CHANGE
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「・・・・・私の、飼い主だった男の・・・・・息子ですよ」
(飼い主だった男?)
小田切の言葉を聞いて太朗は首を傾げた。どうしてだか分からないが、小田切は言葉を間違えているのではないだろうか?
「ねえ、小田切さん、それって、飼い犬の飼い主だった人ってことでしょ?」
「え?」
確か、小田切は犬を飼っていると言っていた。厳つい顔をしているが、自分に対してはとても従順で可愛いと言っていた犬には残
念ながらまだ会わせてもらっていないが、その犬の前の飼い主が東京にやってくるのがどうして嫌なのだろうか?
「その犬、小田切さんに懐いているんだよね?そりゃ、前の飼い主のことは犬も忘れないとは思うけど、犬って賢いから今の主人
が誰なのかはちゃんと分かっているはずだし、心配することはないと思うけど」
「・・・・・」
「タロ」
なぜか、じっと自分を見つめる小田切と、呆れたように名前を呼んでくる上杉に、太朗はようやく自分の想像が間違っているの
だと気がついた。
「ち、違った?」
「まあな」
「いいえ、似たようなものですよ」
「小田切」
「犬はちゃんと飼い主のことは分かっている。それがたとえ、相手が亡くなっているとしてもね」
「小田切さん・・・・・?」
なぜか、小田切は何かを思い出すように視線を空に向けていた。
太朗に対しては、何時もにこやかな笑みを向けてくれる小田切だったが、今目の前の顔はそれよりも優しくて・・・・・何時も以上に
綺麗な気がする。
彼が何を見ているのかは分からないが、きっとそれは小田切にとって良い思い出なのだろう。
(そんな相手の息子だろ?会いたいって思うのが普通じゃないかな?)
「タロ、悪いがコーヒー入れてきてくれないか」
「え?」
突然の上杉の言葉に太朗が思わず声をあげると、小田切は直ぐに遮った。
「私が」
「タロの入れた美味いコーヒーが飲みたいんだよ。いいな?」
「・・・・・」
(話、あるのか)
太朗には全く分からない小田切の言葉も、上杉には何らかの見当が付いたのだろう。そして、それは多分自分が聞いてはいけな
い話で・・・・・。
「・・・・・分かった」
事情が変わったから帰るようにとは言わず、別の理由をつけてその場から太朗を退出させる気遣いは、普段の言動とは違って、
上杉が自分よりもはるかに大人だからだ。だから太朗も、その上杉の言葉にのることにした。それが、今自分に出来ることだ。
「慌てるんじゃないぞ、火傷しないようにな」
「俺、そこまで子供じゃないって!」
(もうっ、付け足す言葉が余計なんだよ!)
これさえなければ、太朗は何時だって上杉の言葉をちゃんと聞こうと思う。
太朗は一瞬だけ鼻の上に皺を寄せて上杉に舌を出すと、そのまま部屋から出ていった。
自分の意図をちゃんとくみとって席を外してくれた太朗の後ろ姿を、上杉は唇を緩めながら見送った。
これから話すことは普通の高校生である太朗には少し刺激がある話だと思うし、小田切のプライベートなことでもある。ただ、上杉
は全てを太朗に黙っているつもりは無かった。話せる範囲だけでも、太朗には事情を説明しようと思っている。
しかし、それにしても一度自分が理解してから噛み砕かなければならないので、改めて小田切に視線を向けた。
「俺は本部にいた頃のお前をよく知らないが・・・・・その、飼い主ってのは組の人間じゃないんだな?」
「ええ、違います」
「生きてるのか?」
「とうに亡くなっていますよ。初めて会った時、私は10代半ばでしたが、その当時でももう60を過ぎていましたし」
それならば、生きていたら90近いはずだ。何時亡くなったのかは分からないが、それでも若い小田切にとっては祖父よりも年上の
男だったということで・・・・・。
「・・・・・守備範囲広いな」
他人の趣味に口出すつもりはないが、上杉は思わず呟いてしまった。
「若い人にはない味があるんです」
にっこりと笑って言う小田切の言葉は、今のところ上杉には理解出来ない。
「後にも先にも、私が犬になったのはその人相手だけです。でも、とても良い飼い主でしたよ、優しくて、見識が深くて・・・・・それ
に、私よりも博愛主義の人で、男女区別無く飼っていましたし」
「・・・・・だから、その例えは止めろ」
「あなただってよく言っているじゃありませんか、テツオのことを犬って」
「お前のは生々し過ぎる」
「可愛らしいことを言いますね」
お前に言われたくないと、上杉は心の中で言い返した。
(でも・・・・・そうか、あれからもう20年以上経ったのか・・・・・)
上杉に説明しながら、小田切も鮮やかにその頃のことを思い出していた。今の自分というものにかなり影響を及ぼした飼い主。
その時も、彼は自分に快楽を教えてくれたが、最後まで結ばれることは無かった。あくまでも、彼にとっての性の対象は女であり、
男は愛でる存在だった。
「その、息子っていうのは?」
「確か、私よりも幾つか年下でした。ただ、はっきりとは覚えていないんですよ、私にとって彼は意味のない存在でしたから」
飼い主にとっては歳をとって生まれただけにかなり可愛がっていたということは覚えているが、甘やかされていたせいか、小田切達
飼い主の犬をかなり蔑んでいたはずだ。
「ユウ!」
まだ声変わりもしていなかった少年の声は覚えているが、顔はもう分からない。小田切にとっては所詮それくらいの相手なのだが、
相手にとっては少し違うようだ。
「どうでもいい相手なら無視が一番ですが、厄介なことに少々持て余すくらいの金と力を持っていまして」
「それで?」
「こちらにご迷惑を掛けても申し訳ないので、少しの間姿を隠そうと思ったんですよ」
「馬鹿か?」
「・・・・・私が?」
「よそは知らねえが、俺がそんなことで弱腰になると思うのか?」
「・・・・・思わないから、厄介なんです」
上杉がどういう性格をしているのか、小田切は多分把握していると思う。自分よりもより強い者が立ち塞がっても怯むことなく、
むしろ嬉々として挑んでいくガキ大将タイプだ。
ただ、勝ち負けは別にして、小田切は煩わしいことは避けたかった。逃げたと思われるくらいどうということはない。そのまま嵐が過
ぎ去ればそれまでだからだ。
(わざわざ相手をするほどでもないと思うが・・・・・)
噂で聞いたその息子の人となりを考えても、小田切は上杉の優位を疑わない。
そう思っていても、姿を隠そうと思ったのは亡き飼い主に対する愛情ゆえで、彼の息子をわざわざ窮地に陥れることもないと自分ら
しくなく考えたからで・・・・・。
「小田切」
「・・・・・」
上杉の声に視線を向けると、その目は既に不満や怒りなどは消えていて、代わって面白いものを見付けたというような子供その
ものの目になっている。
(・・・・・間違ったな)
本当は、上杉には何も言わずに姿を隠すことが一番だったのだ。
一々許可を取ろうなどと思った自分はかなり平和ボケしていたなと、小田切は諦めたように苦笑した。
太朗が2人分のコーヒーと自分用の炭酸ジュースを持って部屋に戻った時、中には上杉1人しかいなかった。
「小田切さんは?」
「仕事に戻った」
そう言いながら近付いてきた上杉は、太朗の手から取ったトレーをテーブルの上に置いてくれた。
(話、終わったのか)
いったい、2人の間でどんな話が交わされたのかと気になるものの、小田切がいないこの場で上杉に聞いていいものかどうかも分
からない。多分、上杉は訊ねたら答えてくれると思うが、太朗は口を開かなかった。
「タロ」
そんな太朗を上杉が呼んだ。
「え?」
チュク
「むぅっ」
無防備に上杉を見上げた太朗の唇にキスしてきた上杉は、そのまま突然のことに硬直している太朗の口腔内を存分に味わって
から唇を離す。
「なっ、なっ?」
「恋人の挨拶、まだだったろ?」
「ばっ、馬鹿だろっ?」
自分の仕事場で、いきなりエッチなことをするなと太朗は精一杯睨んだが、上杉は全く気にすることなく目を細め、太朗の入れ
たコーヒーを一口飲んだ。
「美味いな、タロの入れたものは」
「・・・・・お世辞言っても駄目だからな!」
どうせなら砂糖を嫌ほど入れてやれば良かったと、太朗は一気に炭酸をジュースを飲んで・・・・・咳き込んだ。
(どこまで話すか)
上杉はキスで太朗を誤魔化すつもりは無かった。
ただ、今の小田切の話をそのまま伝えたとしても、普通の感覚の太朗が理解出来るとは思えない。大体、未だに小田切の言っ
ている犬というのが、本当の動物の犬だと思っているくらいなのだ。
変な方向の知識は与えたくはないが、きっと小田切のことを心配しているだろう太朗には説明は必要で、その辺の言葉の使い
方はかなり難しい。
それでも、小田切本人に説明をさせることだけは絶対にさせたくなかった。
(可愛いタロが、扱い辛い大人になりかねない)
「タロ、何が食べたい?」
「ご飯のこと?でも、ジローさんまだ仕事だろ?」
「俺の仕事なんて、上がってきた報告に目を通して指図するだけだ。お前とのデートのプランを考える時間はたっぷりあるぞ」
「は、恥ずかしいこと言わないでよっ」
「恥ずかしいか?」
キスも、セックスも、多分この歳にしてはかなり濃厚な行為をしているくせに、何時まで経っても気持ちが純粋なままだというのは
貴重だと思う。
「タ〜ロ」
「・・・・・っ」
もっとからかってやろうと耳元で名前を呼べば、肩がビクッと震えて耳たぶから首筋まで真っ赤に染めてしまった。
(あ〜、事務所なのが残念だな)
太朗の初々しい様子に煽られてしまっても、さすがにまだ組員達が多く残っているこの場で押し倒すことは出来ないし、太朗も
大人しく受け入れてはくれないだろう。
快感で泣かせるのは楽しいが、本気で嫌がることはしたくないし、第一そんなことをしたら未だに自分達のことを許していない太朗
の父親に付け入る隙を与えてしまうことになる。
「あんな男、別れてしまいなさいっ」
(冗談じゃないって)
そうでなくてもファザコン気味の太朗をどう親離れさせようかと思っているくらいだ。上杉はこれ以上の悪戯は止めて、とにかく美味
しいもので誤魔化すかと考えた。
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