愛情の標



プロローグ






 「お電話です」
 海藤は顔を上げて倉橋を見た。
何時もなら相手の名前を言うはずなのだが、倉橋はそれ以上何も言わない。
もともと海藤に直接電話を繋げるというのはある程度の立場の人間で、名前を出さないというのは社内ではタブーとなって
いる人物なのだろう。
 ふと、ある人物の名前が浮かんだ。
海藤にとっては意味の無い、しかし絡みつく因縁の相手だ。
 「・・・・・」
 一瞬の間の後、海藤は電話を取った。
 「何の用だ」
いきなりな言葉に、相手も直ぐに言葉を続けた。
 『最近毛色の変わったペットを飼ったようだな』
 「・・・・・誰から聞いた」
 『お前の噂は直ぐに広まる』
 「身元も漏れているのか」
 『詳しいことはまだだな。いずれ出てくると思うが・・・・・どういう関係だ?』
 「お前に言う必要があるのか?」
 『知りたくも無い話だがな』
 こうして電話で話すのは2年ぶりだろうか・・・・・実際に会ったのはそれよりも前だ。
海藤にとっても相手にとっても、お互いが目に入る範囲内には立ち入らないのが暗黙の了解になっているのだが、どうして
も交差してしまう事柄がある。
海藤自身は関係ないと一刀両断出来るのだが、相手にとってはそうもいかないのだろう。
 『せいぜい首輪でもして閉じ込めておくんだな』
 「・・・・・そうだな」
 『・・・・・』
 何時もなら無視するだろう言葉を肯定した海藤に、相手は多少なりとも驚いたように息を呑む。
しかしそれ以上は何も言わず、電話は唐突に切れてしまった。
 「・・・・・」
 電話を切った海藤は、目を閉じて考えた。
電話の相手が言っていたのは間違いなく真琴のことで、思っていたよりも早く相手がその情報を掴んでいたのが意外だった。
(あいつには興味がない話だろうに・・・・・)
海藤の愛人の話など、相手は知りたくもないはずだろう。事実、今まで海藤が関係を持ってきた女達のことを口に出したこ
とは一度もない。
 今までの相手とは違い、真琴が本当に普通の一般人だということが、かえってもっと他に理由があるのではと思う要因な
のかも知れない。
(まさかと思うが・・・・・真琴に会うことはないだろうな・・・・・)
 海藤が生まれて初めて、欲しいと思った存在。
何の見返りもなく、愛情を注いでくれる存在。
ヤクザというリスクを承知で手を取ってくれた存在。
(確かにどこかに閉じ込めて誰にも見せたくないな)
 これ程に誰かに溺れたことはなくて、海藤自身今だ戸惑っている自分を自覚している。
 「漏れるのは時間の問題だと思っていたがな」
 「護衛を増やしましょうか?」
倉橋の言葉に、海藤は首を振った。
 「いや、今以上増やしたら、かえって萎縮するだろうからな」
 「では、筒井と海老原に、今以上気をつけさせましょう」
 「ああ」
頷きながら、海藤はふと電話の相手の言葉を思い出す。
(ただ知らせるためか、それとも・・・・・)
 「社長、今日の会食はどうされます?」
 海藤の思考は、倉橋の言葉で途切れる。
今日の食事の相手は表の会社で付き合いのある相手だが、考えれば海藤自身が相手をすることもない。
 「誰かあいてるか?」
 「綾辻に行かせましょう。どうせフラフラしてるでしょうから」
綾辻に関しては毒舌な倉橋は、本人に了解を得ないまま勝手に予定を入れ替えた。
 「そろそろ、真琴さんの終業時間ですね」
 「・・・・・帰る」
 「はい」
最近の海藤の予定は真琴の生活に合わせることも多い。
優秀な秘書でもある倉橋は全てを心得て、何時でも海藤にとっての最善を選んでいた。