A nonaggression domain












 江坂と静が大手ゼネコン、小早川商事の地上30階、地下2階の本社ビルに着いたのは、午後3時を丁度指した頃だった。
 「約束通りですね」
助手席から降りた橘が後部座席のドアを開けてくれ、先に下りた江坂が手を差し出してくれる。女ではないのにと思うものの、一
方ではこんな風に大切にしてもらうことが嬉しくて、静は少し頬を緩めて礼を言うと、素直に手を差し出して江坂の手に重ねた。
 「行きましょうか」
 さすがにビルの中に入ってしまうと江坂も手を離し、それでも気遣うように腰に手をあててくれる。
広い玄関ロビーには何人もの人々が行き交っていたが、そんな者達の視線はチラチラと江坂に向けられていることに静は気付い
た。
(どんな職業に見えているんだろ)
 端整に整った容姿に、掛けているフレームスの眼鏡が怜悧さを際立てていて、海外ブランドのダブルのスーツと上等のコートを
隙無く着こなしている様は、とてもヤクザを生業にしているとは思えないだろう。
 案の定、女子社員達はこちらを見て騒ぎ立てていて、静はちらっと隣を歩く江坂を見上げた。
 「どうしました?」
 「え、あ、いえ」
男ならば鼻が高いその光景も江坂にはただの風景としか映っていないらしく、その代わりに自分の僅かな表情の変化の方を直ぐ
に気付いてくれる。
特別なんだ・・・・・静は笑った。




 ザワッ

 空気が揺れたのが分かる。
セーターにダウンジャケットを着ている、その格好だけなら普通の若者に見えるだろうに、静の人形のように綺麗に整った容貌は
着ているものだけでは誤魔化せないらしい。
(だから、不特定多数のいる場所には連れ歩きたくないんだが)
 ここは静の親兄弟が役員をしている場所で、まだ少年の頃からパーティーに連れ出されていた静の顔を知っている社員も当然
いるはずだ。
現に、何人かの壮年の男があっという顔をして近付こうとしたが、江坂は眼鏡の奥から凍えるような眼差しを向けて牽制をした。
 「・・・・・3時に約束をしていた江坂だが」
 「え・・・・・さか、様?」
 「社長と約束をしていたはずだが」
 「あっ」
 そのまま受付に足を運ぶと、2人の受付嬢は一瞬息をのんで江坂の顔を見つめ、次の瞬間顔を赤らめた。自分がこの会社の
筆頭株主であることは聞いているのかもしれないが、これほど若いとは思わなかったのかもしれない。
 名前を聞いて、途端に意味深な熱っぽい眼差しを向けてくる受付嬢に、江坂はもう一度淡々と言った。
 「社長に連絡をしてくれないか」
 「は、はいっ」
 「・・・・・」
(うちの部下なら、今この瞬間にクビだな)
 どんな相手でも、それがアラブの大富豪でも、殺人を犯した犯罪者でも、常に冷静に、平等な態度を取れるのが会社の顔で
ある受付の仕事だと江坂は思っている。
 仕事を結婚までの腰掛けに考えているような女に期待するだけ無駄だろうと、江坂は案内しようとする声を断り、社長室の場
所を聞いて、そのまま役員用のエレベーターへと乗り込んだ。
 「静さん、知っている方はいましたか?」
 「え?・・・・・あ、全然見ていなかったから・・・・・」
 「そうですか」
 それは、親兄弟を心配していたせいか、それとも、その目に映っていたのが自分だけだったからか。どちらにせよ、静の視界の
中に余計な姿は映っていなかったことに安堵し、江坂は物言いたげな静に笑んで見せた。

 29階の役員用フロアーに着くと、エレベーターの前では連絡を受けていたらしい迎えの人間が立っていた。
 「兄さん」
 「静」
それは、今は課長としてこの会社に勤めている静の兄、駿一(しゅんいち)だった。
今年27歳になる駿一は顔立ちは静に全く似ていなかった。何度か会ったことのある父親をもう少し気弱にした感じだが、性格も
押しが弱く、跡継ぎとしては難しいだろうと江坂は内心思っていた。
 「元気だったか?最近電話が無くて、親父も心配していたんだぞ」
 「うん、ごめん、学校が忙しくて・・・・・でも、兄さんだってもっと早く電話してくれたら良かったのに」
 「・・・・・悪いな、なんか、情けなくて」
 小早川商事は静の祖父が兄弟と共に立ち上げた会社で、その祖父は亡くなって、今はその弟が会長に、そして静の父親が社
長だ。
本来順当に行けば静もこの会社に勤めたのだろうが、江坂は自分が追い詰めたからとはいえ、静を金のかたに差し出したこの家
族のもとへは二度と返さないつもりだった。
 「・・・・・江坂さん」
 「お久し振りですね、駿一さん」
 「はい」
 細々としたやり取りは全て部下に任せていたので、駿一には片手で数えられるほどしか会ったことは無かった。静の兄という意
識以上のものは全くない。
 「まさか、こんなにも思いがけないことでお会いするとは思ってもみませんでしたが」
 言外に、筆頭株主であり、最大の資金提供者である自分に、この時点まで何も言わなかったことを責めると、駿一は青褪め
た顔色をして俯いた。
 「兄さん、大丈夫?」
 「社長室に案内してもらいましょうか、静さん」
 静が駿一に手を伸ばしかける寸前でそう遮った江坂の言葉に、静は直ぐに振り向いて頷く。
 「では、案内して下さい、駿一さん」
(どんな馬鹿なことをしでかしたのか、洗いざらい吐いてもらわないとな)
静が悲しむようなこと、悩むことなどはさせられないと、江坂はゆっくりと足を踏み出した。




 「父さん・・・・・」
 久し振りに会った父はそれ程容貌は変わってはいなかったが、話を聞いたせいか少し痩せた感じがしたし、どこか落ち着きもな
いふうに見えた。
(やっぱり、仕事が大変なんだ)
 「江坂さん、わざわざご足労頂いて申し訳ありません」
 自分の息子ほどの相手に向かって立ち上がり、頭を深く下げる父に、江坂は穏やかにいいえと言葉を返してくれる。
 「大切な静さんの大切なご家族のためです。私が出来ることがあれば喜んで協力しますよ」
きっぱりと言い切る江坂の声は落ち着いていて、彼に任せれば安心だろうと心の底から思える。思わずほっと安堵した静に強く頷
いてくれた江坂は、父に視線を向けて言った。
 「今回のこと、詳しく話していただきましょうか」

 父の話を要約すれば、今回は中国の公共事業の入札から端は発したようだった。
中国でのかなり大きな仕事。小早川商事だけではなく、日本や海外からも何社も参加したが、その時競い合っていたアメリカの
企業から、共同出資会社の話が出たらしい。
 資金はアメリカの投資ファンド、ハーマングループが出し、条件面でも優遇すると、話を聞くだけではあまりにもこちら側が有利過
ぎて、最初は二の足を踏んでいたのだが、その間に他の競争相手が数社共同出資をして会社を新設するという話が出て、父は
結論を急がねばならなくなった。
 そして、契約条件の書類が送られてきたのだが、それは驚くほど当初の条件とは違い、小早川商事が一番不利なものになって
いた。

 「でも、契約はまだしていないんだろう?」
 まだ話し合いの段階でここまで深刻になるのかと静は思ったが、父は兄に視線を向け・・・・・兄は父の机の上から数枚の書類
を持ってきてテーブルの上に置いた。
 全て英語で書かれているので静は一瞬では何が書かれているのか分からなかったが、江坂はそれを手に取り、視線を走らせ
て、やがて大きな溜め息をついて言った。
 「仮契約にサインしたのは拙かったですね」
 相手の会社の出資は全てハーマングループが負担するものの、返済は新会社の負担。それでは、自らも出資している小早川
商事は相手の借入金の負担も同時にすることになってしまう。
 「最優先の交渉相手だという証だと言われて・・・・・」
 法的拘束力は無いからと、和やかな口調で言われて信じてしまったことを今更後悔しても遅かった。
 「この仮契約を破棄した場合、違約金として1億ドル請求するとあります。今の円で計算すれば、単純でも88億円」
 「88億っ?それって、でも、無茶な話なんじゃあ・・・・・」
 あまりにも桁外れの金額に静が思わずそう言うと、江坂はええと頷く。
 「確かに、本契約ではなく、仮契約、それもまだ条件面が確定していない書類上のことなので全額払うことはないでしょうが、
それでもあちらは契約書を重視する国ですからね、最悪半額出すことになりかねません」
半額でも44億だ。全く何の仕事もしていないのに、そんなお金を会社が払えるわけがない。
 「それに、運良く請求金額を抑えることが出来たとしても、風評被害というものもあります。信用ならない企業のレッテルを貼ら
れたら、それこそお終いでしょうね」
 問題は日本国内で収まるものではありませんからという江坂の言葉に、静はことの深刻さをヒシヒシと感じて拳を握り締める。
父や兄はどうしようもなくなって江坂に相談をしてきたのだろうが、江坂にとっても簡単に片付けられる問題ではないのではないか
と思った。




(生温い仕事をしているから、こんな詐欺みたいな話に引っ掛かるんだ)
 小早川商事は大手ゼネコンとはいっても主に日本国内が主なシェアで、だからこそ堅実な商売をしてこられたのだ。
昨今の不況のせいで海外に、それも金があるとされる中国に目を付けたのはいいが、それにきちんと対応出来る腕のいい弁護
士や社員を用意していないまま取引をしようというのは、度胸がいいというか、単に馬鹿なのか。
 「・・・・・」
 書類に不備はない。これをアメリカの裁判所に提出されたら当然違約金は払わなければならないし、もしかしたら更に賠償金
を言い渡される可能性はある。
(88億か)
 少々金額は大きいが、用意出来ないことはない。静のためにも、満額さっさと渡して話を終わらせた方がいいのだろうが、こん
な紙切れのためにそれほどの金額を出すというのも・・・・・少々面白くない。
 それに、いくらハゲタカと言われている投資ファンドでも、こんな詐欺ギリギリの手段をとってくるとは、そこに何らかの別の思惑
があるのではないかと江坂は感じていた。
 「・・・・・相手のSVPが来られているようですね」
 「ええ。実は今夜も会うことになっていまして」
 「・・・・・では、私も同席させてもらえませんか?」
 「あなたも?」
 「私は筆頭株主ですからね、同席したとしてもおかしくはないでしょう?」
 小早川側の話は聞いたし、書類も確認した。今度はハーマングループのSVPに直接話を聞けば全容も分かるだろう。
セオドア・ホッブズという男がどういう思惑で小早川商事に近付いてきたのか、実際に会うまでは明確な判断はしない方がいいと
思った。
 「こちらは・・・・・助かります」
 「では、静さん、私はこのまま同行しますから」
 江坂は静を振り返り、甘く優しい声で言う。目の前の小早川や駿一に向けるものとは明らかに違う声音。
自分と静の関係をしっかりと分からせるような声に、目の前の2人の男が複雑そうな顔になった。
 「あ・・・・・俺は、あの」
 「心配なのは分かりますが、マンションで待っていてください、ね?」
 「江坂さん」
 「大丈夫ですよ、私に任せて下さい」
(あなたのためなら、どんなことだって出来るんですから)
それこそ、静の大切な家族を、そうとは知られないままに闇に葬ることだって可能だ。それをしないのは、単に時間と労力の無駄
で、後は仮にも静と同じ血を引いているということだけだった。




(任せていいんだろうか・・・・・)
 自分の父、そして兄が関係することだというのに、江坂にだけ負担を掛けていいのだろうかと静は思う。
ただ、88億と聞いて、あまりの桁外れの金額に声も出なかった自分とは違い、江坂の表情には少しの驚愕も見えなかったし、英
文の契約書を一読しただけで理解したくらいだ。
(任せた方がいいかもしれない)
 自分が下手に口出しをすれば、返って江坂の行動の妨げになるかもしれないだろう。
 「・・・・・分かりました、お願いします」
 「ええ、安心して待っていてください。そう遅くにはならないと思いますから」
 「はい」
江坂の言葉に頷き、静は父に視線を向けた。
 「父さん、江坂さんに任せていれば安心だよ」
 「静・・・・・」
 「信頼出来る人だから、信じて」
 「・・・・・そうだな」
 白髪が目立ってきた父は、静の言葉に苦笑しながら頷いた。父も、江坂に頼ることが今自分が出来る最良のことだと思ってい
たのだろう。
 「兄さんもね」
 「・・・・・ああ」
 兄は頬が強張ったままだったが、それでも頷いてくれる。
(俺、こう言うことしか出来ないけど・・・・・)
それでもというようにもう一度江坂を見ると、彼は書類に目を通しながら、それまで黙って傍に立っていた橘に次々に指示を出し
ている。
専門用語が飛び交うその言葉は静には分からなかったが、動揺の無い響きの良い言葉を聞いているうちに、静は彼に頼めば
絶対に大丈夫だと確信出来た。