A nonaggression domain
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シャワーを浴び、リビングに戻ってきた江坂凌二(えさか りょうじ)は、携帯の着信音が鳴っているのに気がついた。
それは自分のものではなく、今この場にはいない恋人のものらしい。
「・・・・・」
無造作にローテーブルの上に置かれていた恋人の携帯を手に取った江坂は、全く躊躇うことなくそれを開き、液晶に出てくる電
話の相手を確認した。
「親か」
例え恋人でも、他人の携帯を見ることはあまり褒められるものではない。世間一般の常識はそうだとしても、江坂は自分のこの
行為に少しも後ろめたい思いなど無かった。これは、覗き見という行為ではなく、大切な者が余計な人間につきまとわれていない
か、問題は抱えていないか、全てを把握することに必要な行為なのだ。
それに、寛大な恋人はたとえ江坂が自分の携帯を覗いていたとしても、文句を言うほど狭い心の主ではない。
「・・・・・」
江坂が鳴り続ける携帯を閉じた時、丁度恋人がリビングに戻ってきた。
手にしていたのは教科書で、どうやら、今から勉強をしようとしているらしい。リビングにいた江坂の姿を見て、直ぐに顔を綻ばせ
た恋人は言った。
「江坂さん、あの、分からないところがあって・・・・・」
「静(しずか)さん、電話が鳴っていましたよ」
「え?」
「私が手に取った途端、鳴り止んでしまいましたが」
「え、誰だろ?」
恋人・・・・・小早川静(こばやかわ しずか)は首を傾げ、江坂の目の前でそれを開く。
「あ、父さんからだ。掛けてもいいですか?」
「どうぞ。こんな時間に掛けてこられるなんて急ぎでしょうから」
せっかくの2人の時間に、わざわざ割り込んでくるなんてどういうつもりだ・・・・・と、心の中で思いながらも、江坂は物分りの良い
恋人の顔を一切崩さずに促した。
江坂は、関東随一、そして、日本でも有数の広域指定暴力団、大東組の、30代で唯一の理事の1人だ。
最近組織内でも資金源の多くを占めてきている株の売買。
東大で経済を学んだことも考慮され、本部である大東組の中では江坂がほとんどその担当としての責任者になっており、相応
以上の成果をあげていた。
もちろん、組の仕事だけをしているわけではなく、組織内では理事という立場の江坂も、世に出れば会社の社長という立場も
あったが、そんな江坂が、数年という時間を掛けて手に入れたのが、大手ゼネコンの役員を父に持つ高校生だった小早川静(こ
ばやかわ しずか)だった。
幼い頃から、まるで日本人形のように整った容貌と透明な雰囲気を持つ静に一目で魅せられた江坂は、じわりじわりと静の父
親を追い詰め、父親の会社の筆頭株主となり、多額の援助をちらつかせて、まるで人質というように大学生になった静を手に入
れた。
静にとって良い大人、優しい大人、頼りがいのある大人と、江坂にすれば誠心誠意を持って接し、今では身も心も手にして、
恋人という関係になっている。
ただ、自分達や会社のために静を江坂に売ったくせに、今更ながら連絡を取ってきて、帰ってくるようにと説得している親兄弟
の存在は煩わしいかった。これが静と血の繋がった肉親でなけれは、とっくの昔に闇に葬っているところだ。
自分のことを心から愛してくれている静は、そんな親兄弟の申し出を苦笑しながら断ってくれていたが、これが今以上に頻繁に
なってくれば、江坂は実力行使で捻り潰してやると思っていた。
「え・・・・・」
「・・・・・」
電話を掛けなおした静は、最初は楽しそうに近況報告をしていた。そんなことをそんな風に笑いながら言うことはないだろうと思
うが、江坂は黙ったままコーヒーをたてていた。
その時、ふと静の口調が変わり、深刻そうに眉を顰めている。普段表情が乏しいだけに、江坂は静の驚きの原因が気になって
仕方が無かった。
「・・・・・うん、でも・・・・・」
「・・・・・」
(私?)
静は電話で話しながら江坂の方を見る。話題の中に自分の名前が出ているのだとしたら、割り込むことも構わないかと思った。
「どうしました?」
「あの・・・・・」
「ご実家がどうかされたんですか?」
「・・・・・よくは、分からないんですけど、業務提携を申し込まれているみたいで」
「業務提携?」
(そんな話は聞いていないが)
静には詳しい話をしていないが、彼の父親の会社には江坂個人が多額の出資をして、筆頭株主となっている。その自分に何の
報告も無かったと、江坂はめまぐるしく考えた。
確かにここ一ヶ月ほどは組の方の仕事が忙しく、株を持っている会社の内部にまで目を配ることは出来なかったが、部下からも
何も報告を受けていない。
ごく最近の話かもしれないが、もしかしたら部下達が見逃していたかも知れず、江坂は明日早速話を聞こうと思いながら、じっ
と自分の返答を待っている静に言った。
「私で力になれるかどうか分かりませんが、明日・・・・・午後、会社に伺うと伝えてください」
「で、でも」
「あなたの家族のことです、ぜひ協力させてください」
「・・・・・ありがとうございます」
静は頭を下げて礼を言い、そのまま電話口へと江坂の言葉を伝えている。
江坂はそれを聞きながらリビングから出ると、書斎に置いていた自分の携帯を取り出し、番号を押した。
【はい、何でしょうか】
コール2回で出た相手は、それが江坂からの連絡だと当然分かっている。もちろん、当たり前だと思う江坂は、相手に向かって
冷え冷えとした口調で言った。
「目を開けて仕事をしているのか?」
翌日、静には大学に迎えに行くからと言い、江坂は自分のオフィスへと向かった。
表の会社用のそこに車が着くと、エントランスには既に何人もの部下が待っていた。
「橘(たちばな)」
「申し訳ありません」
江坂が名前を呼ぶと同時に、橘英彦(たちばな ひでひこ)は頭を下げた。
30代半ばの橘は、ごく凡庸な容姿の持ち主だ。平均身長で、少しだけ痩せぎすで。眼鏡の奥の一重の目は、何時も穏やか
な笑みを浮かべて、少し鼻が低く、一見すればまだ20代半ばには見えてしまうほどの若い外見だった。
地方の二次組織にいたのを江坂が自らスカウトしたのは、男がその見掛けからは全く想像も出来ないほどのやり手であったから
で、江坂は自分が目が届かない仕事を任せるほどには信頼していた。
「やはり、動きはあったのか?」
「コンタクトを取ってきたのは半月ほど前のことのようです。その時は単に一分野における業務提携の提案だったようですが、い
ざ話を進める段階になると」
「あちらが優位だったと?」
「はい。私に話が上がってきたのは今朝です。私のミスでした、申し訳ありません」
「資料を」
それが江坂にとってどういう影響があるのかどうか、それが分かってから処分は考える。今はこの男以上に有能だと思えるもの
がおらず、一つの結果で全てを切ることこそがデメリットだと分かっていたからだ。
「・・・・・」
差し出された書類に目を通しながらエントランスを通り抜け、エレベーターに乗った江坂は眉を顰めた。
「外資か?」
「アメリカです。投資ファンド、ハーマングループ」
「・・・・・そんなに大手が、あの会社を?」
大手ゼネコンとはいえ、あの会社よりももっと大きく、優良な企業は幾つもある。それに、江坂個人の持ち株が半数以上なので、
買収するにはあまり良い条件ではないはずだ。
アメリカも厳しい経済状況の中、今日本の建築関係の企業に早々に金を出すとも思えず、返って江坂は妙な胸騒ぎを感じて
しまった。
「交渉相手は弁護士か?」
「それが、SVPが直接交渉しているようです」
「・・・・・」
シニア・バイス・プレジデント ・・・・・Senior Vice President (SVP)。日本の会社で言えば専務クラスだ。
まだ上には何人かいるとはいえ、交渉の段階でそういう立場の者が出てくるというのはかなり本気なのだろう。
「名前は」
「セオドア・ホッブズ」
「セオドア・・・・・」
「まだ33歳だそうです」
「・・・・・」
(若い、アメリカ人の男、か)
橘の用意していた書類には、ハーマングループの詳細・・・・・投資先や、役員達の略歴なども書かれていたが、今日本に来て
いるセオドアに関しては、1年ほど前に役員に就任したということ以外、ほとんど白紙といってもいいものだった。
「・・・・・」
江坂の沈黙の意味に、敏い橘は直ぐに気付いた。
「セオドア・ホッブズのことは、今現在調べさせてはいますが、申し訳ありません、それくらいしか」
「今回の話は、ハーマングループの総意か?それとも・・・・・」
「そこも、分かりません」
江坂は頷いた。不確かなことを吹き込まれるくらいならば、こうやって分からないとはっきり言われた方がよほど有益だ。
(それにしても、その話を筆頭株主の私に直接言わず、静を通して言わせるとは・・・・・)
いくら自分と静の関係を分かっているとはいえ、自分の息子を都合のいい時だけ利用するのは許せなかった。
今回のことが片付けば、それなりの対応は取らせてもらおうと、江坂は午後から時間を空けるために積まれた仕事の処理を始め
た。
午後2時、江坂は約束通り大学の校門が見える場所で車を停めた。電話で連絡をしていたので、静は5分も待たせること無
く走ってきた。
「遅くなってっ」
「走って来なくても良かったのに」
「だって、俺の家の問題なのに」
「私の問題でもありますね」
江坂が口元を緩めて言うと、静は嬉しそうに笑う。人形のようだと形容されるのは、その隙のない美しさからだが、それと同時に
ほとんど表情を変えないからという理由もあるようだ。
しかし、江坂に対しては鮮やかな(江坂の目から見て、だが)表情を見せてくれるので、とても人形だとは思えなかった。
「さっき、父に電話したら、兄と2人で待ってますって」
「ああ、お兄さんも経営に携わっておられますからね」
「最近は不況で大変らしくて・・・・・。なんだか、俺だけ暢気に大学に行っているのが申し訳ないくらい」
「静さん・・・・・」
(あなたが親兄弟に引け目を感じることなど全くないのに)
静の大学の学費、生活費は全て江坂が出している。愛する者の世話をすることは当然で、むしろ、他の者になど絶対に金銭
を出させたくは無かった。
それに、あまり優良な企業とはいえないが、静の実家であるあの会社は絶対に潰さない。
仮に、静の親兄弟が、今後経営から手を引くことがあれば、直ぐにでも融資を止めるつもりだが、そうでない限りは江坂は融資し
続けるつもりだった。
(そんな私の事情を分かって縋ってくるんだからな・・・・・)
綺麗な心を持つ静と同じ血が通っているのかと思えるほどに、あの親兄弟は狡猾だ。もちろん、それくらいでなければ、今の時
代を乗り越えることは出来ないだろうが。
「・・・・・大丈夫かな」
「静さん」
「俺、会社のことはよく分からなくて・・・・・。何も出来ないことがもどかしいです」
「まだ学生なんですから当然です」
「・・・・・」
「学生の間は、それが許されるんですよ」
いや、静が望むのならば、大学を卒業してもずっとこのままでいてもらってもいい。むしろ、江坂自身はそう望み、自分の腕の中
にずっといてくれる方が嬉しかった。
(それにしても・・・・・気になる)
あれからオフィスを出る寸前まで情報を待っていたが、結局今回の交渉人であるセオドア・ホッブズのことは分からないままだっ
た。それが、江坂には気になるのだ。
「・・・・・」
江坂は、自分の隣に座る静を見つめる。
綺麗な綺麗な、静。日本人形を思わせる美しさを持つ静ならば、欧米人が興味を持ってもおかしくはないのではないか。
(・・・・・まさかな)
アメリカの投資ファンドが、日本の一企業の、それも経営に携わっていない青年と接触を持つ可能性はほぼ無いはずだ。
その人物が静を欲しがるために億単位という金を掛けるとは・・・・・とても思えない。
「・・・・・江坂さん」
「大丈夫ですよ、静さん。きちんと話を聞けば、どうともない話かもしれません」
「・・・・・だと、いいんですけど」
静はそう小さく呟いて目を伏せる。その細い肩を抱き寄せた江坂は、不安だろう心を宥めるように髪に唇を落とし、何度も大丈
夫だという言葉を静に言い続けた。
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江坂&静の新章。
こんな始まりですが、話はもちろん恋愛話です。またしばらく、お付き合いください。