CHANGE
プロローグ
その日、最大指定暴力団、大東組系羽生会の事務所の中は、凍えるように冷たい雰囲気に支配されていた。
「認められねえな」
「理由を言ってもらえますか?ただ駄目だと言われて引き下がるのでしたら、私は子供の使いじゃありませんか」
「そっちこそ、10日も休みたいって理由をちゃんと言え。俺が納得出来ることだったら認めてやろう」
「・・・・・横暴ですね」
「お前が我が儘なんだろう」
どこの世界に理由も言わず、10日間もの休みを欲しいという部下がいるのだと思う。
ここは有給休暇がもらえる普通の会社ではなく、一般的な常識など通用しない場所だということを本人だって良く知っているはず
だ。
何時もは言葉で言い負かされてしまうが、今回だけは引き下がらないと、上杉滋郎(うえすぎ じろう)は冷たく整った小田切の
顔を真っ直ぐに見つめた。
「いい加減、諦めて吐け」
羽生会会長である上杉には、弱いものが2つある。
先ずは、最愛の恋人である、高校3年生の苑江太朗(そのえ たろう)。
身体は小柄ながら元気一杯で、学校ではみんなに可愛がられているマスコット的な存在らしいが、その実性格は男っぽく、一本
筋が通っている。
自分に対しても堂々とものを言って、時々ドキッとさせる太朗を、生意気だと思っている自分の顔は常ににやけているだろう。
女は選び放題だった上杉を、たった1人で満足だと思わせる20歳近くも年下の太朗に、情けないが上杉は俗に言うメロメロだっ
た。
そして、太朗とは全く違った意味で、上杉が負けてしまうと思っているのが、実質羽生会の全てを取り仕切っている会計監査役
の小田切裕(おだぎり ゆたか)だった。
元々は上部組織の大東組から預かったのだが、居心地が良かったのか羽生会に居付き、上杉もその手腕を頼りにしているとこ
ろはある。
ただし、この会派の代表である上杉を全く上の人間と見ていない言動や、そのSっ気たっぷりな性格はかなり扱い辛く、困ったと
いう状況も少なくはない。
それでも小田切の優秀さはそれを十分補うものだったが、今回のことにはさすがの上杉も口で負けるということは出来なかった。
「申し訳ありませんが、明後日から10日間、休ませていただきます。その間一切連絡を取れませんので、携帯を掛けても無駄
ですから」
(普通、うんと頷くか?)
上杉は眉を顰めて小田切を見つめた。
元々堅苦しいことが嫌いな上杉は、自分が縛られることは嫌いだ。それでも、携帯で連絡を取ってこられれば出るし、何より理由
のない休暇は取ったことがない。
《太朗を可愛がること》というのは理由にならないと小田切によく言われるが、それでも他のことで休むことなど無く、これくらいは
大目に見てもらってもいいだろう。
片や、小田切はそんな自分の手綱をしっかりと握っていて、時折飼っている犬を可愛がるためだと休みをもぎ取っていくが、どう
やら今回の休みはそんな色っぽいものではなさそうだ。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・おい、何か言え」
「言うことは先程伝えた通りです」
「小田切〜」
滅多に怒ることはない自分の睨みは組員でさえ恐れるというのに、小田切は涼しげな表情を崩さない。
どうしてやろうかと思うものの、この小田切が口を開かない理由を聞くことはなかなかに難問で、上杉は腕を組んで唸ってしまった。
普通ならこういうやり取りは上杉の部屋か、もしくはその部屋に続く廊下でするのだが、たまたま上杉が息抜きで部屋から出て、
事務所にやって来た時に小田切が言い出した。
運悪く事務所にいた組員達は、その冷ややかなやり取りに生きた心地がしていないだろう。
「・・・・・」
(・・・・・ったく、強情な奴・・・・・っ)
その時だった。
「こんにちは〜!」
「・・・・・」
その場に全くそぐわない元気な声が、部屋の外から聞こえてくる。
反射的にそちらを向いた上杉は、そのままドアを開いた。
「タロッ」
「あっ、ジローさん、下りてたんだっ?」
自分を見るなり嬉しそうに笑った大きな目の子供っぽい顔に、上杉は先程までの眉間の皺が一瞬で消えてしまう。
どんなに成長しても(それほど大きくはなっていないが)全く変わらない笑顔に、上杉は目を細めて笑い掛けた。
「どうした、タロ。何かあったか?」
「何かって、ジローさんが夕飯食べるから来いって、昨日電話してきたんじゃん」
「・・・・・ああ、そうだったな」
小田切が、太朗が喜びそうな店を見つけたといったので、夕べ早速電話をしたことをたった今まで忘れていた。本来、太朗との
約束を忘れるなどありえないのだが、よほど小田切との会話に神経が集中していたらしい。
「悪かった、まあ、入れ」
(・・・・・そうか、タロに・・・・・)
傍若無人な小田切も、素直で無邪気な太朗には弱いはずだ。食事に行く前に少し協力してもらうかと、上杉は太朗の肩を抱
いて事務所の中へと招き入れた。
「こんにちは!」
「いらっしゃい」
お洒落な外観ながら、普通はここは太朗のような高校生が訪ねるような場所ではなかった。
それは一般企業の名でありながら、実質は羽生会というヤクザの組の事務所だからで、一歩中に入れば厳つく、鋭い眼差しの男
達がゴロゴロといた。
太朗も初めて訪ねた時は、少し尻ごみをしたものの、元々父親が熊のような外見で、そんな父親が大好きな太朗は厳つい男
達を見てもそんなに怖く無く、組員達も素人の、それも、子供で、尚且つ会長である上杉の恋人である太朗に対しては優しく接
してくれるので、太朗は上杉が不在でも事務所に遊びに行くことが出来た。
そんな組員達の中でも、太朗が一番尊敬し、憧れているのが小田切だ。
上杉のスケジュール調整をしている他、様々な雑事も涼しげな顔でこなし、なにより自分の上司である上杉にもしっかりとものが
言えるところがカッコイイと思っていた。
今日も、上杉が忙しければ小田切と話そうと思っていた太朗は、事務所で挨拶をするなり奥のドアから上杉本人が出てきて驚
いたが、もちろんそれは嬉しい驚きで。
「あっ、ジローさん、下りてたんだっ?」
(まさか、迎えに来てくれていたとか?)
仕事中に悪いなと思うものの、そう思ってくれたのならば嬉しい。
だが、どうやら上杉はすっかり自分との約束を忘れていたらしく、太朗は口を尖らせてしまった。
「悪かった、まあ、入れ」
「・・・・・」
(もうっ)
太朗は自分の肩を抱く上杉を見上げた。
まだまだ成長途中の太朗よりも、遥かに高い身長。足も長くて、手も長くて、男の太朗から見てもカッコイイなと見惚れるような大
人の男。
それでいて、その目は子供っぽく耀いていて、そんなところは女の人にも人気なのだなと思える。
(だから、俺も何時も負けちゃうんだよなあ)
自分よりも遥かに大人なのに、飼っている犬や猫よりも可愛いのだ。太朗は自然に上杉の服の裾を掴むと、そのまま事務所の
中に入った。
「こんにちは!」
「あ、いらっしゃい!」
「こんにちは」
上杉が太朗を招き入れると、事務所の中にいた組員達は次々に太朗に声を掛け、雰囲気もガラリと明るく、柔らかになった。
(タロの影響は凄い)
上杉は口元に笑みを湛えながら、太朗をさりげなく小田切のいる方へと連れて行った。
「小田切さん、こんにちは!」
「こんにちは、太朗君」
太朗の声に、小田切は綺麗な笑顔を向ける。先程まで自分に向けていた人形のような笑みとは全く別物だ。
「タロ、小田切の奴、10日間、行方不明になるそうだ」
「え?」
「会長」
突然の上杉の言葉に太朗は驚いたような声を上げ、小田切は細めた眼差しを向けてきた。脅すつもりかもしれないが、他の組員
ならばともかく、上杉にとっては痛くも痒くもない。
「小田切さん、本当なんですか?」
「・・・・・」
「行方不明って・・・・・何かあるんですか?」
なぜか、小田切を慕っているらしい太朗は、案の定心配そうにたて続けに訊ねた。この太朗の純粋な気持ちを踏みにじることは
さすがの小田切にも出来ないはずだ。
(俺よりもタロを気に入っているんだしな)
それでも、小田切は少しの間黙っていた。
自分を見つめる太朗に視線を向け、やがて上杉にチラッと眼差しを向けてくると、大きな(わざとらしい)溜め息をついて太朗に笑い
掛けた。
込み入った事情になるかもしれないと思った上杉は、太朗と小田切を連れて自分の部屋に戻った。
部屋の中に3人きりになると、小田切はもう誤魔化そうと思う気持ちは無くなったのか、上杉が話を切り出す前に小田切の方から
口を開いた。
「少し、事情がありまして」
「事情?」
話が分からないまま、太朗は首を傾げる。その仕草に、小田切は直ぐに頷いた。
「会長や羽生会に、迷惑を掛けないようにするためですよ」
「え?」
「なんだ、それは」
驚きの声を上げる太朗の言葉と重なるように、上杉も思わず声をあげる。
違うとは思いながらも、もしかしたら本当に飼っている犬と豪勢な海外旅行にでも行くのかと想像していたのだが、全く違う、それも
自分と組の名前が出てくるとは思わなかった。
「どういうことだ?」
「・・・・・明後日、東京に来るという情報が入ったんです」
「東京って・・・・・知り合いか?」
「まあ、そうですね。知り合いというほど仲の良い人間じゃありませんけど」
小田切にしてははっきりとしない口振りに、上杉はますます不信感を募らせる。
そして、この一瞬の中でも、上杉は頭の中で様々な顔を思い浮かべた。羽生会の中には小田切と私的に付き合っている者はい
ないが、大東組本部の中では分からない。
老若男・・・・・女はないが、はっきりいって小田切の守備範囲はあまりにも広くて、上杉はなかなかこれといった相手を特定出来
ない。
「あなたは知らない人ですよ」
上杉が何を考えているのか分かっていたのか、小田切は直ぐに苦笑しながらそう否定してきた。
「俺が知らない?」
「私が大東組に入る頃の話です」
「今はいないのか?」
「元々、大東組の人間ではありませんから」
「・・・・・」
あまりにも抽象的な言葉ばかりを言う小田切に、上杉は降参という様に両手を上げた。色々考えても分からないのならば、やはり
本人にはっきりと言ってもらうしかない。
「誰だ、それ」
「・・・・・私の、飼い主だった男の・・・・・息子ですよ」
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