宇佐見貴継編






  「七時には帰れる」
 そう言った後、宇佐見は他に何を言おうかと考えた。
夕食の準備はせず、外に食べに行こうと誘うことも、たまには楽をしてデリバリーでも構わないなど、言いたいことは色々あったが、
どう言葉を綴っていいのかわからず、結局はそれだけで受話器を置いた。
 年末の慌ただしい時期、例年なら年内いっぱいはとても日づけが変わる前には帰宅など出来なかったし、家に帰って母親の顔
を見るのも鬱陶しいと思っていた宇佐見にとってはまったく不都合はなかった。
 ただし、今の宇佐見には、気遣いたい相手がいる。
高校教師という、まったく違う職種の年下の、男。人見知りをせず、はっきりとした物言いをする男だが、大勢の生徒や保護者を
相手に日々奮闘しているせいか、見掛けの幼さとは相反して随分大人だった。
 宇佐見の強引ともいえる同居の話も流されるように受け入れてくれたが、母親と対峙する時ははっきりとした態度を取り、今も
時折掛かってくる電話にも如才なく対応してくれている。
 きっと、自分なら面倒くさいと思う。それなのに、見捨てずに付き合ってくれている彼が・・・・・。
 「良かったですね、早く帰れることになって」
 「・・・・・」
唐突に聞こえてきた声に、宇佐見は僅かに肩を揺らした。
ここが自身のオフィスで、側に部下がいることをすっかり意識の外にやっていたからだ。
 「・・・・・別に、嬉しいと思っているわけではない」
 「そうですか」
 「・・・・・」
 ずっと自分についてくれている男は、自分の変化をごく間近で見ている。今の言葉の裏にも何が含まれているのか、宇佐見本
人よりもわかっているのかもしれないが、それを言葉に出さない頭の良さもあった。
 「・・・・・報告」
 「はい」
宇佐見は意識を切り替える。仕事中に他の事を考えることなど、本来の自分にはあってはならないことだった。




 12月25日。
この日が世間でなんと呼ばれているのか、さすがに宇佐見も知っている。だが、宇佐見の家ではクリスマスの祝いなどすることは
なかった。
 クリスマスよりも正月の諸々の行事の方が大切で、父親の仕事関係の相手と堅苦しい挨拶をするのが宇佐見の義務だった。
別に、クリスマスを祝いたいとは思わなかった。学校の同級生たちがどんなに楽しそうにプレゼントの話やご馳走の話をしていて
も羨ましいと感じず、成長し、異性から誘われるようになっても、共に過ごしたいと思うこともなかった。
 働き出してからは、その激務のせいでますます世間の行事からは縁遠くなってしまい、12月などは慌ただしさの中で時間が過
ぎて行ったが、今年は少しだけ意識が変わった。同居人である彼・・・・・紺野雅人と初めて一緒に過ごすクリスマス。何もしない
という選択はなかった。

 柄にもなく、12月も半ばを過ぎた頃から、雅人が何を欲しがっているのか気になった。
食事を初め、家のことを率先してしてくれる雅人に対し、感謝の意味を込めてプレゼントを贈るのはおかしいことではないはずだ。
 だが、プレゼントを渡す意味は思いついても、何を渡していいのかはまったく思いつかなかった。
生活習慣も、性格もまるで違う自分たちに共通点はなく、彼が何を欲しいのか想像も出来ない。宇佐見はこれまでにないほど
悩んでいた。
 実は、当日の今日もまだ、何も用意していない。焦ってはいるが、ここまでくるとどうしたらいいのかわからなかった。
 「塚越(つかこし)」
 「はい」
 「・・・・・まだ、店は開いているのか?」
 「まだ6時ですから開いていますよ。どちらかに寄られますか?」
 「・・・・・」
たとえば、ブランドの店に行ったとして、雅人に似合うものを一時間以内に選べるかと言えば・・・・・まったく自信がない。
 「・・・・・いや、いい」
 「そうですか」
 塚越はそれ以上何も言わない。宇佐見も車の窓から流れる景色をじっと見ていた。
やがてその景色は見慣れたものになってくる。後十分も走ればマンションだ。
 「止めてくれ」
 不意に宇佐見が言い、運転手はゆっくりと車を端に寄せた。
 「どうされました?」
助手席から訊ねてきた塚越に、宇佐見は視線を向ける。
 「少し待っていてくれ」
 「何か必要なら私が行きますが」
そう言われ、一瞬考えた。今から行こうとする場所に自分はあまりにも似合わない。それよりも一見普通のサラリーマンふうな塚
越の方がいいのはわかっているが、それでも・・・・・。
 「・・・・・いや、私が行く」
 自分が動かなければ意味がない。
さすがにそれはわかっているつもりだった。




 「おかえりなさい!」
 「・・・・・ただいま」
 インターホンを鳴らすと、直ぐに玄関のドアが開かれる。トレーナーにジーパン姿、それに愛用の紺のエプロンをつけて出迎えて
くれた雅人。見慣れた姿だが、何時までたっても慣れない気恥ずかしさに、宇佐見は僅かに目を眇めた。
 雅人はそのまま背中を向けて奥へと戻ろうとする。ついて歩く宇佐見は、部屋の中から美味しそうな匂いが漂ってくることに気
がついた。
 「食事を作ってくれたのか」
 「ええ、早く帰ってこれたし」
 「無理をしなくてもいい」
家政婦のつもりで雅人を同居に引きづり込んだわけではないと言いたいのに、どうしても突き放した口調になってしまう。普通の
人間なら面白くない感情をかきたてられるだろうに、雅人は笑いながらありがとうございますと礼を言ってきた。
 「でも、別に無理にしていることじゃないし、俺だって食べるものですから」
 「・・・・・」
 確かにそうかもしれないが、それを実際に行動することは大変だろう。
 「さあ、着替えてきてください」
軽く背中を押され、自室になっている部屋に入る。部屋着に着替え、忘れずにアレも持ってリビングに向かうと、
 「・・・・・」
そこには、思いがけない光景が広がっていた。
 「あ、嫌いなもの、ないですよね?」
 数か月の同居で、宇佐見の好き嫌いを雅人は把握していた。だから、そんなに心配そうに言わなくてもいいのだ。宇佐見が驚
いたのはそんなことではない。
 テーブルの上に並べられていたのは、こんがりと焼けたチキンに、サラダ、そしてクリームシチュー。
さらには真中に、丸いケーキまで載っている。
板チョコに書かれたメッセージは今日を祝う言葉で、明らかに今日の食事はクリスマスを意識したものだとすぐにわかった。
 「俺なんかと顔を突き合わせるクリスマスなんて申し訳ないんですけど、せっかく一緒にご飯を食べるんだし、気分だけでも味わ
おうと思って」
 「・・・・・」
 「宇佐見さん?」
 宇佐見は黙って手にしていた物をテーブルの空いているスペースに置く。
 「これ・・・・・」
その形で、雅人は直ぐに中身が何かを悟ったらしい。目を丸くしてあーっと声を出す彼に、宇佐見は視線を逸らして淡々と告げ
た。
 「別に、今日が何の日か考えたわけじゃない。目についたから買ってきただけだ」
 雅人へのプレゼントを何にするか直前まで考えていた。結局思いつかないまま、目に付いた洋菓子店の店先で売っていたクリス
マスケーキが目に入って・・・・・衝動的に買ってしまった。
 有名店のケーキではない、マンション近くのこじんまりとした店のケーキだ。美味いかどうかなどもわからないまま、それでもこれ
で少しはクリスマスの雰囲気が出るんじゃないかと考えたが、雅人はそれ以上にちゃんと食卓を整えてくれていた。
 あのまま、ケーキを寝室に置いてくれば良かった。気が合ったと言えば言葉は良いかもしれないが、さすがにケーキ2つというのは
問題だ。
もしかしたら、雅人の方も被ったことを気にしてしまうかもしれないのに、どうしてテーブルの上に出してしまったのか。自分の行動も
よくわからなかったが、男2人に2つのケーキという難問にも、雅人は豪胆に笑ってくれた。
 「ラッキー」
 「・・・・・どうして」
 「子供の頃、夢だったんですよ。おなかいっぱいになるほどケーキが食べたいって。でも、男がそんなに一杯ケーキ買うのって恥
ずかしいじゃないですか。宇佐見さんのおかげで夢が叶って、なんだかすっごくいいプレゼントを貰ったみたいですよ」
 雅人は、宇佐見が甘いものが苦手なことを知っている。この2つのケーキも、小ぶりながらホールであるケーキを消化するのにほ
とんど役に立たないのに、こんなにも喜んでくれているなんて・・・・・。
 「雅人」
 「後でいただきますね」
 プレゼントというのは、ある程度の金額の、いわゆる高級な品のことを言うのだと思っていた。
だが、数千円のケーキも、確かにプレゼントなのだ。








 また、新しい価値観を教えてくれた雅人をじっと見ていると、彼は軽く指を差す。
 「金魚の餌、まだあげてないんです。お願いしていいですか?」
 「・・・・・ああ」
そう言えば、まだ帰ってから金魚を見ていない。宇佐見はリビングに足を向け、水槽の中を覗き込んだ。
 赤く、小さく、丸い身体が、ふわふわと揺れている。大きい水槽にたった10匹なのは寂しい気もするが、今では一匹一匹の違
いもわかって、元気でいるのが見ていて嬉しかった。

 「この子たちにしますか?」

 どうしても目が離せなくて立ち止まった宇佐見に、雅人はしばらくしてから聞いてきた。
こんな小さな金魚も、物扱いしない言い方に胸が温かくなって、彼と一緒に見たこの金魚がどうしても欲しくなった。
 「・・・・・」
 毎日、朝と夜。飽きもしないで水槽を眺めている自分のことを雅人は呆れているかもしれないが、宇佐見にとってこの水槽は
自分と雅人の新しい生活そのもので、ただ見ているだけでも楽しいのだ。
 何時まで見ていても飽きないが、今日は眺める時間は短く、餌をやった宇佐見は雅人が待つテーブルに戻る。
初めての、クリスマスディナー。きっと、どんなに有名なレストランよりも美味しいはずだ。
 「じゃあ、いただきます」
 「・・・・・いただきます」

 《メリークリスマス》

心の中で呟いた言葉を実際に言える日が来ればいい。
そんなことを考えながら、宇佐見は目の前でさっそくチキンに齧り付く雅人を見て・・・・・僅かに口元を緩めた。




                                                                      end