海上の絶対君主
第六章 亡霊の微笑
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※ここでの『』の言葉は日本語です
「一応、な」
口から出まかせを言っても直ぐに分かる相手なので正直にそう言うと、アズハルは黙ってラディスラスの腕の怪我を診始める。
特に痛みを感じさせるわけではない手つきで治療を終えたアズハルは、薬を箱に直しながらようやく口を開いた。
「前にも言ったかと思いますが、お互い同意ならば私は反対しません」
「もちろん、同意だぞ?」
その気持ちに温度差があったとしても、自分はもちろん珠生もちゃんと想いを返してくれている。
それはアズハルも分かってくれているようで、だからですと言葉を続けた。
「タマとあなたでは経験の差があるんですから。あなたがきちんと導いてあげないと、タマが堕落してしまいます」
「堕落って、あのなあ」
そこまで無軌道じゃないぞと言い訳をしたいが、アズハルは珠生に会う前の自分のことも良く知っている。
けして褒められた生活ではなかったことを珠生にばらされるよりは、やはりここで大人しく説教を聞いていた方がいいかもしれない。
そんな打算で大人しくしていると、何を思ったのかアズハルはにやりと口元に笑みを浮かべた。
「まあ、これからのあなたはもっと誠実になるでしょうけど」
「なんだ、それは」
「エーキが乗っていることを忘れてはいないでしょう?いくらあなたでも、父親の前で息子に手を出すことは出来ないでしょうし、
タマもエーキの側を離れないかもしれません」
「あー・・・・・そうだったな」
(これからはエーキも一緒に旅をするんだった)
当初はミシュアの側に残ると思っていた瑛生がエイバル号に乗りたいと言った時、ラディスラスは珠生のように反対する気は起き
なかった。
理由は、瑛生ではないので分からないものの、そうしなければならないと思うことがあったのだと理解出来たからだ。
料理上手で豊かな知識もある瑛生が同船するのは十分な戦力なのは確かだ。だが、考えたら珠生の父親である彼の存在
はかなり大きな意味を持ちそうだ。
「・・・・・」
眉間に皺を寄せて黙り込んだラディスラスを見てアズハルは悪戯っぽく笑う。人が悪い笑みだなと思いながらも、今更どうしよう
も出来なかった。
何とか洗濯を済ませた珠生は、それを干してもらうのは他の乗組員に頼んだ。
出来ればそこまで自分でしたかったが、揺れる船の上では珠生は危なかしいと言われてしまった。ラディスラスだけでなく、他の乗
組員も少し過保護だと思うが、せっかくだからと好意を受け、珠生はそのまま踵を返したが。
「・・・・・どこ行こ・・・・・」
再びラディスラスの元に行くのは恥ずかし過ぎで出来ない。まさか、また同じことがあるとは思えないが、珠生から言い出したこと
をしつこくからかわれそうだ。
(でも、父さんのとこに行くのも・・・・・)
それもまた、後ろめたい。
「タマ?」
「!」
突然後ろから声を掛けられた珠生は、それこそビクッと飛び上がってしまった。
焦って振り向くと、そこには怪訝そうな表情をしたラシェルが立っている。ラディスラスがまだ自由に動けない今、船長代理として一
番忙しく動き回っているのがこのラシェルだ。
「あ、え、えっと」
「ラディの側にいたんじゃなかったのか?」
「いっ、いないよ!」
即座に否定したのは良かったのかどうか。じっと見つめてくるラシェルの視線が真っ直ぐすぎて居たたまれないが、珠生は何とか
ごまかすように強張った笑みを浮かべた。
「さ、さっきまでいたよ。でも、寝てる」
「そうか。今はまだ海も穏やかだからな、休んでくれた方が助かる」
「助かる?」
「そうでなくても自ら動く男だからな。怪我をした時くらいは周りを信用して任せて欲しい」
「そっか」
(確かに、全部自分でしたそうだもん)
船長であり、海賊の頭でもあるラディスラス。本来は一番後ろでデンと構えているのが本当だろうが、何でも面白がる性格から
かじっとしていないのは珠生でも分かる。
そんなラディスラスを周りの皆心配していて、せめて怪我の最中くらいは大人しくしていて欲しいという気持ちも理解出来た。
「ラシェル、大変」
「はは、でも、そんなラディだからこそ付いて行こうと思ったんだ」
「・・・・・そっか」
ミシュアがジアーラ国に戻った今、ラシェルが望めば彼も元の地位に戻れたかもしれない。それなのに、海賊という追われる立場に
留まったのは、それだけラディスラスに魅力があるからだ。
そう思うと、何だか珠生まで嬉しくなる。自分が好きな相手が仲間達から慕われるのはやはり気分がいいものだ。
「タマも、今のうちゆっくりしておけ」
「ありがと。でも、俺元気だから」
「・・・・・そうか」
目を細めて髪を撫でてくれるラシェルの雰囲気はとても柔らかく、珠生も目を閉じてその感触を追おうとしたが、不意に頭にあった
ラシェルの手が離れた。
(え・・・・・?)
「ラディは?」
「ピンピンしていますよ。明日からでも十分働いてくれるんじゃないでしょうか、ね、タマ」
「ア、アズハル?」
手に薬が入った箱を持ってこちらにやってきたアズハルは、焦る珠生に向かってにっこりと微笑みかけてくる。綺麗な笑顔は何時
もならば見惚れるのに、なぜか・・・・・今は少し怖い。
(目、目が怖い?)
「・・・・・」
「・・・・・」
アズハルは常に優しい微笑を絶やさないが、なぜか今の彼は妙な雰囲気というか・・・・・怒っているのか、怒っているとしたらそ
のわけはと、考えれば考えるほど珠生の頭の中はパンクしそうだ。
すると、グルグル思考が渦巻いている珠生の様子に気がついたのか、アズハルの笑みが意味を変えた。仕方が無いと、何だか
手の掛かる子供を見つめているような優しい笑みになった。
「大丈夫ですよ、タマ」
「え?」
「悪いのはすべて、獣のあの人ですから」
「ア、アズハル・・・・・」
それがどういう意味なのか、聞きたかったが・・・・・やはり怖い。
取り合えず、アズハルの怒りの中には自分はいないようだと何となく分かり、父さんのところに行ってくると言ってその場から逃げ出
してしまった。
甲板を走ったら危ないと注意しようと思ったのに、珠生の姿はあっという間に見えなくなってしまった。
ラシェルは改めてアズハルを見、先ほどの言葉を頭の中で考える。
(また・・・・・何かしたんだろうな)
アズハルが怒るようなことを、珠生絡みで何かしたのだろうと安易に想像が出来、ラシェルは苦笑を零す。
「あまりタマを怖がらせるなよ」
「そんなに顔に出ていました?」
「ああ」
「・・・・・私が呆れているのはあくまでもあの人に関してですよ。子供のタマは流されたのだという風に理解しています」
「だったらいいが」
ラディスラスと珠生が恋仲だというのは誰の目から見ても明白だ。どれ程ラディスラスが珠生を思っているかを一番側で見ているラ
シェルは、複雑な自身の気持ちを優先することはとても出来ない。
「ジアーラを出たこと、本当に後悔はしていないんですね?」
口を閉じ、俯いたラシェルがどう見えたのか、アズハルがそう訊ねてきた。
心配をすることなどないのにと、ラシェルは顔を上げて真っ直ぐアズハルを見つめ返す。
「俺は、ラディと、皆と、前に進みたい。その気持ちに嘘は無い」
「・・・・・分かった」
離れていても、ミシュアのことは思えるし、これからは堂々と国に帰ることも出来るだろう。
だからこそ、今度は本当に自分の好きな道を歩んで生きたいと思った。
甲板から船内へと駆け込んだ珠生は、引き返すことも出来ずに食堂に向かうことにした。
夕食の仕度をしているらしく、細い廊下を歩いている時からいい匂いが漂ってくる。
(・・・・・お腹、空いたかも)
少しだけ摘み食いをさせてもらいたいなと思いながら開け放されていたドアから中を覗けば、丁度こちらに向かって歩いてきた父
と目が合ってしまった。
「どうしたんだい?」
まさか、ラディスラスの元から逃げてここまで来たのだとは言い難く、珠生は穏やかな父の笑みから微妙に視線を逸らす。
ラディスラスと何をしたのか、言わなければバレないとは思うが、視線を合わせただけでも分かってしまうのではないかという恐れも
あった。
「あ、えっと・・・・・」
「なんだ、タマ、腹が減ったのか?」
厨房にいたジェイも、父の声でこちらを向いた。直ぐに食べ物のことを訊かれるのは恥ずかしいが、これまでも何度も同じようなこ
とがあったのでまたかと思われたのかもしれない。
「・・・・・少しだけ」
「エーキ、この蒸かし饅をやってくれ」
「ジェイ、あまり甘やかすのは・・・・・」
「餌付けしてしまった者の責任だ」
「え、づけ?」
呆れたような溜め息をつきながらジェイの元に戻った父は、その手に大きな蒸かし饅を手に戻ってきてくれた。
どうやら乗組員達のおやつらしいが、一足先に味見をさせてくれるらしい。
「・・・・・いただきます」
そう言ってパクッと一口口に含む。ふっくらとした皮の甘さと、中の肉餡の甘辛さが程よくマッチして、コンビニで食べた肉まんの比
ではないほど美味しい。
「おいしい!」
「そうか」
厨房から出てきたジェイが珠生の向かいに座り、父が隣に座った。
「タマは本当に美味そうに食ってくれるから作り甲斐があるよ。エーキもそうだったんじゃないか?」
「ええ。好き嫌いもないし、下手な私の料理も何時も美味しいと食べてくれたから」
「だって、ホントに美味しいんだもん!」
母が亡くなってから随分長い父子生活だったが、父は何時も手を抜くことなく、時には珠生も巻き込んで楽しく食事作りをしてく
れていた。けして高価な食材を使っているわけではないが、父が作ってくれるものは何でも美味しかった。
(でも、これからはみんなも食べるんだ・・・・・)
父の料理の腕前を皆が褒めてくれるのは嬉しかったが、これからずっととなると少しだけ寂しい思いもある。
『俺って、我が儘』
小さく日本語で呟いてしまった愚痴を聞き取ったのかどうか、父が優しく頭を撫でてくれた。他の誰よりも、もしかしたらラディスラス
よりも一番優しいかもしれない手。
(これも、王子のものになると思っていたけど・・・・・)
どういう決意をしたのか、父は珠生と共にエイバル号に乗ることを望んだ。それでも、これがずっとではないと心のどこかで思う。
何時か父は、ミシュアの元に行くだろう。
(それまで・・・・・俺が甘えてもいいよな)
夕食の仕度をしなければならないと言われた珠生は、再び甲板に戻る。
先ほどまでは青空だった空が、今は少しだけ赤く染まりかけていた。
「・・・・・綺麗だなあ」
どの国の海も、とても青くて綺麗だ。泳げたらいいのにと思いながら下を覗けば、グッと腰を掴まれた。黙ったままこんな真似をす
る相手はただ1人だと、珠生は慌てず振り向く。
「・・・・・寝てなくていーの?」
「お前がいないと退屈でしかたない」
笑いながら言うラディスラスだが、多分船のことが気になって横になっていられないのだ。ただ、ほんの少し、その理由の中に自分
のことが入っていたらいいなと思う。
「これから、どこ行く?」
今度は何をするという目的もなく船は進んでいるはずだ。ラディスラスはいったいどうしようとするのかと気になった。
「さあな。そろそろあいつらも暴れたいだろうし」
「・・・・・カイゾク、する?」
「怖いか?」
どうなのかと訊かれたら、怖いと答えるしかない。それでも、ラディスラスと共にいたいと思う気持ちは強かった。
「怖いか?」
そう訊ねたラディスラスに、少しして珠生は言う。
「だいじょーぶ、俺、男だし」
珠生らしい返答に、それでも自分に付いてくるといった意思を感じ取り、ラディスラスは嬉しくなって笑みを浮かべた。
「お前が男だっていうのはよーく知ってる」
「え・・・・・ラ、ラディッ!」
「いてっ」
バシバシと、それでも怪我をしていない方を叩いてくる珠生の顔は真っ赤になっている。可愛くて可愛くて、ラディスラスはグイッと
珠生を抱き寄せた。
「新しい旅立ちだ、タマ」
もう、声を押し殺して泣く亡霊もこの世にはいない。
高揚する気持ちのまま頬に口付けしたが、どうやら珠生も許してくれるようだ。
愛する者との新しい船出の先に何があるのか、ラディスラスは腕の中にある温かな存在を強く抱きしめたまま青い海を見つめた。
end
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