elite












 「お前はどこまで上りたい?」

 そう聞かれたのは、確か最年少理事の内々の打診をされた時だったはずだ。
冗談めかした口調で、それでも目が笑っていない相手に、自分は何と答えただろうか・・・・・。








 江坂凌二(えさか りょうじ)は、ドアをノックする音に顔を上げた。
どんな場合でも、それがたとえセックスをしている時でも携帯の電源をオフには出来ない立場の自分だが、それでも日に何度かそ
の携帯が繋がらない時がある。それは、愛しい恋人と話している時だ。
 長々と話しているわけではなく、その時の状況や予定を聞く短い会話なのだが、江坂はそれを一日の糧として楽しんでいた。
しかし、今回は間が悪いことに他からも連絡があったらしい。
《待たせろ》
 江坂は口をそう動かし、中に入ってきた橘英彦(たちばな ひでひこ)を見据えた。
 「ええ、今日は予定も無いので8時には帰れますよ・・・・・嬉しいですね。あなたを待たせるのは心苦しいですが、一緒に食事
を取れるのは嬉しい」
江坂の電話の向こうへの声はとても優しく、愛情に満ちている。恋人も、まさか電話のこちら側では冷たい空気が支配していると
はとても想像していないだろう。
 「じゃあ、帰る時はちゃんと車で帰ってくださいね」
 3分後、あまやかな口調でそう言った江坂は、電話を切ると同時に冷淡な口調で橘に言った。
 「2、3分の時間も待てないほどの至急の用か」
2、3分ではなく、ゆうに5分以上話していた事実を橘は口にすることなく、申し訳ありませんと一礼してから、あらためて口を開い
た。
 「永友組長直々の電話でしたので、失礼を承知でお知らせにあがりました」
 「組長から?」
滅多にないことに、さすがに江坂も眉を顰めてしまった。


 江坂は、関東随一、そして、日本でも有数の広域指定暴力団、大東組の、30代で唯一の理事の1人だ。
最近組織内でも資金源の多くを占めてきている株の売買。
東大で経済を学んだ江坂は組織内の資金源の多くを占める株の取引のほとんどを任され、相応以上の成果をあげていた。

 理事という顔の他、世に出れば会社の社長でもある江坂。そんな順風満帆な彼が数年という時間を掛けて手に入れたのが、
大手ゼネコンの役員を父に持つ高校生だった小早川静(こばやかわ しずか)だった。
 幼い頃から、まるで日本人形のように整った容貌と透明な雰囲気を持つ静に一目で魅せられた江坂は、じわりじわりと静の父
親を追い詰め、父親の会社の筆頭株主となり、多額の援助をちらつかせて、まるで人質というように大学生になった静を手に入
れた。

 今では、静も心から江坂を愛してくれているし、江坂もその存在を日々愛しいと思っている。
愛し合っている恋人同士に何の問題も無いのだが、唯一の課題といえば今年の春から大学4年生になる静の進路だ。
 江坂は卒業すれば静はずっとマンションにいて、自分だけを見つめてくれるような生活を最善として望んでいるが、静当人はど
うやら外に出て働きたいらしい。
 静にとって完璧な恋人として傍にいる江坂はその願いをむげに却下は出来ず、それでいて美しい静をいやしい視線に晒すこと
などもってのほかで、どうやって彼を説得すればいいのだろうかと考えていた。
 それでも、そんな悩みは生涯を共にするという前提があってのものなので、江坂にとっては今までに無い楽しい悩みでもあった。




 「こんなふうに急々の呼び出しなど今までありませんでしたが、いったい何事なんでしょうね」
 助手席に座る橘が話しかけてきたが、江坂はそれに答えることは無い。橘も答えを期待していたわけではないようで、不思議
だなあと言いながら手元のノートパソコンに再び視線を落とした。
まだ市場が空いている時間なので、問題がありそうな株の動きを見ているようだ。

 30代半ばの橘は平均身長で、少しだけ痩せぎすで。眼鏡の奥の一重の目は、何時も穏やかな笑みを浮かべて、少し鼻が
低く、一見すればまだ20代半ばには見えてしまうほどの若い外見だが、一言で言えば凡庸な容貌の男だった。
 しかし、地方の二次組織から自らスカウトしただけに頭の回転は素晴らしく速く、穏やかな外見に似合わないえげつない手法
も飄々ととる男だ。
 組織と、自身の会社の仕事でめまぐるしいほどの忙しさであった江坂が、今、恋人との時間をゆっくり取れるようになったのはこ
の橘の存在があってこそだが、それを改めて口にするまでも無いと思っている。
それはけして橘を蔑ろにしているというわけではなく、特別な感情が起こらないほど彼は己と一心同体なのだ。

(・・・・・いったい、何事だ?)
 それよりも、江坂は永友の用件という方が気になる。
多忙で不在がちな若頭の代わりに、江坂は総本部長の本宮(もとみや)と共に永友の相談に乗ることも多いが、先週顔を合
わせた時は何も言っていなかった気がする。
 「最近、大きな問題は無かったな?」
 唐突な問いに、橘は即座に答えた。
 「ありません」
 「関西と九州も?」
 「ええ。揉め事を起こすような体力は無いでしょう」
 「・・・・・」
 「電話での声は日頃とお変わりなかったように感じましたが」
橘が言うのならばその通りだろう。
(外は問題無し。じゃあ、後は内側・・・・・組に何か?)
 「・・・・・行けば分かることだな」




 千葉の大東組総本部に着いたのは、午後3時を少し過ぎた頃だった。
こんな中途半端な時間に来たのは、話し合いの後夕食を勧められるのを避けるためだ。何よりも恋人との約束を優先するつも
りの江坂は、そのためにならば少々の常識外の行動を取ることは全く厭わなかった。
 「お疲れ様です!」
 「お疲れ様です!」
 総本部と本家が敷地内にあるため、ここにいる組員の数は100人近い。
その男達が江坂の姿を見て次々と立ち止まり、頭を下げていった。20代から40代の男が多い組員の中で、この歳で理事にま
でなった江坂を憧れと尊敬の目で見る者は多く、こうして本部に足を運ぶたびにかなりの人間が纏わり着いてくる。
 「組長は」
 車の中から到着時間を告げているので、不在ということは無いはずだ。
 「本家の方に」
 「総本部長も?」
 「はい、若頭もいらっしゃいます」
 「若頭も?」
江坂でも年に数回しか顔を合わさない若頭がここにいる。そのことに江坂は妙な胸騒ぎを感じた。

 「江坂理事がお着きです」
 「通せ」
 左右に襖が開けられ、正座をしていた江坂は軽く頭を下げた。
 「悪いな、江坂」
 「いいえ、遅くなりました」
一声返事をして立ち上がった江坂はそのまま部屋の中に入る。
床の間を背にして、大東組7代目現組長の永友治(ながとも おさむ)が座り、その左に若頭の天川会(あまがわかい)会長、
九鬼栄(くき さかえ)、右に総本部長、本宮宗佑(もとみや そうすけ)が控えていた。
そして、永友の正面に作られている空席が、どうやら自分が座る場所のようだ。
 「お久し振りです、九鬼さん」
 トップ会談ともいえるこういった席で、他の者の目が無い時は江坂は組長以外の者をそれぞれを苗字で呼んだ。
役職ではなく、その本質を尊敬しているのだという意味を込めてあえてそうしているのだが、上にいるだけに寛容な者達は全く気
にすることは無いらしい。
 「よくやってくれているようだな。組長も褒めてらした」
 「いいえ、私などまだまだです」
 同じ大学の出身でもある九鬼は頭が良いので話しやすい。
江坂は珍しい笑みを頬に浮かべたが、直ぐに永友に視線を移すと早速話を切り出した。
 「今日はどういったことでしょうか?差し迫った案件はないはずですが」
 「ああ、これは昨日俺達3人で話し合ったことだしな、お前が知らないのも無理は無い」
 「・・・・・昨日?」
 「江坂」
 改まって名前を呼ばれ、江坂は居ずまいを正した。
 「お前、もっと上にあがるつもりはないか?」
 「・・・・・それは・・・・・」
 「総本部長、受けて欲しい」
永友の言葉に江坂は目を見張った。

 大東組総本部長。
組のナンバー3のその地位は、実質組全体を仕切るといってもおかしくはない。理事とは比べ物にならないほどの大きな権限を
持ち、組の金も自由に動かせる立場なのだ。
 しかし、歴代の総本部長は組長と若頭を支える意味も含め、50代以上の古参の組員がなることが多い。今の本宮も就任
したのは50を過ぎた歳だったはずだ。
 「どうだ?」
 「私はまだ40にもなっていませんが」
 「お前、確か誕生日は12月だったな」
 「今年の誕生日が来てもまだ39ですよ」
 男で、これくらいの歳になれば40といっても構わないが、書類上は12月26日の誕生日を迎えて39歳だ。
この歳で総本部長に推挙されるということだけでも、組の中は荒れてしまうだろう。
(それを分かっていても・・・・・?)
 「江坂、俺は周りの声なんて聞いていない。お前がどう思うか、それを聞きたいんだ」

 その時、江坂は唐突に思い出した。
理事への打診があった時に、永友に聞かれた言葉。
 「お前はどこまで上りたい?」
 「どこまで、ですか」
 「お前にも夢ってもんがあるだろう?」
 夢。この世界に入った時から、もちろん下っ端で終わることなど考えていなかった。自分にはそれだけの力があると自負していた
し、その力は一般社会でもヤクザの世界でも、共通するものだと考えていた。
それでも、それは夢というものではない。
 「私は自分が考えていることは全て実現すると思っていますから、夢という不確かなものはありません」
 「夢が不確か・・・・・はは、それもそうだな。じゃあ、江坂、お前はどこまで実現するつもりだ?」

 「・・・・・」
 江坂は永友を見つめた。
 「この世界の頂点にいきます」
 「・・・・・」
 「そう、答えました」
何を言おうとしたのか分かったのだろう、永友が目を細めた。
今の江坂の言葉は、いずれ永友の席までも奪うと宣言したのも同じだが、それで怒り心頭になるのではなく、かえって楽しそうに
笑う度量の深さが、まだ自分には無いと江坂は知っている。
 自分が認めたトップ。そのトップを従えるようになるまで立ち止まるつもりの無い江坂にとって、単に歳を気にする古い人間の思
いなどは全く気にならなかった。
 江坂は畳に手を着き、深々と頭を下げる。
 「ありがたく、お受けさせていただきます」
 「お前ならそう言ってくれると思った。良かったな、本宮。こいつなら安心して退くことが出来るだろう」
 「ええ。私なんかよりもよっぽど有能な奴ですよ。江坂、くれぐれも組長を頼むぞ」
 「はい」
今はまだ、永友に教えてもらうものは多い。江坂はもう一度頭を下げると、真っ直ぐに顔を上げた。




 案の定夕食を勧められたが、江坂は待っている者が居るからとその場を辞した。
 「忙しくなりますね」
まだ内々の話ではあるが、トップが承諾した話だ、ほぼ決定と言っていいだろう。
江坂は橘には今回の用向きを伝え、橘も一瞬驚いた表情を見せたものの、落ち着いた江坂の様子を見て穏やかに笑った。
 「明日はスケジュールを空けましょうか?」
 そして、このことは江坂の最愛の恋人、静にも早々に伝えなければならないことだろうと機転を利かせた橘の言葉に、江坂は
一瞬考え、
 「午後から出る」
そう伝える。
静に昇進のことを伝えるのは難しいことではないものの、それに付属する様々な雑務でしばらく忙しくなってしまうため、時間が許
す限りは2人の甘い時間を過ごしたいと思った。






                                            







江坂&静の新章。
今回は総本部長昇進の話。2人のイチャイチャを多く書きたいんですけど・・・・・どうなりますか。