elite












 静と約束した時間よりも10分ほど遅くなった午後8時10分、江坂は自宅マンションのエレベーターに乗っていた。
後ろに控えているのは橘と、3人ほどの護衛。このエレベーターは最上階直通のもので、同じ階にあるもう一つの部屋は当然な
がら江坂が抑えて空室にしているので、他の者が乗り合わせるということは無かった。
 「・・・・・」
 ドアの前に立つと、江坂は軽くスーツを手で払う。
汚れているというわけではなく、自分の裏の汚い部分を静と暮らす部屋には持ち込まないという一種の儀式のようなものだ。
 「では、明日午後一時にお迎えにあがります」
 「ああ」
 一度インターホンを鳴らし、そのままカードキーを取り出して江坂は自らドアを開ける。
その後ろ姿に橘達は深く頭を下げた。

 「お帰りなさい」
 エントランスで一度帰宅を告げたので、静が玄関先で待っていてくれた。
その控えめな笑みに江坂は目を細め、ただいま帰りましたと言って腕を伸ばす。逃げずに胸の中に収まってくれる静に軽く口付け
をした江坂は、その背を押してリビングへと向かった。
 「遅くなってすみません」
 「10分くらいですよ?」
 「それでも、約束したのに・・・・・」
 「凌二さんは忙しいんだから」
 凌二・・・・・静は最近、ようやく自然にそう呼んでくれるようになった。ただし、それは2人きりの空間に限ってのことだ。
出来れば誰がいてもそう呼んで欲しいくらいだが、橘はもちろん、自分の友人達の前では未だに苗字呼びで多少不満は残るも
のの、少しずつでも静が変化してきたのは嬉しい。
 「食事は?」
 「えっと、俺が作ったんですけど」
 「静さんが?」
 江坂は直ぐに静の両手を取った。
 「怪我や火傷は?」
 「無いですよ。本当に心配性なんだから」
 「仕方ありません、あなたの綺麗な手には針で突いた痕さえも付けたくないんです。それで?何を作ってくれたんですか?」
料理が得意とはいえない静のレパートリーはかなり限られているものの、静が作ったということだけで十分意味がある。簡単なもの
でいいのだがと思っていた江坂の耳には、
 「温野菜です」
本当に簡単な料理(?)の名前が出てきた。




 炒め物や、揚げ物。出来れば刺身なんか自分でひきたいなと思うが、意気込みと技術が伴っていなければ仕方が無い。
その上で静が今日の夕食として選んだのは、様々な野菜を切って入れただけの温野菜だった。
 静自身野菜は好きだし、日頃外食の多い江坂に野菜を多くとって欲しいと思った上での選択だが、江坂は煙の向こうで少し
だけ複雑な表情をしていた。
 「ドレッシングは一杯用意したんです。ゴマに、梅に、イタリアンに、和風味。ポン酢もあるから好きなのをどうぞ」
 「・・・・・静さん」
部屋着に着替えているが、江坂は相変わらず凛々しく、カッコイイ。そんな彼と、こうして向き合って食事をするのは、未だにドキ
ドキすることもあった。
 「はい?」
 「・・・・・この、中央にあるものって・・・・・タコ、ですね?」
 「野菜ばっかりじゃ寂しいかなって思って」
 ブロッコリーに、レタスに、ニンジン。アスパラにピーマンに、カボチャに、サツマイモ。
色とりどりの野菜は見た目に楽しいものの、そこに魚介類か肉類があった方がいいだろうと思い、静が選んだのはタコだった。
 「取り分けましょうか?」
 「いいえ、自分で」
江坂はそう言うと、少し迷ったような様子を見せた後ブロッコリーを取った。




(足だけで良かった・・・・・)
 静のことだからタコ丸ごと一匹入れていてもおかしくなかったはずだが、今日は足だけで良かったと心の底からホッとした。
静がこんなに野菜を用意するのは自分の身体のことを考えてくれているからだと分かっているし、味を変えるために様々なドレッシ
ングを用意してくれている気遣いも嬉しい。
 ただ・・・・・甘い野菜は少し遠慮したい。
 「あ」
 「・・・・・」
江坂の箸の動きをチラチラと見ていたらしい静が、江坂がカボチャの横のアスパラを取った時に声を上げた。
 「凌二さん、カボチャも食べないと」
 「・・・・・煮物なら何とか食べられるんですが・・・・・」
 「サツマイモは?」
 「天麩羅は食べます」
 「・・・・・」
 「あ、でも、1人の時に天麩羅は作らないように。危ないですからね」
 好き嫌いが多いのではなく、調理次第ではかなり食べられると思うが、それを静にしてもらおうとは思っていない。静は家政婦
ではなく、愛情ゆえに料理を作ってくれているので、彼の出来る範囲で十分構わなかった。
 これ以上静に変な考えは起こさせないように、比較的甘さが弱いサツマイモを皿に取った江坂は、そう言えばと世間話の延長
のように話を切り出した。
 「静さんに伝えなければならないことがありました」

 「そう、本部長?」
 江坂の説明に、静は言い難そうに繰り返す。
 「ええ」
 「それって、理事よりも上、なんですよね?」
もう何年も共に暮らしているとはいえ、静は江坂の生業の詳細を知らない。もちろんヤクザだということは理解しているだろうが、そ
の中の理事という地位がどれ程のものなのか、多分よく分かっていないのだろう。
 「少しだけですよ」
 大東組のNo.3だなどとは言わなかった。離れていくことは無いだろうが、変に萎縮されても困る。
何より、江坂と静の関係は今と変わりなく、このままずっと共にいるということだけ分かってくれていたらいい。
 「じゃあ、忙しくなるんだ・・・・・」
 「襲名式が終わるまでは少し忙しいですが、その後は今とあまり変わりません。今以上に多忙にならないことが分かった上で了
承したんですから」
 組の仕事のせいで静と共にいる時間が減るなどあるはずがない。今以上の権力をこの手に握るのなら、楽にならなければおか
しいだろう。




 江坂の地位が変わると言われても、それが普通の会社とどれ程違うのか静にははっきりと分からなかった。
普通なら、部長よりも理事の方が位は上になると思うが、今江坂は少しだが上になると言った。だとすると、総本部長というのは
かなり上になるのではないか。
 今でさえ、友人の恋人で、江坂と同じ世界にいる人達は江坂に対して礼をつくしているように見える。
(それ以上になるってこと・・・・・)
静は溜め息をついた。
 「静さん?・・・・・もしかして、相談も無く承諾したことが嫌だったんですか?」
 「違います。なんだか、どんどん凌二さんに置いていかれるなって思って」
 「そんなことはありませんよ。私とあなたは歳も違うし、私が少しだけ前を歩いているとしても、それはあなたに追いつかれないよう
に必死になっているだけです」
 「凌二さん・・・・・」
 「さっきも言ったように、今回のことでしばらく慌しくなりますが、それも直ぐに終わりますから。寂しくても我慢してくださいね」
 優しく言う江坂に、静は頷いたものの、ふと頭の中に自身のことが浮かんでしまった。
静も春から大学4年生となり、来年には卒業する予定だ。学校の友人達は半数以上就職の内定を貰っているし、まだの者も
頑張って就職活動をしている。
そんな中、自分だけのんびりしていると、なんだか急に不安になった。
 江坂と出会う前は、父の会社に入り、兄と一緒に働くという漠然とした考えがあったが、今江坂と暮らしている自分がその選択
を出来るかといえば少し考えてしまう。そうでなくても少し前父の会社のことで心配を掛けてしまったのだ、静がその会社に入社す
ることを江坂は望まないだろう。
(それに・・・・・凌二さん、俺が働くの、あんりよく思っていない感じだし・・・・・)
 バイトでさえ、短期のものをようやく許可してくれるくらいだ。過保護ともいえる江坂の考えがどうなのだろうと、静はじっと自分を
見つめる江坂の目を見返した。
 「あの・・・・・」
 「・・・・・」
 「俺の、就職のこと、ですけど・・・・・」
 「ああ、静さんも来年卒業ですからね。なにをしたいのか、ゆっくり考えてください」
 「え」
 「どうしました?」
 「え、あ、働いても、いいんですか?」
 てっきり、このまま家にいることを乞われると思ったのに、意外にも江坂は静に選択をくれるようだ。
目を瞬かせてしまうと、江坂は酷いですねと苦笑した。
 「確かに、私は静さんに対して独占欲を持っていますが、それであなたの選択肢を無くそうとは思っていませんよ?あなたは自分
がやりたいことを自由に考えて、もちろん私にも相談に乗らせてください」
 「・・・・・はい」
(嬉しい、かも)
 江坂に守られる心地良さはもちろん幸せだし嬉しいと思うものの、静も1人の男として自分の足で立ちたいという気持ちもある。
それを江坂が後押しし、支えてくれるのなら、静は最良の選択が出来るような気がした。
 「アドバイスしてくださいね」
 「もちろん」
江坂の優しい笑みに、静も笑みを返した。




(あなたの最善は、私の腕の中にいることですよ)
 江坂は静の綺麗な笑みを微笑ましく思いながら、今自分が口にしたことを反芻した。
静の未来を考えているというのは本当のことだし、それが最良のものになるよう力を貸すというのも嘘ではないが、その選択の中に
どこかに就職するということは入っていない。
自分の目に届かない所に静をやるはずが無かった。
 「ねえ、凌二さん。俺って何に向いていると思います?」
 「そうですね」
 江坂の内心など知る由も無く、静は無邪気に訊ねてくる。江坂は笑った。
 「それを考えるのも就職活動の一環ではないですか?」
 「あ、そうか」
 「ゆっくり考えたらいいんですよ、あなたにはあなたに一番相応しい道がありますから」
(私の傍にいるという道が)
 言葉と、頭の中の考えが全く相反することで、静を裏切っているとは思わない。
誰にでも、自分が望む未来というものがあり、江坂は単純にそれを叶えたいと思っているだけだ。そのために、静が選んだ会社を
危機に陥れることも、相談に乗る大学関係者に内々に脅しを掛けるのも、可能性として考えられるが。
 「あ、凌二さん、ピーマン」
 「静さんが食べさせてくれたら食べます」
 「・・・・・」
 呆れたような顔をしながらも、静はピーマンを箸で摘み、そのまま江坂の口元に運んでくれる。
青臭さも苦味も、それだけで消えるようだなと、江坂は口の中でそれを咀嚼した。

 片付けは一緒にと、シャツの腕を捲くった江坂が洗う。食洗機はちゃんと落ちた気がしないからと静が言ったからだが、江坂はコ
ミュニケーションが取れるのでこの時間は悪くないと思っていた。
 「はい」
 洗った皿を静に渡すと、彼が綺麗な布巾で拭いていく。
 「・・・・・」
 「凌二さん?」
次はと顔を上げる静に、江坂はキスをした。
 「ん・・・・・っ」
こんなふうに、何気ない戯れが今後しばらくは出来ないかもしれないと思うと、少しでも時間がある時に静を味わっていたい。
突然のことに戸惑う静の舌を絡めとり、江坂はそのまま片手で腰を抱き寄せ、もう片方の手で頬を撫でる。
 「・・・・・っ」
濡れた手で頬に触れたので、静の身体がビクッと震えた。

 チュク

 キスは、あまり長い時間はしなかった。自分が欲しているように、静からも求めて欲しいからだ。
物足りないというような目で見上げてくる静の頬に軽く頬を寄せると、
 「一緒に、風呂に入りましょうか」
そう、誘いを掛ける。
返事は返ってこないが、江坂の背中に回されている静の手の力は緩むことは無く、それが彼の返事なのだとあっさりと解釈した江
坂は、そのまま静を抱き上げた。
 「うわっ、あ、歩けますからっ」
 「甘やかしたいんですよ、おとなしくしなさい」