春の歓楽



16







 電車の窓の外に、見慣れたビルの山が見えてきた。
(帰ってきたんだ・・・・・)
以前は、やって来たという思いの方が強かったが、今の真琴にとっては既にこの地は帰ってくる場所となっているのだ。

 「迎えはいいですよ、電車で帰ります」

 誰か迎えに行かせると言った海藤の言葉を断り、真琴はもう駅にいるからと電話を切った。
実際に動くのは海藤の部下だし、海藤からすればこの距離を車で往復することなど何でもないのかもしれないが、真琴はそれに
慣れたくないと思っていた。
それらのお金も人も全て海藤のもので自分のものではない。あくまでも自分はバイトをしながら大学に通っている普通の大学生だ
と思っていたい。
 「本当は家賃も受け取ってもらいたいんだけど・・・・・」
 真琴の力では10分の・・・・・いや、20分の1でも無理かもしれないが、いくら恋人といっても甘えてばかりはいたくなかった。
しかし、海藤は真琴には絶対に金を出させないのだ。
あまり強引に断るのもしたくないので、真琴は海藤の好きなコーヒー豆や、入浴剤などを買うようにしているが、今まで自分がして
もらったことにはとても追いついていないはずだ。
真琴は、ふと別れ際の父の言葉を思い出した。

 「人に甘えることと、依存することは違うからね、マコちゃん。君よりもずっと年上の海藤さんに甘えるのは悪いことではないけど、
自分の足できちんと立つことも覚えるんだよ」

 優しく笑いながら言った父の言葉の意味を、真琴は自分はまだ全部理解し切れていないと思っている。
それでも、会うごとに頑張ってるねと父に褒められたいと思う。
(もっともっと頑張らないと・・・・・!)
自分に出来ることを1つ1つ、真琴は頑張ろうと決意した。



 平日の夕方、ラッシュアワーよりは時間がずれていたせいか、真琴はずっと座っていることが出来た。
 「久し振りの電車は疲れる〜」
(でも、そう思うことが贅沢なんだよな)
海藤と一緒にいると車移動が多いので、電車の混雑もつい忘れがちになってしまう。
それでは駄目だと改めて思った。
 「先に帰って・・・・・夕飯はどうしよ・・・・・海藤さん帰るのかな・・・・・?」
とりあえず東京駅で下りた真琴は、そこからマンション近くまで地下鉄に乗ろうと歩きかける。すると、その真琴の視界に、思い掛
けない姿が飛び込んできた。
 「・・・・・!」
 切符売り場に海藤が立っているのはあまりに似合わなくて、一瞬よく似た別人かもとも思ったが、あれほどの容姿と存在感を持
つ人間が2人といるはずがないだろう。
真琴は慌てて駈け寄った。
 「ど、どうしたんですかっ?」
 「迎えに来た」
 「迎えって、海藤さんがわざわざ?」
 「俺以外にいないだろう」
 「え、あ、でも」
 「それに、少しでも早くお前の顔が見たかった」
 「・・・・・っ」
思い掛けない海藤の出現に驚いていた上に、こんな風に甘い言葉を掛けられるとは思わなかった真琴の頬はジワジワと赤くなっ
た。
本当はこのまま海藤に抱きつきたい気分だが、こんなにも大勢の人の目があってはとても出来ない。
 「・・・・・あ、ありがとうございます」
それでも、少しでもくっ付きたくなって、真琴は無意識に海藤のスーツの裾をギュッと掴んだ。
 「迎え、びっくりしたけど・・・・・嬉しいです」
 「そうか」
 「・・・・・あ!皺になるっ」
 握っていたスーツの裾をパッと離した真琴は、大丈夫だろうかとその場所を見る。
上等な生地のスーツはそんな些細なことでは型崩れしなかったようで、真琴はホッと溜め息を付いた。
そんな忙しい真琴の反応に、海藤は笑みを浮かべて言った。
 「お帰り」
 「た、ただいま!」
海藤の傍に帰ってきたのだと、真琴は満面の笑みで答えた。



 海藤は目を細めて真琴を見下ろした。
倉橋からは駅という人混みに単身で行くのは止めた方がいいと言われたが、こんなにも嬉しそうに笑ってくれる真琴を見ると自分
が間違ってはいなかったのだと思える。
ゾロゾロと護衛を連れて歩くのも目立つと、一見海藤は1人でここに立っているように見えるが、この人混みに紛れて十数人は海
藤の身辺を警戒している。
もう、そうしなければならなくなってしまったのだ。
 「帰る時間、よく分かりましたね」
 「今から電車に乗ると言ってただろう。食事は?」
 「海藤さんは会社に戻らなくてもいいんですか?」
 「もう今日は終わった」
 「じゃあ・・・・・」
 考える真琴の背をそっと押して、海藤は駅の外に歩き始めた。
 「倉橋がいるぞ。あと、綾辻も呼んで飯を食いに行くか?」
 「え?いいんですか?」
 「大勢の方がお前も楽しいだろう」
 「海藤さんと2人なのも楽しいですよ」
 「・・・・・」
 「本当ですよ?」
嬉しい言葉を言ってくれた真琴の髪をクシャッと撫でる。サラサラの髪が指を滑る感触が楽しい。
人前で腕を組んだり出来ない関係の中、これくらいはいいだろうと海藤は思っている。
(本当は抱きしめたいくらいなんだがな)
真琴が海藤とのスキンシップを求めるように、海藤も真琴との触れ合いを常に求めていた。それはセックスという直接的なものだけ
ではなく、こうしてただ身体の一部に触れ合うだけでも、だ。
 「真琴」
 「?」
 名前を呼ぶと、真琴は躊躇い無く海藤に真っ直ぐな視線を向けてきた。
 「・・・・・」
 「どうしたんですか?」
 「・・・・・いや、そこにいるんだなと思ってな」
 「え〜、何か変ですよ?」
 「・・・・・」
 「海藤さん・・・・・本当に何かあったんですか?」
 「・・・・・いや」
 「だって」
 「お前がいてくれることをしみじみと実感していたんだ。気にするな」
そう言うと、海藤は真琴に手を差し出した。
 「・・・・・」
その意味が分からないのか・・・・・いや、そうだとは思うがまさか海藤がと思って躊躇っているような真琴に向かい、海藤は笑みを
浮かべたまま言った。
 「はぐれない様に」
 「・・・・・はいっ」
大の大人が、それも男同士が手を繋いでいるのを見た何人かは、思わずといったように振り返るが2人は全く気にならない。
それに、この大都会は人に関して寛大なのか無関心なのか、そんな視線を向けてくる者も僅かだ。
 「行こうか」
しっかりと真琴の手を握り締めた海藤は、絶対にこの手を離さないと強く誓いながら歩き始めた。




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