元が緩んだ。倉橋も気恥ずかしそうにしながら少し笑みを浮かべている。
真琴や綾辻がいないと、言葉数の少ない自分たちの間には間や沈黙が多くなってしまうが、不思議と心地よい気がし
ていた。きっと、倉橋も同じだろうと思いながら、海藤はライターでつけてもらったローソクをじっと見つめた。
「会長」
部屋の明かりを落とした倉橋が呼びかけてくる。
「なんだ?」
「あの・・・・・歌は、申し訳ありませんが・・・・・」
さすがに歌を歌うのは恥ずかしいと訴える倉橋に、海藤もそこまで求めないと頷いた。
「ああ、構わない」
「・・・・・誕生日、おめでとうございます」
「ありがとう」
ふうっと、ローソクの炎を吹き消す。窓の外の月明かりが、意外なほど明るく部屋の中を照らしていた。
「真琴さんよりも早く祝ってしまって・・・・・すみません」
「いいや、嬉しかった、ありがとう」
愛する真琴と過ごす誕生日はもちろん嬉しいが、長年片腕として尽くしてくれた倉橋がこうして祝ってくれるのももちろ
ん嬉しい。
(・・・・・今までの倉橋ならなかったことだったな)
いくら仕える相手として海藤のことを考えてくれていた倉橋でも、昔の彼なら1人で祝おうという気にはならなかったと思
う。それほど、彼の心が柔軟に変化しているのだ。
その原因が何なのか、改めて追及することもない。
(こういう誕生日もいいものかもしれない・・・・・)
今日には東京に戻れるだろう。そうすれば、1日早い帰宅に真琴は驚くだろうが、きっと喜んでくれて改めて自分の誕生
日を祝ってくれるに違いない。
それを楽しみに、今は大切な友人であり、信頼出来る部下の心遣いに感謝しようと、海藤は倉橋に笑いかけた。
「これ、お前も一緒に食べてくれるんだろうな?」
end
意外に、海藤さんと倉橋さんが一緒にいる時間が好きなんです。