赤い鎖



10






  − それから −



 誰かを受け入れたら、何かが変わるかと思っていたが・・・・・・。


 「か〜つ〜み〜」
 目の前の机の上に顎を乗せてしゃがみ込み、情けなく自分の名を呼ぶ男の顔を倉橋はじっと見つめる。
 「・・・・・みっともない」
 「なによ、それ!それが愛しいダーリンに言う言葉なのっ?」
 「誰がダーリンですか」
倉橋にとっては嵐のようなあの一夜が過ぎても、自分達の関係に目に見えた変化は無かった。
あの翌朝、日が昇らないうちに目が醒めた倉橋は、自分を抱きしめるようにして眠っている綾辻の顔を見て急に恥ずかしくなり、
そのまま逃げるようにホテルを出た。
腕の中から抜け出す時や、服を着る音など、綾辻が気が付かないはずはないのに、呼び止められることなく部屋から出ること
が出来た。
 その日は先に帰ったことを詰られはしたが、あくまでも冗談交じりの優しい口調で、倉橋は反対に恥ずかしく、申し訳なく思っ
てしまったくらいだった。
 「今日は夕飯付き合ってよ」
 「駄目です。社長のお供がありますから」
 「え〜、今日はマコちゃんとの食事でしょ?」
 「招待されたんですよ、真琴さんに。たまには一緒にどうですかと」
 目に見えた変化は無いものの、倉橋は頑なだった自分の心が少しずつ柔らかくなっているのを自覚している。
前の自分だったら、海藤と真琴の邪魔をしないようにと頑なに拒否をするであろう誘いも、相手の好意を汲み取って付き合お
うと思う心の余裕が出来た。
(これも、綾辻さんの影響か・・・・・?)
 「あなたもご招待されていますよ」
 「ホントッ?社長の奢りなら高いもの食べれるわね〜」
 「・・・・・」
 「な〜に、克己」
 「・・・・・いえ」
(本当にこの人とあの夜の人は同一人物なのか?)



 一度肌を合わせた安心感からか、綾辻の気配は以前と同じ穏やかなものになって、ここ最近感じていた追い詰めるようなゾ
クゾクした空気は消え失せていた。
拍子抜けとはいかないが、こうも変わるのかと思ってしまうくらいの変化だ。
 「克己」
 「はい?」
 「今日もお利口にしていた私に、ご褒美は?」
 「・・・・・はいはい」
呆れたような溜め息の後、倉橋は一瞬綾辻に唇を重ねた。



 それでも・・・・・目に見えた変化が一つ。
それは倉橋から綾辻にキスをするようになったことだ。
相変わらず綾辻はディープなキスを仕掛けてくるが、倉橋はそこまでしない、本当に重ねるだけのキスをする。
綾辻はそれが嬉しいらしく、人の目がなけれは頻繁に要求してくるが、倉橋がそれに答えるのは10回に1回・・・・・いや、最近
は5回に1回になっている。
 「・・・・・ふふ、克己の唇って柔らかくって甘いわよね」
 「何言ってるんですか」
 少し恥ずかしくなってしまった倉橋は、手持ち無沙汰に眼鏡に手を掛け、この後の海藤のスケジュールを確認し始める。
その様子に、綾辻は諦めたように言った。
 「克己の1番は何時だって社長よね〜」
 「当たり前でしょう。私は一生をあの人に預けてるんですから」
 「まあね〜・・・・・じゃあ、2番目は?」
綾辻の聞きたい答えは分かっているが、倉橋はあくまでも正直に答えた。
 「今は真琴さんですね。彼には社長とずっと一緒にいて頂きたいし・・・・・彼自身、とても魅力のある青年ですから」
 「・・・・・こらこら。ダーリンの前で他の男を褒めないのよ。3番目は?私でしょ?」
 「いいえ。今までは開成会と言うところですが・・・・・私自身でしょうか」
 「克己自身?何だか意外ね、克己が自分が大事って言うなんて」
 「そうですね。今までなら、社長や組の為なら命など惜しまなかったし・・・・・自分にそれほどの価値があるとも思いませんでし
たが・・・・・」
 「・・・・・」
 不意に、背中に温かいものが被さる。
何時の間にか傍に来た綾辻が背中から抱きしめてきたのだ。
 「・・・・・そんな淋しいこと言うな。俺の方が辛い・・・・・」
ほとんど同じ身長なので、綾辻の吐息は直ぐ耳元で聞こえ、心臓の鼓動も自分の心臓で感じられる。
倉橋は苦笑して、自分の胸の前で交差している綾辻の腕をポンポンと叩いた。
 「だからですよ」
 「・・・・・」
 「私が死んだらあなたが泣くでしょう?大の男を人前で泣かせられませんからね、せいぜい自分の身体を大事にします」
 「克己・・・・・っ」
 綾辻の強い想いに答えられるほど、克己はまだ人の思いを信じることが出来ない。
それでも、誰かの為に今まで価値の無いものだと思っていた自分というものを大事にしようと思えたのは・・・・・間違いなく綾辻
の影響だ。
 「俺もっ、お前の為に絶対死なないからな!」
 「あなたは大丈夫ですよ。撃たれても切られても、ゾンビみたいに死ぬことはないでしょう?」
 「なんだ、それは」
 文句を言おうとした綾辻の口は、倉橋の次の言葉を聞いて止まった。
 「そんなあなただから、私も安心して傍にいれるんですよ」
失うことの辛さも、去られる恐怖も超越して、綾辻はずっと自分の隣にいるだろう・・・・・倉橋はそう確信していた。
そこにははっきりとした恋愛感情はまだ無いが、今の自分には一番いい位置なのかもしれない。
(綾辻さんには悪いが)
 「克己、次は何時だ?次こそ最後までやるぞ!」
 「下品ですよ」
 「いいからっ、次はっ?」
 「・・・・・私が欲情した時に」
 「え・・・・・」
 「その時はお願いします」
今までさんざん翻弄されたのだ。これぐらいの意趣返しは可愛いものだろう。
綾辻相手に一本取ったとほくそ笑んだ倉橋は、海藤に連絡を取るために電話に視線を向けた。



 倉橋の頬に浮かぶ笑みを見て、綾辻は苦笑を零した。
自分ではお預けした気分なのだろうが、言葉の端を取れば『欲情させれば次がある』と、いうことだ。
倉橋よりもかなり経験値の高い綾辻にとって、それはさほど難しいことではないだろう。
(お前が言ったんだからな、克己)
早ければ今夜、遅くとも近い内に、倉橋は完全に綾辻の手に堕ちてくる。一度手にすれば・・・・・鎖でがんじがらめにしても離
すつもりは無かった。
 「綾辻さん、行きましょうか」
 「はいはい」



可愛く愚かな愛しい人を手にするのは・・・・・もう直ぐだ。



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