CALM MAN






                                                                  
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 都内の公立高校である瑛林(えいりん)高校の日本史の教師、紺野雅人(こんの まさと)は、小テストの採点つけに余念が
無かった。
 体格は平均より小さく見えるし、顔も童顔で、大人っぽく見せるために掛けている伊達眼鏡も返って逆効果。元は男子校で、
今も女子の数が少ない中、同じように小柄な雅人は何時も自分よりも体格の良い生徒達から、からかわれていた。
(あ〜、焦る〜っ)
 雅人は今年初めて3年生を担任したのだが、その仕事内容は聞いていたそれよりもかなり大変で、多忙だった。
進学率が高い学校なので、ほとんどの者が大学進学を希望しているが、中には専門学校に行く者や、就職する者もいて、個
人個人の対応に追われる毎日だ。
 11月というこの時期には、大学の推薦や専門学校の合否、就職希望者の進路はほぼ決まったが、一般入試は今からが本
番で、雅人は目の回るような忙しさだった。

 「大丈夫か?」
 「あ、すみません」
 労わりの言葉と共にコーヒーカップを置いてくれた相手を見上げた雅人は、頭を下げて礼を言った。
3年先輩の数学教師、松居駿平(まつい しゅんぺい)は去年3年生を担任したので、色々と雅人にアドバイスをしてくれる。
年配者が多い中、数少ない若い同性の教師なので、雅人も松居を頼りにしていた。
 「お前、少し頑張り過ぎじゃないか?」
 「え?」
 「本番は1月だぞ?それまでにお前が倒れちゃ笑えないだろ」
 「・・・・・分かってるんですけど・・・・・」
(それでも、全員に合格してもらいたいし・・・・・)
 国語も、数学も、英語も、理科も。
出来れば全部フォローしてやりたいが、自分自身が大好きな日本史以外の成績はギリギリだったので、とても今の受験生に教
えることなんて出来ない。
だからこそ、せめて社会科だけは完璧にと思い、連日小テストを続けているのだが、生徒の方がまだエンジンが掛かっていないと
いうか、のんびりしたムードがある。
(半分が姉妹校の付属に進学だしなあ。俺の時みたいにガツガツしていないのかもしれないけど・・・・・)
 それでも、じっとしているのが落ち着かない雅人は、今日ももう午後8時だというのに帰ろうという気さえしていなかった。
 「とにかく、今日はもう止めろ。一緒に飯食いに行かないか?」
 「松居先生とですか?」
 「何だ、不満か?」
 「い、いいえ、嬉しいです」
先輩風を吹かさない松居は、それでいて一緒に飲みに行った時は何時も奢ってくれる。酒に弱く、食事量もさほど多くない雅人
が相手だからなのかもしれないが、それでもありがたいし、嬉しい。
 「じゃあ、急いで片付けます」
 「はは、慌てるな、ちゃんと待ってるから」




 帰り支度を整えて、松居が乗ってきた車へと向かうために、2人は並んで校舎の裏側の職員用駐車場に向かっていた。
 「あ、お酒は駄目ですからね?」
 「え〜、飲むのが楽しいんじゃないか」
 「飲酒運転は駄目です。それに、明日も学校があるんですよ?」
 「はいはい。お前、俺の彼女か?」
 「あのですねえ・・・・・あ」
あまりにも馬鹿馬鹿しいことを言う松居に言い返そうとした雅人だったが、不意に鳴った携帯電話に一瞬気を張り詰めた。
この時期は様々な問題・・・・・受験ストレスが原因の万引きや飲酒など、問題が起こりやすいと聞いていたので、電話が鳴るた
びに緊張するのだ。
 松居も、軽口は止めて、じっと雅人を見ている。とにかく急がなくてはと、雅人は相手が誰からかと確認する前に慌てて通話ボ
タンを押した。
 「はいっ、瑛林高校の紺野ですが!」
 『・・・・・お前は、何時も学校名を名乗るな』
 「・・・・・はあ?」
 『名前だけでも十分だと思うが、それも教師の決まりごとか?』
 「ああっ!」
淡々とした声に、雅人はようやく大声を上げた。




 それから30分後、学校の校門前に立っていた雅人は、近付いてきた車のヘッドライトに眩しくなって目を細めた。
ライトは直ぐに落とされ、続いて助手席から男が降りてきて一礼すると、
 「お待たせしました、どうぞ」
そう言いながら、後部座席のドアを開けてくれる。
 「す、すみません」
 これが初めてではないが、こんな運転手、世話付き車に乗るのは何時まで経っても慣れなくて、雅人は深く一礼してから後部
座席を覗き見た。
そこには、先ほど自分の携帯に連絡をしてきた男が、冷然とした表情で座っている。男らしく整っているのに、どこか綺麗な容貌
に一瞬見惚れてしまっていた雅人は、男がこちらを向いて口を開くまでその場に突っ立っていた。
 「何をしている、乗らないか」
 「あ、いえ、あの」
 「寒い。さっさと乗ってドアを閉めろ」
 「あ」
 確かに、11月の夜はかなり冷え込む。
暖房の効いた車の中に夜風の冷たさを持ち込むのは申し訳なくて、雅人はまだ気持ちが揺れているままに車に乗り込んでしまっ
た。
 「待ったか?校舎の中にいれば良かったのに」
 「もう閉めた後だったんですよ」
 「・・・・・」
 「えっ、ちょっ、宇、宇佐見(うさみ)さんっ?」
 いきなり男に手を取られて、雅人はなんなのだと慌ててしまうが、そんな雅人の反応は一切無視して、男はふんと眉を顰めた。
 「こんなに手が冷たいじゃないか」
 「あ、いえ、だから」
(そっちがいきなり連絡をしてきたからでしょうっ?)
男からの電話が無ければ、あのまま松居と夕食を食べに行っていたのだと心の中では言い返すものの、何だか威圧される雰囲
気にそれを口に出すことは出来なかった。

 男と知り合ったのはこの夏の夏休み。
夏休み中の繁華街のパトロール中、いかにもな男達に絡まれている生徒を見つけた雅人が、助けるつもりが自分まで追い詰め
られてしまった時、突然姿を現した。
 隙の無いスーツ姿と、男らしい美貌。しかし、それ以上に雅人が目を引かれてしまったのは、感情の動きを全く見せない静かな
眼差したっだ。
 多分、男にとっては雅人達を助けるという意識はなく、チンピラみたいな男達への負の感情だけで動いている・・・・・そんな感じ
だったが、そのわけは、男の職業を聞いて分かったような気がした。

 警視庁組織犯罪対策部第三課、警視正、宇佐見貴継(うさみ たかつぐ)。
難しい部署名を聞いても分からなかったが、男・・・・・宇佐見が警察の人間だということは分かった。チンピラみたいな男達に対
する態度も、そのせいかと思ったが、礼を言った雅人に一瞥を残した宇佐見はさっさとその場を立ち去ってしまった。

 本来なら、それで終わりのはずだった。
その時逃げた生徒は後でたっぷり灸を据えたし、教師と警察の、それも上の方の立場の人間と会うことはないだろうと漠然と考
えていた雅人だったが、それから数日後、街中で偶然宇佐見に再会した。
 その偶然に雅人は驚いたが、宇佐見も驚いたらしい。
会話は数分で、その時も直ぐに別れたのだが・・・・・今度は宇佐見が雅人の勤務する学校にわざわざやってきた。

 これはもう、偶然ではなかった。
彼の目的がいったい何なのかは分からないが、それから思い出したように宇佐見は学校にやってきた。
 それは、雅人がいる時とは限らなかったようで、ある日、2回ほど不在の時があったという話を聞いた雅人は、自分の携帯番号
とアドレスを宇佐見に教えた。
警察官である宇佐見がその番号を悪用するわけが無いと思っていたし、職種の全く違う相手と話をするのは・・・・・雅人が9割
がた話しているのだが・・・・・結構楽しかった。
 言葉数は少なく、時々物言いがきついものの、宇佐見の話は面白く、この毛色の変わった知り合いとの出会いを雅人は幸運
だったと思うようになってきたのだが・・・・・。




(それでも、何時も急なんだよな)
 宇佐見の仕事柄仕方ないのかもしれないが、それでも雅人も仕事を持っているのだ、何時でも彼に付き合えるという保障は
無い。
そもそも、今日は先に松居が誘ってくれたのに、彼の誘いを断る羽目になってしまった。

 「お前、最近その男とよく会ってるよな?警察官だって言ってたけど・・・・・大丈夫なのか?」

 もちろん、大丈夫だ。警察手帳も見せてもらった。
警察官という一括りの説明では説明しきれないとは思うものの、宇佐見が信用出来る男だというのは間違いないと思う。
(もう少し、当たりを柔らかくしてくれたらいいんだけど)
 「夕食はまだだろう?鮨でいいか」
 「あ、ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
 「なんだ?」
 「前回ご馳走してもらったので、今回はお、私がっ」
 前回、宇佐見に中華料理をご馳走してもらったが・・・・・。

 「夕食に付き合ってくれ。何が食べたい?」
 「え・・・・・と、じゃあ、ラーメンとかどうですか?」
 「中華だな」

雅人の認識では普通のラーメン屋のつもりで、内心宇佐見には似合わないかもと思っていたのだが、連れて行ってもらったのは
本格的な中華料理店だった。個室で、高級食材ばかり使った料理はかなりの金額だったと思う。
 「・・・・・」
 「その、あまり高級な店は無理で・・・・・回る寿司なんて、食べないですよね?」
 「回る寿司?・・・・・何だそれは」
 その質問は、助手席に座っている部下らしい男に向けられたものだ。塚越(つかこし)という名の男は、少しだけ口ごもっている。
今時回転寿司を知らない人間はほとんどいないだろうし、《回る寿司》という以上の説明をどうしていいのか困っているに違いな
かった。
(絶対、箱入り息子だよなあ、この人)
 「・・・・・言葉通り、回っている寿司です」
 「・・・・・」
 「寿司自体が回転しているわけじゃなくて、寿司を乗せた皿がレーンに載って、客席を回っているんですよ。リーズナブルで、最
近は美味しい店も多いらしいです、ねえ、紺野さん」
 「は、はい」
 「しかし、さすがに警視正をそこにお連れするのは無理ですねえ。警備の問題も有りますし」
 「あ・・・・・やっぱり」
 雅人が思っている以上に、宇佐見は地位のある人間のようだ。
それならば仕方が無いと思い、雅人は年に一度か二度しか使わないカードの利用を決意した。ごく一般的なこのカードならば、
ある程度の店ならば通用するだろう。
(ボーナス払いにすればいいか)
 「宇佐見さん、普通の鮨屋って私は知らないので・・・・・」
 「回る鮨屋に行こう」
 「・・・・・え?」
 「警視正」
 「職務を離れたら私も一般市民だ。警視総監でもあるまいし、一々護衛など必要ない」
 「・・・・・」
 どうしようかと、雅人はバックミラー越しに塚越を見るが、塚越も苦笑を浮かべているだけだ。上司が自分の言うことを曲げない
ということをよく知っているのだろう。
 「・・・・・紺野先生、店はこちらで選んでもよろしいですか?もちろん、ご予算は配慮しますので」
 「は、はい、お任せします」
(いいのか?回転寿司で・・・・・?)
 幾ら最近は美味しくなってきたといっても、一流の鮨屋とはやはり味が違う。
皿に乗った寿司を宇佐見がどんな顔をして見るのか楽しみではあるものの、暢気な自分とは違い宇佐見の回りはかなり大変な
のだろう。
(・・・・・素直に、奢られていた方が良かったかも・・・・・)
 携帯電話で色々と連絡をしている塚越の声を聞きながら、雅人はちらっと隣に座る宇佐見の横顔を見た。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
怒っているわけではないだろうが、あまり感情を表情に出さない宇佐見は、自分との時間を楽しんでいるのかどうか全く分からな
い。
どうして、自分に会いに来るのかなと、改めて考えるが、それを宇佐見に直接訊ねても、分からんという答えが返ってくるだけだ。
(もう少ししたら飽きるかもしれないし)
 違う職種の人間とは話をするだけでも勉強になる。雅人はそう意識を切り変えると、あっと思い出して慌てて口を噤んだ。
(松居先生に謝っておかなくちゃっ)
せっかくの誘いを直前で断ってしまった松居に、とにかくもう一度ちゃんと謝っておきたい。車の中では無理なので、店に着いたら先
ず電話をしようと思った。