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 「香乃さんを頼むよ?」
 「・・・・・うん」
 「・・・・・そんな風に素直に返事をしてくれる瑞希は何年ぶりだろうね」
 目を細めて笑う父に、瑞希は何と言っていいのか分からない。
そして・・・・・そんな父の後ろに静かに佇む高畑に対しても、どういう視線を向けていいのかも分からなかった。





 早々に退院してきた正紀がロサンゼルスへの出張を予定通りに行うと言った時、瑞希は物心付くようになってから初めてといって
いいほどに必死になって止めた。幾ら掠り傷とはいえ、傷を負ってしまった身体で遠出をするのはもちろん、仕事をするなんて無理
だと訴えた。
しかし、一週間近くも仕事を休んだ今、これ以上業務を止めることは出来ないと穏やかに諭され、正紀がいなければ回らない組
織の内情を教えてくれた。
自分が思っていた以上に正紀という存在が大きいのだと思い知った瑞希は、もう止めることなど出来なかった。
 「・・・・・」
 「どうした?」
 「・・・・・高畑も、連れて行くんだ?」
 「当たり前だろう。私の大切な片腕だ」
 「そ、だけど・・・・・」
(でも、そうかも・・・・・な)
 高畑が殺意を持つほどに憎らしいと思っていたのは自分だけで、父には深い敬愛しか抱いていないはずだ。
自分のように危ない目に遭う事は無いだろうが、自分の心の中に高畑へ抱いた恐怖と不信感はこの先もしばらくは消えることは
無いだろうと思った。
 「一ヵ月後には帰れると思う。今度はゆっくり過ごそう」
 「・・・・・うん」
 「・・・・・柳瀬、瑞希を頼むぞ」
 「・・・・・はい」
 父が高畑を手放さないように、自分も背中に柳瀬を従えている。
今回のことで、自分達親子へある種の反逆の矢を引いた者達をそのまま側に置くこと・・・・・これも、大きな組織、そして家柄に
生まれた人間の定めかもしれなかった。



 出会ってから初めて、こんな風に正紀に神妙に対する瑞希を見たような気がして、安斎はそれほどに今回の事件が瑞希の心に
影響を及ぼしたのだと改めて感じた。
 相変わらず空港には多くの人間が行き交っているものの、自家用ジェットを使用する正紀には時間の制約は無い。
だからこそこんなにもゆっくり瑞希と別れを惜しんでいるのだろうが・・・・・安斎は、昨夜正紀に呼び出されて言われたことを思い浮
かべていた。

 「どうする?この時点で契約を破棄した方がいいかな」
 いきなりそう切り出された安斎は、さすがに一瞬だけ面食らってしまった。
まだ事件も解決(内部の犯行だったという結果だが)したばかりで、瑞希も落ち着かない日々を過ごしているし、その上明日から
は正紀もまた外国へと旅立っていくのだ。
 「・・・・・私は必要ない人間でしょうか?」
 契約の有無を答える前に、安斎は先ずそう訊ねた。
プロのガードとしての自分の働きに難を言われるとは思わないが、それ以外のことで・・・・・依頼人の息子に手を出したということ
に、敏い正紀が気付いたのかもしれないと思ったからだ。
 「君は思った通り、優秀だったよ」
 「・・・・・」
 「ただ、これほど瑞希に近付くとは思わなかったけどね。君の好みは頭のいい、大人の女だと思っていたし」
 「馬鹿で、素直な子供も、可愛いと思いましたよ」
 「・・・・・それは、褒めてるのかな」
 さすがに息子が男に手を出されたということは想定外だったのか、正紀は珍しく苦い笑みを浮かべている。
しかし、最終的に選んだのは、望んだのは瑞希だ。ただ、安斎もその魅力的な手を振り払うことが出来なかっただけだ。
 「君と、専属契約を結ぶのには、いったいどの位掛かるんだ?」
 「報酬は、通常通りで構いません」
 「本当に?」
 「ただ、彼が私を求めた場合、私がその手を拒むことはないと覚悟してください」
 「・・・・・あんな子供でいいのかい?」
 「彼が、いいんですよ」
1人の人間に心を掴まれるなんて、安斎はこれまで考えたこともなかった。恋愛も、セックスも、自由に、奔放に。海外生活が長
かった影響もあるが、身も心も縛られるということが窮屈としか思えなかった。
しかし・・・・・今の安斎は少し違う。
誰かに縛られるのは今もあまり気が進まないが、それでも、安斎は瑞希を誰にも渡したくないと思ってしまった。矛盾しているかも
しれないが、それほどに強烈に心を惹かれたのは瑞希が初めてなのだ。
愛とか恋とか、そんな甘いものじゃないかもしれない。ただ、瑞希の喰らい付いたとしても簡単には食われないだろう往生際が悪
いところが気に入っている。
(あの子なら、多分俺を退屈にさせないだろう)
それがやがてどんな感情に変わるかは今は分からないが、その過程さえも楽しめるだろうと思った。
 「瑞希がいる限り、契約は続行ということでいいということだね」
 「今のところは」
 「・・・・・君が優秀なガードじゃなかったら、確実に抹殺していたけどな」
笑いながら物騒なことを言う大企業のトップの男は、これでもかなりの親馬鹿のようだった。

 「・・・・・」
 今も、安斎の目の前では親子の別れ難い言葉が交わされている。これが、初めてといってもいいほどの光景だとは安斎も知ら
なかった。
それほどに、今の瑞希と正紀は固い繋がりがある親子に見えた。



 「じゃあ、行ってくる」
 「・・・・・っ、父さん!」
 背中を向け掛けた父を思わず呼び止め、瑞希はそのまま駆け寄って・・・・・父ではなく、高畑を強く睨みあげながら言った。
 「絶対、父さんだけは裏切るなよ!」
 「・・・・・はい」
 「絶対、絶対だからな!」
 「私が正紀様を裏切ることは、絶対に有りえません」
言葉だけのそれを信じるかどうかは瑞希次第だった。
それでも、瑞希は高畑が嘘をついていないということは分かる。東條院に背を向けたとしても、瑞希を殺そうとしたとしても、父だけ
は裏切らないということは信じられた。
 「・・・・・」
 正紀はポンッと優しく、自分の腕を掴む瑞希の手を叩くと、そのまま眼差しを高畑に向けて歩き出した。
揺ぎ無く、確かな関係。親子である自分よりも遥かに正紀を理解し、正紀も頼っているというのがよく分かる。
それが、今まで自分が目を逸らしてしまっていた時間だけが関係あるとは思わないが、瑞希は長い間立ち止まり、子供のように
父を拒絶していた自分自身の行動を後悔していた。





 「瑞希様」
 正紀と高畑、そして幾人もの部下達が共に搭乗の為に姿を消すと、柳瀬が静かに声を掛けてきた。外に出て、飛び立つ飛行
機を見送るのかと思ったのだろう。
しかし、瑞希は首を軽く振り、そのまま出口にへと向かい始めた。今飛行機を見たら・・・・・泣いてしまうかもしれない。
 「・・・・・」
 そのまま、先程来た時よりも多くなってきた人混みを避けながらロビーを歩いていた瑞希は、ふと、向こう側からやって来る一団に
視線が行った。
 「あ・・・・・」
 「瑞希様?」
 「・・・・・」
(ユウ、だ)
向こう側から歩いてくる一団の先頭に立っているのは綾辻だった。
背が高く、華やかな容貌の彼は人混みの中でもかなり目立ち、行き交う女達が熱い視線を向けているのが分かった。
彼が普通の職業ならば・・・・・いや、もしも東條院家の一員だったならば、こんな数などめが無いほどの世界中の人間が彼を欲
しがったことだろう。
服装から見ても、今から彼もどこかに旅立つのだろうということが分かった。

 「分からない?ミー君」
 「こんな所にまで来て、迷惑だというのが分からないのか?」
 「俺と君は全然別の場所で生きている。二度と来るな、迷惑だ」

 手酷い拒絶。
幼い頃、ほんの限られた短い時間しか共にいなかったが、子供の自分に対して裏表の無い態度を取ってくれた唯一の相手。
だが、今はもう視線を向けることさえ許されないだろう。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 綾辻も数人の人間に囲まれ、何か話しながらこちらに向かって歩いてくる。
きっとその視界の中に自分の姿を捉えている筈なのに、ちらりとも視線を向けてはくれない。
今回のことは、昔の甘く優しい思い出さえも壊してしまった・・・・・そう思いながら、瑞希は少し俯き加減になったまま歩き、やがて
ごく近くに綾辻の声が聞こえた。
(・・・・・見ちゃ駄目だっ)
唇を噛み締めた瑞希は、最後に・・・・・本当にこれで最後だと言うように、ちらっと目線を上げた。
 「・・・・・っ」
 綾辻が・・・・・こちらを見ていた。
瑞希が自分の視線に気付いたことが分かったのか、僅かに目を細め、口元を上げた。
 「ユウ・・・・・」
すれ違いは本当にあっという間の出来事だった。
しかし・・・・・声は交わさなかったが、確かに綾辻は・・・・・ユウは、自分を見て微笑んでくれた。それが嬉しくてたまらなくて、瑞希
は思わず立ち止まってしまった。
 「瑞希様?」
 「・・・・・」
(全部が・・・・・悪い結果になったわけじゃない・・・・・)
 確かに、今回のことは瑞希の心に深い傷を残したが、新たに気付かされた気持ちや新しい出会いもあった。
長年、会わないまま過ごしてきた綾辻との再会もその一つであるし、そして・・・・・。
 「・・・・・」
瑞希は自分の少し後ろを歩く安斎を振り返った。
安斎は何も言わなかったが、その目が笑っているように見える。

 「良かったんじゃないですか?」

何時もの小馬鹿にしたような口調で、眼差しで、そう言っているような気がした。



 言葉も無く視線を交わす瑞希と安斎を、柳瀬はただ黙って見ているしか出来なかった。
今までの自分なら、2人が交わす視線の意味をどうしてなのか問うことが出来ただろうし、そもそも、瑞希の視線の先にいるのは
安斎ではなく自分だったのではないかと思う。
だが・・・・・その瑞希の信頼を裏切ってしまったのは自分の暴走からで、今更後悔しても遅過ぎることだった。
 これから、どの位時を過ごせば、再び瑞希の信頼は戻ってくるだろうか?
しかし、その頃にはもう・・・・・瑞希の信頼以外の感情は、全て別の人間に向けられているかもしれない・・・・・柳瀬は苦くそう思
いながらも、瑞希の側から離れることが出来ない自分を自覚していた。



 「どうなさるんですか?」
 「・・・・・大学に行く」
 「了解」
 ようやく、何時もの生活に戻る気になったのかと、安斎は表情には出さないものの安堵していた。
弱みに付け込んでその身体を抱くような真似をしたが、元々瑞希はそんなに弱い人間ではないと思っていた。
それを証拠に、今瑞希はきちんと自分の足で立っている。
 「これからは週に何度か会社にも顔を出す。今から父さ・・・・・オヤジがどうなっても俺が采配を振れるように顔を売っておかない
といけないしな」
 「瑞希様」
 「今まで以上に力になってもらうぞ、柳瀬」
 「はい」
 「安斎は・・・・・報酬分きっちり働いてもらうからな」
側にいて欲しいと言わない瑞希がとても彼らしく思えてしまい、安斎は思わず浮かびそうになる笑みを殺しながら頷いた。
 「プロですから」







 やることはたくさんあって、正直どうなるかは自分でさえも分からない。
だが、やる前から諦めたくないし、自分が出来ないとも思いたくなかった。
それに、自分には・・・・・犯罪を犯そうとしてくれるほどに愛情を向けてくれる側近がいるし、身体を張って自分の混乱する気持ち
を静めてくれるガードもいる。
(出来ないことなんて・・・・・あるはずがない)
 「行くぞ」
 先頭を切って歩く瑞希。
その後ろに長身の安斎と柳瀬が続く。
そして・・・・・その3人を囲うように、護衛と称する男達が数人、瑞希だけを守る存在として付いている。
今まではその護衛達を鬱陶しく思っていた瑞希だったが今は違う。自分が守られるべき存在としての自覚を持ち始めたのだ。
(よしっ)
いずれ近い将来、絶対に誰にも頼らずに1人で立ってやると思いながら、瑞希は毅然と顔を上げ、周りの視線を浴びる中、ゆっ
くりと歩を進めていった。




                                                                      end




                                     





ボディーガード×お坊ちゃま。これで最終回です。
ここまで長くなるとは思いませんでした。終わって良かった・・・・・。