哲生&小田切編
それは、本当に偶然だった。
勤務中、スピード違反の車を取り締まり、全ての処理を終えて再び白バイを動かそうとした時、ちょうど信号が赤で車の
流れが止まった。
ふと、顔を上げて反対車線を見ると、高級外車の助手席に見慣れた姿を見つけた。
(え・・・・・?)
よく見知っている綺麗な人。常に笑みを絶やさない彼が、なぜか・・・・・涙を流している。
「裕(ゆたか)さん・・・・・?」
どうして、彼は泣いているのだろう?
いや、運転席にいるあの壮年の男は、いったい誰なんだろう?
宗岡(むねおか)は全く想像も出来なくて、しばらくその場から動くことが出来なかった。
警察官である宗岡哲生(むねおか てつお)の恋人は、自分よりも年上の小田切裕(おだぎり ゆたか)だ。
しかし、彼と自分の違いは歳だけではない。彼の職業は、警察官である自分の天敵、ヤクザだった。
職務中に出会い、夜の街で再会して、気持ちより先に身体が結ばれた。いや、きっとその時はもう、自分は小田切に
惹かれていたのだと思う。
同性だというのに、綺麗で。
それなのに、悲しいほどつれなくて。
それでいて、自分のことを甘やかし、翻弄する小田切を知るたびに、宗岡はどんどん好きという気持ちが強くなった。
そんな、小田切は自分のことを犬に例えるが、彼には他にも犬と呼ぶ関係の男達がいるらしい。
何度か会ったことのある彼らは、容姿も地位も選りすぐりの者達ばかりで、ただの公務員で、鍛えている身体だけが自慢
の自分とはまるで人種が違った。
小田切が、彼ら全員と身体の関係があったかどうかは分からない。聞くのは怖いし、実際にそうだったとしたら、嫉妬の
あまり彼をどうするか想像が出来ない。
だから、宗岡は自分からは《他の犬》のことは聞かないが、常に頭の中にあるのは確かだ。
そして、見てしまったのは・・・・・。
「・・・・・裕さん、ちょっといい?」
その日、マンションに帰った小田切は、シャワーを浴びてリビングにやってきた時に宗岡に呼び止められた。
「・・・・・」
今日は、宗岡の方が早く帰宅していた。公務員である宗岡の勤務スケジュールを全て把握している小田切は驚くこと
はなかったが、帰宅した時からじっと自分のことを見つめる視線は気になっていた。
(何か言いたいことがあるようだが・・・・・)
明らかに聞いて欲しいという態度なのが可愛くて、わざと無視していたが、どうやら当人の方が焦れてきたらしい。
「どうした」
「・・・・・」
ソファに腰掛けた小田切は、足を組みながら立ったままの宗岡を見上げた。
バスローブから覗く白い足をわざと見せ付けるように組むと、僅かに宗岡の頬が赤くなるのが分かる。もう何度もセックスを
し、互いの恥部を見せ合っているというのに、何時まで経っても芯は純情なのだろう。
(だからこそ、苛めたくなるんだが)
「哲生、なんだ?」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・今日、裕さん、誰と一緒だった?」
「誰?・・・・・何のことだ?」
宗岡が何を聞きたいのか、その言葉で想像してみるものの、小田切は全く見当がつかない。第一、こういう回りくどい
聞き方は好きではないと、はっきりと言えと言い放った。
「俺の知らない男の車に乗って、泣いてただろ?あいつに何かされたのかっ?それとも、あんな風に泣くほど、裕さん、あ
いつのことが・・・・・っ」
「泣いた?」
その言葉に少しだけ小田切の記憶が呼び起こされ、不意にあっと思い当たった。
(あの時・・・・・見ていたのか?)
今日、小田切は飼っている犬の一匹と会った。
別に色っぽい話ではなく、今の仕事上でいい情報源であるからで、向こうも小田切の役に立つのが嬉しいと、少し遅め
の昼食を一緒にとった。
その帰り、犬の運転する車に乗っていた小田切は、最近どの犬とも遊んでいないようだということを言われた。
役に立たない犬は飼わない主義の小田切が飼う犬は、もちろん財力もあるし、容姿も、頭もいい。小田切に本命が出
来たことを真正面から詰ることはなく、ただ、自分達のことを忘れないでくれという意図を伝えてくる。
可愛いと、思った。
今のところ、宗岡が一番可愛いとは思うものの、今まで可愛がってきた他の犬達への愛情が無くなったわけではない。
せっかく、力を貸してくれ、こうして完璧にエスコートをする犬にはご褒美が必要かと、小田切はポロッと涙を流していった。
「私は、一度自分の手の内にした者を捨てるような、残酷な真似は絶対にしない」
女は、芝居で涙を流せるというが、それは男の中にも当てはまる人間もいる。
ただ、それが意図的に流した涙だとしても、小田切の犬達への愛情に嘘はなかった。
(裕さん・・・・・黙ってる)
自分の目撃談を聞いて黙ってしまった小田切に、宗岡はギュッと拳を握り締めた。
「あ、あれって、浮気?」
「・・・・・」
「裕さんっ!」
「浮気って、お前が私に言うのか?」
「え・・・・・あ、だって、俺達・・・・・」
(俺達、恋人同士じゃないのか?)
一緒に暮らして、身体を重ねて。お互いを想い合っているのは、恋人という関係だろう。それならば、他の男(男同士とい
うのが微妙なのだが)と会って涙を流すとは、明らかな裏切りの一つではないだろうか。
(それとも、そう思っているの、俺・・・・・だけ?)
「裕さん、俺は・・・・・」
「私が、誰かの車に乗ったとして」
「・・・・・」
「その誰かに、涙を見せたとして」
「・・・・・」
「お前に非難される覚えはない。哲生、お前は私の大切な犬だが、犬は主人に忠実であって、可愛がられるものだ」
宗岡は反論しようとして・・・・・結局、何も言えなかった。唇を噛み締め、俯く自分が情けなくてたまらないが、確かに小
田切の口からはっきりと恋人と言われたことはないように思う。
(・・・・・情けない)
この世で一番愛している人に、相手にされないことが悲しくて、悔しい。
ここで小田切を詰って、彼が自分を切り捨ててしまう方が怖くて・・・・・それでも、今日はこれ以上小田切の傍にはいられ
ないと、黙って自室に戻ろうとした。
しゅんと、垂れた耳と尾っぽが見える。
小田切は唇を緩めた。
(可愛い奴)
もう少し強引に出てもいいと思うのに、根が優しいこの男は自分を責めることが出来ないのだ。そのままリビングから逃げ
るように出て行こうとした宗岡を見て、小田切は立ち上がった。
「哲生」
「・・・・・っ」
優しく名前を呼んでも、宗岡はなかなかこちらを振り向かない。それでも、その場からは動こうとしない様子に、小田切
は宗岡の前に回り、その顔を見上げた。
「私が、今一番可愛がっている犬はお前だ」
「お、俺は・・・・・」
「悪いな、私はこういう言い方しか出来ないんだよ」
苦笑混じりの言葉は、少しだけ本心が混じっている。それを誤魔化すように苦笑を浮かべた小田切は、そのまま宗岡
の首を掴み、グイッと下へ引き寄せて唇を重ねた。
引き結んだ唇を宥めるように舐めると、いきなり、噛み付くような性急な口付けを返してくるのが犬っぽくて、小田切は唇
を重ねたまま笑ってしまう。
(今日は、たっぷりと可愛がってやろうな、哲生)
嫉妬という、微笑ましい感情を見せてくれたこの可愛い犬を、どう苛めてやろうか。小田切は今夜の楽しみを考えなが
ら、自分から口付けをもっと深いものにしていった。
end