春の歓楽



プロローグ







 『マコッ、約束したじゃん!絶対に帰ってお祝いするからって!』
 「え?」
 『今月!俺、卒業だよ!』
 「あ・・・・・」
 『まさか、忘れてないよねっ?』



 西原真琴(にしはら まこと)は来月4月には大学2年に進級する19歳の青年だ。
ごく普通の青年である真琴だが、去年大学に進学して間もなくバイト先で知り合った男、海藤貴士(かいどう たかし)と紆余
曲折あったものの、今では相思相愛の恋人同士になっていた。
男同士というイレギュラーな関係。そして、海藤の普通ではない職業。
そのせいで、真琴は普通ならば経験しなかったであろう災難にも遭ってしまったが、それでも海藤への想いが無くなるはずも無く、
今もって2人は深い愛情で結ばれていた。
 3月に入り、既に大学も休みになった真琴は、毎日バイトに明け暮れていた。
1人暮らしと(実際は違うが)大学生活、慣れない日常がすっかり普通になった頃で、毎日が慌しくも楽しい毎日で・・・・・だか
ら真琴はすっかり忘れてしまっていたのだ。
この3月に、歳の離れた弟が小学校を卒業するということを。



 3月も一週間を過ぎた日の夜。
今日はバイトが休みの日だったので、たまにはと真琴が夕飯の支度をして海藤の帰宅を待っていた。
夕飯の支度といっても真琴が出来る料理は限られていて、今夜のメニューはほとんど失敗がないおでんだ。
海藤のように出汁から作ることなど到底出来ずに市販の物を使って作るが、材料を煮込んでいればそれなりの美味さは出てく
るものだ。
材料を切って、煮込む。
その簡単な料理は、この冬真琴が覚えた鍋物シリーズの一つだった。
 「・・・・・あっ、あっふぃっ」
 摘み食いのコンニャクを口に入れた真琴が熱さに眉を顰めた時、鞄の中に入れっぱなしだった真琴の携帯が鳴った。
聞こえてくる音楽は、家族用にと設定した楽しいものだ。
 「誰だろ?母さんかな?」
荷物を送ったとかいう連絡かなと何気なく電話に出た真琴の耳に、いきなりの大声が響いた。
 『マコ!俺だよ!』
 「真ちゃん?」
 それは、末の弟真哉だった。
今小学校6年生の真哉は、3人の兄達の中でも真琴の事をとても慕っている(兄2人もかなりのブラコンだが)。
大学に進学した真琴が上京することに最後まで反抗し、真琴が男と付き合っているらしいと知った時は、単身乗り込んできて
海藤と対峙したほどだった。
 実家にはかなり頻繁に連絡を取っている真琴だったが、真哉とゆっくり話す時間はなかなか無く、里帰りも去年は出来ず仕
舞いだった。
正月はさすがに帰ったものの日帰りで、初詣やデパートの初売りに付き合わされたりして、落ち着く時間も無かったというのが本
当のところだ。
 「珍しいね、電話くれるなんて」
 『だって、マコから全然連絡ないし』
 「ごめん、ごめん」
 『謝んなくていいよ。それより、何時帰ってくる?』
 「へ?帰る?」
急に妙なことを言われて真琴は途惑った。
いや、実家に帰ること自体はそんなにおかしいことではないし、真哉の電話の9割は《何時帰ってこれる?》という言葉で終わる
ぐらいだ。
 ただ、今の言葉はあまりにも帰ることを前提としていたので、真琴は首を傾げてしまったのだ。
 「春休みの間に一度は顔を見せようとは思ったけど・・・・・まだ何日か決めてないよ?4月になっちゃうかもしれないし」
そう言った途端、真哉は電話口の向こうで叫んだのだ。
 『マコッ、約束したじゃん!絶対に帰ってお祝いするからって!』
 「え?」
 『今月!俺、卒業だよ!』
 「あ・・・・・」
 『まさか、忘れてないよねっ?』
 「え、あ、えっと・・・・・」
(忘れてた・・・・・)



 小学6年生の真哉が3月に卒業する・・・・・その分かりきっていたことを真琴はすっかり忘れていた。
確かに去年、家を出る時に真哉と約束した。
真哉の卒業祝いは絶対するということを。
 今年の正月に帰った時も、もう直ぐ中学生だという話をしたのに、それに付随しているはずの小学校卒業という行事は全然
頭の中に無かったのだ。
 『今は大学だって休みだし、バイトだって少しは休めるよね?』
 「真ちゃん・・・・・」
 『やっと俺、中学生になるのに・・・・・大人に近づけるのに、マコは一緒にお祝いしてくれないの?』
 「そ、そんな事ないよ!」
 『じゃあ、帰って!』
 「う、うん・・・・・」
本当ならば直ぐに頷いてやりたいが、一応海藤の意見も聞いた方がいいような気がした。
家族思いの真琴の気持ちを大切にしてくれる海藤が反対するとは思わないが、真琴が里帰りすることで色々な問題が出てく
るだろう。
正月に里帰りした時も、電車ではなく車で、2人の人間がガードに付いてきてくれた。
真琴は申し訳ないからと断わったのだが、念の為だからと海藤は笑って取り合ってくれなかったのだ。
 自分がそれほど危ない位置にいるとはいまだに自覚は無いものの、海藤が安心するならと恐縮しながらも受け入れている真
琴。
だからこそと言うわけではないが、出来るだけ手を煩わせない為にも、事前の相談はしておきたかった。
 「・・・・・明日、返事する」
 『今言えないの?』
 「・・・・・うん、ごめんね」
 『・・・・・マコは、俺よりもあいつの方が大事なんだ』
 「そんなことないよ!真ちゃんの事だって大事だよ!」
 嘘ではない。
真琴にとっては海藤と家族は全く別の意味で両方とも大切な存在だ。
だからこそ、真哉の卒業祝いは直接会って言いたかったし、海藤の心配を無くす為には相談もしておきたかった。
 真琴の中ではきちんと区分けされていることも、真哉にはまだ理解出来ていないようだ。
 『・・・・・あいつが駄目だって言っても、あいつを引きずってでも帰ってきてよっ』
 「ひ、引きずって?」
 『マコが帰ってきてくれるなら、邪魔なオマケがいても俺我慢するから!』
 「・・・・・」
(海藤さんも一緒に?)
 そういえば、と、真琴は改めて思った。
海藤と暮らすことは両親には話していたが、実際にお互いが顔を会わせたというわけではない。
兄弟達が・・・・・小学生の真哉でさえ会ったのに、だ。
(・・・・・会ってくれない・・・・・よね)
 さすがの海藤も、わざわざ真琴の実家にまで赴いて両親に会ってくれるとは思わなかった。
それに、両親に会わせることで妙な負担は掛けさせたくなかったし、肉親の縁に薄い海藤に自分達の家族仲を見せ付けるよ
うであまり気が進まない。
 『とにかく、いいって返事しか聞かないから!明日絶対電話してよ!』
 「う、うん、分かった」



 通話が切れた携帯を見下ろしながら、真琴は深い溜め息をつく。
(とにかく、帰ることは話さなきゃ)
海藤にも一緒に里帰りして欲しいとは言わないでおこうと、真琴は心の中で自分に言い聞かせた。