春の歓楽
1
「お帰りなさい」
何時ものように玄関先で迎えてくれた真琴の顔がどうも優れない気がして、海藤はそっとその頬に手を触れながら穏やかに尋
ねた。
「何かあったか?」
「・・・・・」
真琴が海藤に対して言いよどむという事自体珍しい。
今日はバイトも休みのはずだし、昼間買い物について行ったはずの運転手兼ボディーガードの海老原からも何の報告も上がっ
ていなかった。
眉を顰めた海藤は、そのまま身を屈めて真琴の顔を覗き込む。
「真琴」
「・・・・・」
「真琴」
「・・・・・どうしよ、海藤さん」
本当に困ったように眉を下げて真琴が話したのは、さすがの海藤も想像していなかったことだった。
海藤貴士(かいどう たかし)・・・・・若干32歳の彼は経営コンサルタント会社の社長という表向きの肩書きの他に、もう一
つあまり人には言えないような立場の人間でもあった。
それは、広域指定暴力団大東組の傘下、開成会の会長という立場だ。
いわゆるヤクザの親分だが、海藤は古くからの体制を改革し、暴力や薬など犯罪ではなく合法の資金を稼ぐ方法・・・・・それ
は主に株だが・・・・・で、今や組織の中でも最注目されている存在だった。
そんな海藤と、普通の大学生である真琴との関係は、始めは海藤の真琴に対するレイプまがいの関係強要から始まったが、
海藤が真琴を深く愛するようになり、真琴も海藤の行いを許して好きになったことで、きちんとした恋人同士となった。
もちろん、互いの生活環境はまるで違うが、2人とも出来るだけお互いを理解しようと努力しているし、何より深い愛情で結ば
れているので、今まで起こった様々な出来事を乗り越えることが出来き、愛情も日々深くなっていっていた。
「卒業か」
真琴の口から出たのは、海藤が危惧していた自分の裏の仕事関係の問題ではなく、真琴が一番大切にしている家族の話
だった。
海藤は、去年の夏に一度だけ会った真琴の末弟、真哉の顔を思い浮かべた。
まだ小学生ながら、上の2人の兄達以上にしっかりとした性格で、海藤に対しても一歩も引かないで向かってきた。
(いい目をしていたが・・・・・)
海藤には真っ直ぐ睨むような目を、真琴には全開の愛情を込めた目を向けていた真哉。
真琴が大好きで、多少ブラコンが過ぎる感じがするものの、海藤にとっては足元で子犬が吼えているようなものでしかない。
「帰ってやればいい」
海藤は直ぐにそう言った。
小学校卒業という、真哉にとっての大イベントに、大好きな真琴を呼びたいという気持ちは理解出来たからだ。
不思議と、海藤の胸の中にも温かな思いが生まれた。真琴の兄弟の話なのに、自分にとってもごく身近な出来事のように思え
るのだ。
「・・・・・うん」
「いや、俺も一緒に行こう」
「え?」
「お前と暮らしているのに、一度も挨拶をしていないだろう。俺みたいな立場の人間は近寄らない方がいいとは思うが、一度は
挨拶をしておいた方がいいかもしれない」
「海藤さん・・・・・」
「それに、兄弟達には会っているのに、両親には会っていないのはおかしくないか」
それは、少し前から海藤が思っていたことだった。
自分の裏の世界とは全く関係の無い真琴を愛し、生涯の伴侶と決めたからには、真琴のことは絶対に守り抜くと誓ったが、その
真琴の向こうには家族がいるのだ。
海藤に恨みを持つ人間が、海藤が大事にする真琴やその家族に手を出さないとは言えない。
それならば、一度は直接会って、真琴の両親がどういう人間なのかを知っておいた方がいいかもしれないと。
「・・・・・それとも、お前は嫌か?」
ヤクザという立場は別にしても。、男の恋人というのは世間的にはあまり知られたくない関係だろう。
真琴が嫌ならば止めるつもりで言った海藤の言葉を聞いた途端、真琴は隣に座っている海藤にバッと抱きついた。
「真琴?」
(どうしよ・・・・・嬉しいっ)
真琴は胸が詰まっていた。
もちろん、それは嬉しさからだ。
「真琴」
「あ、ありがと・・・・・」
最初の頃、男同士だという事に躊躇っていた自分が海藤を受け入れた時、真琴は2人の関係を誰に知られても恥ずかしくな
いと思うようになった。
もちろん自分から言いふらすつもりは無いが、それで友人が離れていっても、海藤さえ傍にいてくれればいいと思った。
それでも、大好きな家族には本当の海藤を見てもらって認めてもらいたいと、兄達や弟には正直に話し、その上で認めてもらっ
た真琴は、今だ何も知らない両親に対して多少の負い目を感じていたのだ。
「俺が挨拶に行って・・・・・嫌じゃないか?」
「・・・・・うん」
「俺達の関係を話しても?」
「うんっ」
「・・・・・ありがとう」
礼を言うのは自分の方だった。
海藤に誰よりも何よりも大切にされていて、自分は何も返せないのが悔しいくらいだ。
年齢も立場も収入も、全て真琴より上の海藤に敵わないのは自覚しているし・・・・・だからこそ、真琴は精一杯真っ直ぐに海
藤を好きでいようと思っていた。
周りの好奇の目など全く気にしないくらい、海藤のことだけを見つめていくつもりだ。
「・・・・・海藤さん」
「ん?」
「無理・・・・・してないですか?」
「無理?」
「両親に会ってくれるのは嬉しいけど・・・・・でも、もしかしたら、すごく嫌な思いをしちゃうかもしれないし・・・・・」
「・・・・・お前の両親はそんな人間か?」
「違うけど!違うけど・・・・・今回は、分かんないです」
男同士という関係を両親がどう理解するかは分からない。
受け入れてくれるか、それとも反対されるかは・・・・・五分五分のような気がした。
人を罵倒したりする所を見たことがないくらい穏やかな父親と、暢気でおおらかな母親だが、実際に息子が人並みではない恋
愛をしていると知ったらどうするだろうか。
(殴ったりは・・・・・しないとは思うけど)
とても体育会系ではない父親だが、そろばん塾を経営しているだけに理詰めで別れを促すかもしれない。
「・・・・・大丈夫かな」
「大丈夫だろ」
真琴の耳元で、海藤の笑う気配がした。
「お前の両親だ」
「・・・・・」
「それに、もし反対されたとしても、お前はそのまま攫っていくしな」
「・・・・・!」
「お前の育ったところが見たい。俺を連れて行ってくれるか?」
「・・・・・はい!」
もう、迷うことは無かった。
真琴自身も、自分が育った街を、両親を、海藤に見てもらいたかった。
![]()
![]()
![]()