A nonaggression domain
12
『』は英語です。
江坂はドアをノックする音に顔を上げた。
時計を見上げれば丁度正午を過ぎた頃で、午前中の取引も終わっている。日本の時差に合わせて動いている各国の支社の
報告が上がってくる頃だった。
「失礼します」
中に入ってきた橘が、江坂の前にデーターが羅列された書類を差し出した。それにざっと目を通した江坂は、顔を上げて橘に
確認する。
「一週間か」
「はい」
「条件は、一ヶ月で10億」
「最低ラインがそうです。本日一週間目で2億8千万。新しい会社に移ったばかりというのは、この世界では言い訳にならないこ
とは十分分かっているでしょう」
セオドアが江坂の息が掛かる会社のニューヨーク支社に入社して一週間。
しかし、江坂は以前の実績だけで判断はしなかった。実際に使える人間かどうか、その最低限の条件としたのが、一ヶ月で10
億の利益を生むというものだ。
元金は1億。どの会社、どの製品に力を入れるか、全てを本人に任せ、その結果で正式に自分の手の内に入れるかどうか判
断する気だったが、どうやらこのペースで行けば目標は達成しそうだ。
「もしかしたら、失敗した方が良かったんでしょうか?」
「・・・・・手駒は多い方がいい」
「・・・・・」
「それを動かすのはお前の役割だ」
「はい」
橘はその言葉に深く頷いたが、その後で少しだけ苦笑を浮かべながら口を開いた。
「3時に、5分間だけ時間を貰いたいと連絡が来たのですが、私の判断で受けました」
「5分?」
そんなに短い時間で話が済む相手なのかと思ったのも一瞬で、江坂はその相手が直ぐに想像がついてしまった。
「・・・・・受けたのか」
「嫌なことは早く済ませた方がよろしいかと。私でも対応出来ますが・・・・・」
「・・・・・私が会う」
「はい」
自分に従順ながらも、はっきりとものを言う橘。その物言いが柔らかであるだけに、頭から怒鳴ることも拒否することも出来ない。
有能だと引き抜いてきた男だが、自分の側で鍛えているうちに大きく化けたなと、凡庸な顔に浮かぶ笑みに江坂も僅かに口元を
緩めた。
そして、午後3時きっかり、その訪問者は現れた。
「お忙しいところを時間を割いていただきまして」
慇懃無礼な物腰や言い様は、聞きようによっては人を小馬鹿にしているようにも思えるが、これがこの男の元々の性格なのだと
思えば目を瞑ることも出来た。
どちらにせよ、この男とは滅多に会うことはなく、自分の部下でもない。
「あれは役に立ちましたか?」
「・・・・・問題があれば言っている」
「そうでしょうね、あなたは意外に感情を表に出す方ですし」
「・・・・・」
冷静沈着といわれる自分をそんなふうに表現するのはこの男くらいだ。
(よほど、以前のことを根に持っているのか)
以前、この男がまだ大東組におり、自分も理事という地位ではなかった時、どうしてだか一度だけ、酒の席で隣り合わせになる
ことがあった。
どちらも若手の中では突出していると言われていた時で、他人に興味のない江坂もさすがにその存在を知っていたが・・・・・。
「江坂さん、あなたはここで何になるつもりです?組長まで上り詰めたいですか?」
突然、ほとんど面識のない江坂に、男はにこやかに笑いながら話し掛けてきた。
「・・・・・私は、自分に相応しい地位にいるつもりです。過分な望みは身を滅ぼしますから」
この世界に身を置いて、大組織のトップに立つというのは普通に見る夢だろう。もちろん、江坂もそこまでいくのは無理だと思った
が、それに近い場所まで行くのは無理ではないと思っていた。
そんな思いを隠し、社交辞令的な範囲で答えたのだが、それを聞いた男は確かに綺麗な顔に楽しそうな笑みを浮かべ、耳元
に唇を寄せて言ってきた。
「あなた、今何も手にしていないでしょう?」
「・・・・・」
「それを手に入れた時も同じことを言えますか?」
「・・・・・っ」
なぜかその時、江坂は自分の中の空虚な部分を見透かされたような気がして頭にきて、持っていた水割りを男の顔に掛けた。
宴席での突然の江坂の暴挙に、その場は一瞬静まり返ったが、掛けられた当人が濡れた髪をかきあげ、にっこりと笑みを浮かべ
て言った。
「ありがとうございます、江坂さん。飲み過ぎて火照った身体が少し鎮まった。ふふ、いい香りに包まれて、今夜は楽しい狩りが
出来そうですよ」
あれはけして借りではない。それでも、この出来事で江坂の中に男への苦手意識が色濃く生まれたのは確かだった。
「見返りに望むものは何だ、早く言え」
「ああ、橘さん、私はコーヒーではなく、水をお願い出来ますか?」
江坂の言葉に答えず、男・・・・・羽生会会計監査である小田切裕(おだぎり ゆたか)は、側に控えていた橘にそう言う。
(どういうつもりだ?)
なかなか用件を切り出さない小田切に、それでも帰れとは言わなかった。この男への借りは増やすだけ危険だということはよく分
かっている。
静に対して用意した薬を実際に使ったこともあり、江坂は小田切が切り出すのを待った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
グラスに注がれた水。一度それに視線を向けた小田切は、江坂に向かって言う。
「昔のこと、覚えていますか?」
「・・・・・」
「私はこう見えて執念深いんですよ」
「・・・・・それを私にかけたいというのか?」
もう、何年も前の、それも酒の上での出来事だったが、江坂が覚えているように小田切も忘れずに覚えていたのだろうか。
(・・・・・まあ、いい)
水を掛けられたくらいで感情が荒ぶることは今の自分には無い。それくらいで小田切が帰るというのなら構わないと、江坂は深く
椅子に座り直して言い放った。
「好きにしろ、私は動かない」
間は、一瞬だった。
小田切はグラスを持って立ち上がると、そのまま江坂の前に立つ。
「以前よりも随分懐が大きくなった。いずれ組長になるのも夢ではないかもしれませんね」
「興味はない」
「ふふ」
笑みと共に、空気が揺れた。江坂は頭から水を掛けられることを覚悟したが・・・・・。
「・・・・・!」
いきなり目の前に小田切の顔が現れたかと思うと、唇に柔らかなものが触れた。キスをされたのだと思った瞬間、江坂は目の前の
小田切の胸倉を掴もうとしたが、予め予測していたのかするっと身をかわした小田切は、グラスをテーブルの上に置きながら笑う。
「あなたのその驚いた顔で全て帳消しです。この水は口直しにどうぞ」
「小田切!」
「失礼します」
恫喝するような江坂の言葉にも笑みを崩さず、小田切はヒラヒラと手を振って部屋から出て行った。
グラスの水を全て飲み干し、そのまま手の甲で唇を拭った。濃厚なキスではないものの、あれだけでも強烈な印象を残したあの
男の痕跡は消えない。
「・・・・・何を考えているんだ、あいつは」
昔からその考えが読めなかった男だが、ますます理解不能な言動をする。
「小田切さんは、理事をお好きなのでは?」
「・・・・・橘」
「その言葉のままですよ」
(小田切が私を?・・・・・同族嫌悪しか感じないが)
表現方法は全く違うが、江坂は自分と小田切には似たものがあると思っていた。もちろん、嬉しいなどと思うわけが無く、出来れ
ば違うと言い切りたいが、多かれ少なかれこの世界で生きるものには似かよったところがあり、どこか覚めた目でこの世界をも見て
いる自分と、捻くれた考え方をしている小田切は、同類だといってもいいのかもしれない。
「・・・・・こんなもので、全てを白紙か」
昔、酒を掛けたことも。
今回、怪しい薬を用意させたことも。
「・・・・・これくらいで済めば安いものか」
「・・・・・」
わざとそう思い込もうとする自分の気持ちが分かるのか、橘の頬に浮かぶ笑みは消えることは無かった。
「よしと、これで終わりだな」
キャベツをカートに入れた静は、メモに書いていた項目を見ながら言った。
既に大学も冬休みに入り、静は何をするでもなくマンションで過ごしていた。本当は友人のようにバイトをしたかったが、江坂の反
対を押し切ってまでとは思わず、その代わりのように家事に熱心に取り組んでいた。
神経質そうな外見とは違い、かなり大雑把な静ではあるが、好きな人のためにと動くことは苦痛ではなく、今は料理作りに勤し
んでいた。
結構好き嫌いの多い江坂の嫌いなものをいかに食べさせることが出来るか、それを考えるのが楽しいのだ。
「お持ちします」
「あ」
買い物中は一切姿を見せなかった護衛の1人が、店から出てきた静のエコバックを取った。
「いいです、車まで直ぐなのに」
「直ぐですから、構いません」
言葉尻を取られてしまってはそれ以上言うことも出来ず、静はありがとうございますと礼を言ってから男の後を付いていく。
「あの、江坂さん今日は・・・・・」
「理事は午後7時頃帰宅されるはずです」
「7時頃・・・・・」
「あなたの作った料理を楽しみにされているんではないでしょうか」
男の言葉の中に僅かな笑みが感じられ、静は思わずその横顔を見てしまった。
(気のせいじゃ・・・・・ないよね)
必要以上の接触は取らないようにと命じられているのか、護衛をしてくれる男達は滅多に私語は言わない。しかし、長く側にいて
くれる相手だ、その僅かな変化は分かるようになっていた。
「早く帰ってくれるなら、一品は一緒に作ろうかな」
「・・・・・喜ばれますよ」
「はい」
平穏な日常が戻った・・・・・静はそう感じた。
マンションのエレベーターの扉が開き、そのまま自分の部屋の前まで歩いていった江坂は、
「お疲れ様でした」
そう言って頭を下げる部下達に軽く頷き、インターホンを鳴らしてから鍵を開けた。
(・・・・・味噌の匂い?)
夕食を用意してくれているらしい静の顔を思い浮かべて口元が緩むと、直ぐに本人が玄関まで出迎えに来てくれた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
何気ない挨拶を交わし、江坂は静の肩を抱きながらリビングへと向かう。
「何を作っていたんですか?」
「モツ鍋です。美味しくて新鮮なモツだって言われて初挑戦ですよ」
「・・・・・モツ鍋ですか」
頭の中にその映像が浮かび、僅かに眉間に皺が寄ったのは静に見られていないだろうか?
「ヘルシーだし、すっごく美味しいって作り方習ってきましたから。あ、江坂さんにも手伝ってもらおうと思って仕事残していたんで
すよ?」
モツを切る役ですと満面の笑顔で言われては、触りたくないと拒否することは絶対に出来ないだろう。せめて手袋をつけることは
許してもらいたいと思った江坂は、その前にエプロン姿の静の身体を抱きしめた。
「え、江坂さん?」
「口直し、させてください」
「え?」
「不味いものを口にしたので、静さんのキスで忘れたいんです」
少しだけ懇願するように言えば、静は苦笑を浮かべながらそのまま背伸びをしてキスをしてくれる。触れるだけではなく、舌を絡め
る濃厚なキスに江坂は満足した。
「んっ」
ピチャッと水音をたてながらキスを解けば、静の唇が濡れているのが分かる。江坂はもう一度合わせるだけのキスをして、静に笑
い掛けた。
「静さんのキスは甘いですね」
「・・・・・っ、そ、そんなこと・・・・・っ」
「・・・・・次は、あれに挑戦か」
「い、一緒に頑張りましょう。2人で作ったらきっと美味しいですよ」
静のその笑顔だけでも満足な江坂だったが、まさかあれを触るのが嫌だからと、せっかく作ってくれた静の料理に手を出さないこ
とはしたくない。
(噂では、美味いと聞いたことがある。匂いも・・・・・普通だし)
後は、これが新鮮なものだと言った店の人間の言葉を信じるしかないだろう。
(不味かったら、店を潰してやる)
「着替えてきますね」
「はい、待ってますから」
静は江坂用のエプロンを手に持って頷いている。江坂はその笑顔に笑みを返して自室に向かいながら、今後静にどうやったら自
分にとって安全な(見た目も含む)食材を選ばせることが出来るかを考えていた。
(・・・・・人の、静の心は、なかなかコントロール出来ないからな)
「あなた、今何も手にしていないでしょう?」
「それを手に入れた時も同じことを言えますか?」
不意に、頭の中に浮かんできた小田切の言葉。今、同じようなことを聞かれたら間違いなく答えられる。
(自分に相応しい地位を掴む。静をこの手の中から逃さないために)
静以上に望む存在はいない江坂にとって、これから登るだろう階段は全て必要なものだ。けして自分には過分なものではないと
思い、江坂は待ってくれている静のもとへと早く戻る為に部屋のドアを開けた。。
end
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