クッキング編
服が汚れないようにと用意されたエプロンを身に付けたまでは良かった。しかし、今の状況をどう考えればいいのだろうか。
「じゃあ、ミスター、あんたはご自慢のチョコを溶かしてくれ」
上杉にそう言われ、ボールを手渡されたが、こんなものでどうやってチョコレートが溶けるのかまったく想像がつかない。単純に考えれ
ば温度を上げればいいのだろうが、チョコレートを直接火にあててしまうのはさすがにまずいだろう。
アレッシオの視線は、ある一点に向けられた。
「ミスター」
しかし、足を一歩踏み出した途端、海藤の声が掛かる。
「チョコレートはオーブンで溶かすものじゃありません」
「・・・・・そうなのか」
「湯煎してください」
「ユセン?」
初めて聞く言葉だ。意味はわからないが、それを聞き返すのもなんだか悔しい気がしてそのままチョコレートとボールを持っていると、
海藤が近付いてきて別のボールに熱湯を注いだ。
「そのボールをここに。間接的な熱で溶かすんですよ」
「・・・・・」
説明をしてもらえれば、なるほどと納得できた。どうしてこの説明を上杉は省いたのかと腹立たしく思うが、あの男に文句を言って
も始まらないというのは今さらだ。それよりも、ささやかながら自分が手を加えたものを愛しい恋人・・・・・友春が口にするかと思えば
僅かながら気分が高揚した。
生い立ちのせいで料理など今までしたことがないアレッシオ。その自分が初めて作るデザートを、友春に食べさせることが出来るこ
とが嬉しい。
その気持ちの前では、傍若無人な上杉の言動にも目を瞑ることが出来た。
「・・・・・」
(なかなか溶けないな)
ユセンというものは、思ったよりも時間がかかりそうだ。一瞬、買った方が早いのではないかという考えが頭に浮かんでしまったが、
アレッシオは何とかその考えを打ち消した。
小麦粉や砂糖、塩、そして、バター。
伊崎は真剣にレシピ通りに計量をしていた。若い頃、厨房係になった時期もあるので簡単な料理は出来るものの、さすがに菓子
作りまではやったことはなかった。
組の中には料理上手な者がいるし、自分がする必要性を今まで感じたことがなかったが、上杉から今回の話を聞いた時、こん
な方法もあるのだなと視界が開けたような気がした。
(喜んでくれると良いが・・・・・)
今年もバレンタインデーにチョコレートをくれた楓にお返しをしようとは思っていたものの、それが手作りのクッキーだとは。
今頃、ここにいる男たちの恋人でもある友人たちと一緒にいる楓は、どんなものが目の前に差しだされるのか楽しみにしてくれてい
るだろうか。
「細かいな」
「上杉会長」
先に量っていたバターを泡立て器でクリーム状に練りながら近づいてきた上杉は、後ろから計量器を覗き込みながら呆れたように
言った。
「こんなの、テキトーでいいんじゃないか?」
「でも、作り方に自信がないので、せめて軽量はちゃんとした方がいいと思うんですが」
普通の料理ならば途中で味見をしながら味を調えることも出来るが、クッキーなどの焼き菓子は焼き上がってみなければ味はわ
からない。だとすれば、最初からレシピ通りに作った方が味に間違いはないだろうと思った。
多分、こんな自分を上杉は細かな人間だと思うのだろう。だが、性格なのだからどうしようもない。
気持ちを切り替え、後2グラム足りなかった砂糖を計量スプーンで足すと、1グラム余計に増えてしまった。内心、あっと思った伊崎
の思いに重なるように、
「多いぞ」
既に立ち去ったかと思っていた上杉の指摘する声がする。
「・・・・・まあ、見本があるならそれに従った方がいいだろーな」
「ええ」
結局、上杉もどこかで自信がないのだろう。少しだけ親近感が湧いて、伊崎の唇の端には笑みが浮かんだ。
「・・・・・」
橘がふるった薄力粉とバターを混ぜる。
「ダマにならないように、ですよ」
「・・・・・わかっている」
どうせ自分が帰るまで待機しているのだからと、橘も強引に引き込んだのは良かったが、どうやら江坂よりも菓子作りに詳しいらし
い橘は横から細かな注意をしてきた。
知識のないことに口を挟むつもりはないが、どうして自分がこんなことをしなければならないんだという思いは消えないままだ。
それでも、手は橘の言うとおりに丁寧に泡立て器を使う。自分にはまったくかかわりのない甘い匂い。苦手なそれに、何時もならば
眉間に皺が寄り、黙ったまま立ち去るところだが、今回ばかりは頭の中に愛しい恋人の顔が思い浮かんで自然と耐えることが出
来た。
「きっと、喜ばれるでしょうね」
そんな江坂の手元を覗き込みながら言う橘の声はなんだか楽しげだ。多分、普段完璧を誇る上司の不器用な姿が見ていてお
かしいのだろう。
さすがにこんなプライベートな時間に叱責するつもりもないが、面白くないという気持ちは生まれた。
「・・・・・」
「失敗したとしても、そこまでしたという事実が大切ですから」
「失敗するはずがないだろう」
分量さえきちんと量っていれば、後はオーブンに入れて焼くだけで失敗する要因などない。
(大体、作るなら1人でした方がどんなにいいか・・・・・)
勝手にすべての段取りをした上杉に腹を立てることもなく、意外に手際のいい橘に僅かな嫉妬を抱くこともなく、レシピと睨みあ
いながらも作れるはずだ。
(・・・・・ああ、静も側にいて一緒に作っても良かったな)
「・・・・・」
もっと早くこのことに気づいていれば、今回の誘いは即座に断れたかもしれない。
「どうされました?」
手が止まった江坂に、橘が声を掛けてきた。
「・・・・・いや」
(今さら言ったって仕方がない)
何を言っても逃げになると、江坂は自身の作業に再び集中した。
「本当に、ご苦労だったな」
海藤は手の中のものを見ながら、改めて倉橋に言った。
ハートや星型というオーソドックスな物はもちろん、様々な動物の型をこれだけ集めるのは大変だっただろう。特に、倉橋のような
一見料理などに縁のない男がそれを買う様子を見た者は・・・・・どう思っただろうか。
多分、倉橋自身はそんな他人の視線などまったく気にしないだろうが、海藤はその光景を思い浮かべて少しだけ笑ってしまった。
「何か?」
そんな海藤の気配に敏感に気づいた倉橋が、何があったのかと顔を覗き込んでくる。それに、海藤がいいやと答えると、倉橋は再
び側に置いてあった型に視線を戻して呟いた。
「買った物の方が美味しいことはわかりきっているのに・・・・・」
「そうだな」
「・・・・・っ、申し訳ありません」
「大丈夫、わかっている」
倉橋はここにいる誰かを指して言ったわけではなく、自分自身に対して自嘲したのだ。器用な倉橋の、本当にごく限られた弱
点。だが、それくらいならあっても構わないのではないだろうか。
(この顔を見られないなんて、後で後悔するかもな)
ホワイトデーのお返しを貰うと意気込んでいた綾辻だが、この場にいたら倉橋の様々な顔を見れてもっと楽しんだだろう。
それも仕方がないかと、あくまでも倉橋側の海藤は思い直し、まだエプロンを付けていない倉橋にそれを手渡した。
「・・・・・私も、参加するんでしょうか」
海藤の手にあるそれをじっと見つめ、倉橋は彼らしくない頼りなげな声を漏らす。
「もちろんだ」
「・・・・・情けないのですが、私はまったく自信がなくて・・・・・」
「それでも、形を作ることは出来るだろう?」
「それ、くらいなら」
「あいつも、お前が作った物は嬉しいだろう」
「・・・・・っ」
海藤が何を言おうとしているのか、もちろんわかったらしい倉橋の瞳が動揺で揺れる。普段は表情に乏しい倉橋も、綾辻のこと
となるとわかりやすくなるなと、海藤はアレッシオが溶かしたチョコレートの入ったボールを手にする。
「おい、海藤、これ、他の味を加えても大丈夫なのか?」
その時、上杉が楽しげに声を掛けてきた。また、何か企んでいるようだが、理事になった後でも変わらず接してくれる彼の態度
は心地良かった。
取りあえず皆で分担した作業を終え、いよいよクッキーの形づくりに入った。
上杉は自分に割り当てられた生地を前に、らしくもなくじっと考え込む。
(あいつが喜びそうな形、ねえ)
大学生になっても、まだまだ子供で、好奇心旺盛な恋人。上杉がホワイトデーでクッキーを送るということ自体にかなり喜んでく
れていたが、もっともっと嬉しそうな顔を見たいというのが本音だ。
そんな恋人、太朗は、どんなクッキーを送れば喜んでくれるだろうか。
「・・・・・」
上杉はチラッと視線を動かした。そこにはイタリアのマフィア、アレッシオが、チョコレート生地を使ってマーブルクッキーを作っている。
多少形はいびつながら、自慢のチョコレートを使えて満足しているだろう。
(・・・・・こっちは・・・・・と)
そのアレッシオの向かいでは、江坂がクッキー生地を型を使ってくり抜いていた。その形がハート型というベタなもので、思わず笑
いそうになる。いや、
「・・・・・っ」
江坂の頬に白い粉がついてしまっているのを見てしまい、上杉はとうとうふき出してしまった。何万という人間を統べるNo.3の男
が粉にまみれて(ほんの少しだけだが)、恋人のために尽くしているとは・・・・・。
(まあ、俺も人のことは言えないがな)
バレンタインデーに太朗にチョコをねだり、ホワイトデーにはそのお返しとして普段はあまり貢がれてくれない太朗の驚く顔が見た
くて何かしら考え、贈ってきた。今回はたまたま、手作りのものも面白いかなと思って、周りの似たような立場の男たちを巻き込んだ
が、思いがけなくみんな本気になっているのを見て、それだけ恋人に対する気持ちが深いことを知った。
多分、そう思う今の自分の顔も、目の前の男たちと同様だらしなく緩んでいるだろう。それが情けないと思うよりも、どこか・・・・・
誇らしい。
「上杉会長、早く手を動かさないと生地が硬くなりますよ」
「ん?」
この中で、多分一番器用だろう海藤が声を掛けてきた。
「お前は出来たのか?」
「ええ、まあ」
「どれ・・・・・へえ〜、やっぱ上手いな、お前」
海藤が作っていたのはアーモンドが表面に乗った、高級そうなものだ。
「1人だけ高等テクニック使ってんじゃねえぞ」
「そんなつもりはないんですが」
謙遜する海藤の胸元に軽く肘を当てた上杉は、入口で気配を消すようにして立っている強面の男の名を呼ぶ。
「ナラ、自分だけ関係ない顔すんなよ」
「会長・・・・・」
「お前も渡す相手、いるだろ」
「・・・・・」
「この場じゃ恥もかき捨てだ。ほら、生地なら分けてやるから」
面白いことをするなら大勢で。最近では集まることもままならない仲間だからこそ、捻りだした時間は目一杯楽しまなければ損だ。
上杉の楽しげな声に触発されたのか、それとも、逃げることは出来ないと思いなおしたのか、男たちはそれぞれ手を動かす。
型が出来れば、焼くのは機械がしてくれる。
(これで失敗なんかしねえだろ)
たとえ、それが炭になっても、生焼けでも、恋人たちは喜び、満面の笑顔を向けてくれるだろう。
チーン
「お、焼けたな」
「馬鹿、直ぐ開けたりせず、少し蒸らした方がいいんじゃないか」
「クッキーは関係ないと思いますが」
「早くしろ、トモが待っているんだ」
「・・・・・っ」
「大丈夫か、倉橋」
「火傷なら直ぐに冷やした方が」
大の男たちが顔を寄せあい、自分たちの成果を確かめる。見た目だけは売り物に負けるが、きっと味は完璧なはず・・・・・と、誰
もが思っていたかも、しれない。
「ここまでだな」
まず、アレッシオが自らの分のクッキーを取り、ボディーガードと共に早々に部屋を出ていく。
「私も先に帰らせてもらう」
橘が手早く包んだクッキーを手に歩こうとした江坂は、ふと足を止めて上杉を振り返った。
「上杉」
「はい」
「少しは考えてから行動すると良い。何時までも自由気ままではいられない身だと覚悟しておくんだな」
「了解」
「・・・・・」
肩を竦める上杉にそれ以上言わずに出て行った江坂。忠告ともとれる言葉に苦笑を零した上杉は海藤に視線を向けたが、海
藤はちょうど携帯を見ている。
「何かあったのか?」
「上杉会長、私たちも一緒に行った方が良いようですよ」
「ん?」
「せっかく日本に帰ってきたからと、皆で夕食を共にする約束をしたようです」
誰が言いだしたかなんて、聞かなくても直ぐにわかった。
アレッシオに同行して帰国したであろう彼の恋人は、自分の恋人の友人でもある。いや、それだけではない。海藤や江坂、そして
伊崎の恋人とも仲が良く、帰国したと聞けば会うだろうということは予想がついた。
せっかくの来日なのに、数時間恋人と離れてしまったアレッシオは、どうやらこの後もしばらくは恋人をその友人たちにとられるだ
ろう。
「俺たちも巻き添えだな」
「らしいですね。・・・・・伊崎」
2人が会話をしている間、小声で電話をしていた伊崎が顔を上げて頷いた。
「楓さんからです。急いで来るようにと」
困ったような顔をしているが、恋人を溺愛している伊崎に異論はないようだ。
上杉は、しかたねえなと笑った。
「ナラ、暁生も呼んでやれ。こうなったら騒いで、あいつらをとことんからかってやろう」
「会長・・・・・」
上杉が、単にアレッシオや江坂をからかうためだけに言っているのではないということは、もちろんこの場にいる者たちはわかっ
ていた。豪快で、無頓着なように見えても、細かな気遣いが出来る男だということを。
「伊崎」
「ええ」
「車を回します」
「あ、私が」
倉橋の後を追うように楢崎が出ていき、海藤も自分の分のクッキーが入った袋を手に取る。
料理の最高のスパイスは愛情。
そんなことを思いながら目を細めた海藤は、これを渡した時の真琴の顔を想像して、自分の心が湧きたつのを感じていた。
end
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