準備編
『お前、暇だろう』
電話に出て直ぐ、そう言った相手の言葉に海藤貴士は苦笑を浮かべた。
自分の地位をひけらかすつもりはないが、日本でも屈指の暴力団組織、大東組の理事である自分にそんなことを言う相手はな
かなかいないだろう。
彼の言うような暇はないというのが本当だが、わざわざ電話を掛けてくれたということに意味があるような気がして、海藤はそ
の理由を訊ねてみた。
「どうしたんですか?上杉会長」
『ちょーっと、思いついたことがあってな。お前の協力が必要なんだ』
「俺の?」
上杉がこんなふうに言うのはとても珍しい。
しかし、声の響きから、それが裏の世界の話ではないことは感じ取れた。どこか笑みを含んだそれに、また何かとんでもないこ
とを考えたのだろうということが簡単に予想がつく。
『まあ、聞け』
どうやらそれに、自分も巻き込まれてしまいそうだ。
倉橋克己は足早に廊下を歩いていた。
予定の時間を5分ほど過ぎてしまい、内心かなり慌てている。本来なら15分前には着いているはずなのにと自分の不手際を内
心で後悔しながら、倉橋はようやく目的のドアを見つけ、一度深呼吸をして気持ちを落ちつけてからドアを開けた。
「遅れて申し訳ありません」
「遅いぞ〜、倉橋」
直ぐに声を掛けてきたのは、大東組系羽生会会長、上杉滋郎だった。ニヤニヤ笑っている様子から見て気分を害しているように
は見えなかったが、それでも倉橋は深く頭を下げて再度謝罪した。
「申し訳ありません」
「まー、普段買わないもんを頼んだんだからしかたねえか」
「いえ、私の不手際です」
「真面目だな、お前」
苦笑する上杉は立ち上がり、そのまま後ろを振り返る。
「やるか、海藤、伊崎」
「まだ来られていない方がいますけど」
そう言った海藤の言葉に、倉橋は改めて部屋の中を見まわした。焦っていたために今まで気づかなかったが、確かに部屋の中に
はまだ海藤と上杉、そして日向組若頭の伊崎恭祐しかいない。
予定では、後もう2人、来るはずだったと思う。都合が悪くなったのかという考えが頭をかすめたが、それならあらかじめ連絡があ
るはずだ。
「やってりゃ来るだろ」
「そうでしょうか」
「ここまで来て逃げるこたぁないと思うぞ?なんせ、外堀から埋めていってるからなあ」
何を、なんて、聞き返すこともない。この上杉が何の策もなく、こんな馬鹿らしいことを考え付くなんて思う方がおかしかった。
海藤と伊崎もそう考えたのか、直ぐに納得して、今倉橋が持ってきた荷物を受け取る。
「あの、言われたものを買ってきたつもりですが・・・・・」
恥ずかしかったが店員にも念を押して買ってきたので間違いはないはずだが、それでも初めて耳にしたそれが買ったものと本
当に合っているのか、いまだに自信がなかった。
こんなふうに迷うのは、仕事では滅多にないことだ。
海藤がビニール袋の中を覗き、軽く頷いた。
「多分、合ってる」
「そうですか」
ようやく安心してホッと息をついた倉橋に、海藤がその苦労を労うように声を掛けてくれる。
「綾辻ならこういうことに慣れているんだろうが・・・・・」
「・・・・・今回は、手を出さないらしいので」
「あいつも楽しみにしているんだろう」
「・・・・・」
(こんなことに会長を巻き込むことなんてないのに・・・・・っ)
上杉の突拍子もない提案に即座に乗っただろう綾辻勇蔵の顔を思い浮かべ、倉橋は何とも言えない気分になった。
「ここですね」
笑みを含んだ橘の声に、あからさまにまとう空気が絶対零度にまで落ちた。それでも、ここで帰るという選択は出来ない。
「すごく楽しみにしてるから」
綺麗な顔に極上の笑顔を湛えて見送ってくれた愛しい恋人の期待を裏切れるはずがなかった。
(上杉・・・・・覚えていろ)
大東組の総本部長という地位にある自分にこんな真似をさせるなんて、あの男くらいしか考えつかない。私怨で権力を使うこ
とは愚かだと思っているが、今回ばかりは絶対に何らかの報復をしてやろう。
そんなことを考えながら、江坂凌二は見上げたビルの中に足を踏み入れた。
郊外の洒落たビルの中は、普段は見かけるはずもないだろう厳つい男たちが何人も立っている。江坂ほどの地位のある者を警
護するには必要な人数だろうし、今日集まる自分以外の人間の身分を考えても仕方がない。
「こちらです」
橘が開けてくれたドアの中に足を踏み入れた瞬間から、顔を顰めたくなるような甘い匂いが鼻をついた。
「遅いですよ〜、本部長」
「・・・・・」
江坂の姿に気づいた上杉がからかうように声を掛けてくる。
「来るとは言っていなかったと思うが」
「来ないとは思いませんでしたからね」
「・・・・・」
「倉橋、あれ、渡してやれ」
「はい。・・・・・江坂本部長、これを」
「・・・・・」
倉橋の差しだしたそれに視線をやり、江坂はもう一度部屋の中にいる人物たちを見る。直ぐに手を出さない江坂に、上杉は目
を細めた。
「スーツ、汚れても知りませんよ」
「・・・・・」
口の中で舌を打ち、江坂はスーツの上を脱ぐ。そして、倉橋が差しだしたもの・・・・・黒のシンプルなエプロンを身につけた。
マンションの中で静のために腕をふるう時はもちろんこれを身に付けることは多いが、まさかこんな所でこんな姿になるとは。
「よく似合ってんじゃないですか」
頭の片隅では予期していたが、本当にそれが当たると頭が痛い。それでも、恐縮する倉橋に文句を言うほど理不尽にはなれず、
江坂は無言のままシャツの腕をまくった。
「さっさと済ませる」
「はいはい」
こんな茶番劇に一々文句を言うのは無駄な労力だ。それよりも少しでも早く済ませた方がいいと気持ちを切り替えた江坂は、
ふと、少し離れた場所に置いてあるエプロンが目に入った。
「他に誰が来るんだ?」
ここにいる人間以外に、今回のことに巻き込まれる者などいるのだろうか。
思わず眉を顰めた江坂は、僅かなドアのノブが回る音が耳に入って顔を向けた。
この時期、日本に来るのは本当に偶然だった。
ほんの2、3日の滞在だが、内心日本を恋しがっている恋人も同行してやろうと思ったのは、彼の気持ちが自分にあると自信が
持てるようになったからだ。
運が良ければ、日本の桜を一緒に見ることが出来るかもしれない。
そんなことを思いながら準備を進めていた時に掛かってきた国際電話の内容に、イタリアマフィア、カッサーノ家の首領、アレッ
シオ・ケイ・カッサーノは珍しく絶句してしまった。
「・・・・・」
日本にやってきたアレッシオは、空港で恋人と別れた。直ぐに合流するが、1分1秒でも離れるのは辛い。
最高潮に不機嫌な気分のまま、迎えに来た上杉の部下、楢崎久司に案内されたビルに無言で足を踏み入れたアレッシオは、
目的の部屋に入ると部下を促して言った。
「AMEDEIのチョコレートだ。これを使え」
「わざわざ買ってきたのか?」
あまり乗り気でなかった様子を知っていた上杉が感心したように言ったが、どうせ来るのなら母国の最高級品を使うのがいい。
「トモの口に入れるものだ。最高級のものを選ぶのは当然だろう」
「有名なのか?これ」
失礼な上杉は、今気づいたように海藤に訊ねている。男がチョコレートのメーカーを知らないのもわかるが、今のアレッシオにとっ
てその言葉は禁句だ。
「上杉、お前何のために私を呼び寄せた?」
「そりゃ、タロが喜ぶからだな」
「・・・・・」
「ん?」
「ミスター、これの存在は無視してください」
信頼出来るビジネスパートナーの江坂は、そんな上杉の姿をアレッシオの視界から隠すように立ちふさがる。
確かに、無視した方がいいと思い、アレッシオはようやく部屋の中に視線を巡らせた。
ここは、料理を教える部屋らしい。どうせ貸し切ったのだろうが、そこまでして手作りに拘ることもないのではないかと内心では思
うものの、
「日本に帰れるんですかっ?」
可愛らしく全開の笑顔で喜んだ恋人の顔を思い浮かべて言葉を飲み込む。
そんなアレッシオにエプロンを差しだしながら、上杉がよ〜しっと勢いづいて言った。
「じゃあ、全員揃ったところで、ホワイトデーの菓子作りを始めるとするか」
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