必定の兆し
プロローグ
「失礼します」
ドアをノックし、中に向かって短く声を掛けた宇佐見貴継(うさみ たかつぐ)は、部屋の奥の、重厚なデスクに座っている人物の
前に歩み寄った。
一般の人間ならば、その大柄な身体から放たれる威圧感だけで尻込みをしてしまうかもしれないが、宇佐見は自分の上司であ
る人物を懼れることはない。ただ・・・・・下の者には無茶な命令ばかりをし、自分は上に媚びているその性格は、清廉潔白な宇
佐見には受け入れがたく、どこか距離を置いていることも事実だった。
「お呼びでしょうか」
「・・・・・」
そう言った途端、机の上に一通の封書が投げ出された。
「読んでみろ」
「・・・・・失礼します」
手が届くほどに傍にいるというのに、手渡すことも無く投げるという行為。
宇佐見は内心眉を顰めたものの、言われるがままにそれを手に取った。
(手書きじゃないな)
印字されている宛名は、目の前の上司の名前だ。封筒には切手が貼ってあり、その消印は都内だった。
後ろには、《正義の使者》とある。
「・・・・・」
明らかに何らかの投書と思われるその中身を取り出した宇佐見は、印刷されている文字に視線を走らせ・・・・・追うごとに眉間
に皺を作っていった。
やがて、それを読み終えた宇佐見が顔を上げると、上司が探るように自分を見ていることが分かった。
ここに書かれていることから考えれば無理も無いかもしれないし、自分がいる組織はそもそも疑う事が仕事のようなものだが、一言
も何も聞かないまま、疑いの眼を向けられることは心外だった。
「そこに書かれてあることは事実か?」
「・・・・・いいえ」
「開成会の海藤とお前が兄弟ということも?」
「・・・・・違います」
あの男と自分の間に、確固たる関係などあるはずがない。
「その兄弟のために、ここの機密を漏洩していることも?」
「ありえません」
組織を裏切るということなど、もちろん論外だ。
「宇佐見」
上司は立ち上がった。
「私達はお前を行く行くは組織の中枢を担う人物として期待し、育ててきたつもりだ。実際、お前は同期の中でも抜きんでて優
秀だ。だが、その身内にヤクザがいたとすれば・・・・・問題外だと思わないか?」
「・・・・・」
「特に、私達の部署はその関係とは切っても切れない間柄だ。それはお前もよく分かっているとは思うが」
「はい」
「・・・・・今はお前の言うことを信じよう。だが、くれぐれも身辺については気をつけるように」
どうやら話は終わったらしい。
一言の気遣いの言葉も無いまま、上司は身体ごと横を向く。宇佐見は頭を下げ、そのまま部屋を出て行こうとしたが・・・・・。
「宇佐見」
ドアに手を伸ばし掛けた時に声を掛けられた宇佐見は、そのまま顔だけを後ろに向ける。
「自重しろよ」
「・・・・・はい」
宇佐見は答えると、そのまま部屋から出た。
「・・・・・」
静かな廊下を歩きながら、宇佐見は考えた。一体あの投書は誰の手によるものなのだろうか。
いくら最高学府を出て、エリートと言われる立場になったとしても、宇佐見には出生に口外厳禁な秘密がある。警視庁に入庁す
る時に世話になったごく一部の人間には伝えてあること・・・・・。
「・・・・・」
警視庁組織犯罪対策部第三課。暴対企画や、暴力団情報管理、特殊暴力対策に取り組む部署の、警視正という立場
にいる自分にとっての闇の部分。
警察官である自分の身内に、異母兄とはいえ暴力団関係者がいることは、けして知られてはならなかった。
(・・・・・調べなければならないな)
「じゃあな」
「うん、また」
西原真琴(にしはら まこと)は大学の校門で手を振って友人と別れると、そのまま鞄の中から携帯を取り出した。
本当はバスで帰っても全然構わないのだが、用心のために絶対に車を呼ぶことを約束させられ、真琴も相手の心配が少しでも和
らぐのならと、申し訳ないと思う気持ちを何とか隅に追いやっていた。
「・・・・・あ、海老原(えびはら)さん?はい、終わりました。じゃあ、何時ものところで待ってます」
校門から50メートルほど離れた郵便局の前で立ち止まった真琴は、これから来てくれるであろう海老原を待つ。
西原真琴は、今年大学3年生に進級した、どこにでもいる普通の青年だ。
いや、女には見間違われないが柔らかい雰囲気を持ち、少し華奢で、目元のホクロがどこか色っぽく感じる・・・・・それでも飛びぬ
けた容姿や才能など持っていない、ごく普通の・・・・・大学生のはずだった。
そんな真琴の生活が一変したのは、2年ほど前、大学に入学して間もない真琴が、バイトの関係で出会った男のせいだ。
バイト先の客として現れた男によって強姦され、半ば強制的に生活を共にするようになってしまった。男は真琴よりも一回り以上
年上の・・・・・しかも、普通の職業ではない男だった。
男の名前は海藤貴士(かいどう たかし)、関東最大の広域指定暴力団《大東(だいとう)組》の傘下、《開成かいせい)会》の
3代目組長・・・・・簡単に言えばヤクザの頭、それが男の肩書きだ。
始まりは確かに海藤の強引さから始まった関係だったが、今は真琴も海藤に対して深い愛情を抱き、既に家族にも紹介したほ
どに、海藤とずっと共にいることを決めていた。
本当は既に大学は夏休みに入っているのだが、真琴は世話になっている教授の手伝いに、一週間に二度ほど学校に通ってい
た。
出来る事は本の整理とか、原稿のパソコン入力ぐらいしかないが、それでも父に似た教授の傍にいることは心地良く、海藤も認め
てくれているので、一つの楽しみとしていた。
(今日はバイトもないし、夕食俺が作ろうかな)
海藤と出会ってから、プロ級に料理の上手い彼には遠く及ばないものの、真琴も料理に興味を持ち始めた。自分の作った物を
好きな相手に食べてもらいたい、そんな恥ずかしい動機からだが、今ではかなりレパートリーも増えている。
そう考え始めると、海老原にどこかスーパーに寄って貰おうと思い、財布の中身の確認をしようと俯いた時だった。
「真琴」
「え?」
名前を呼ばれ、何気なく顔を上げた真琴は、そこにいた人物を見て思わず目を見張る。
「宇佐見さん?」
「・・・・・」
そこにいたのは、海藤を通じて出会い、今も時折連絡をくれる宇佐見が、何時ものような無表情で立っていた。
(どうして、宇佐見さんがここに?)
真琴は突然の宇佐見の出現に戸惑っていた。
海藤とは異母兄弟というのに、全く違う位置にいる相手。海藤同様背が高く、短く切りそろえられた髪と、精悍な容貌の彼は、真
夏といってもいい時期だというのに汗もかかず、きっちりとスーツに身を包んでいた。
「宇佐見さん」
(・・・・・また、何かあったのかな)
警察関係者の宇佐見が自分の前に現れる時は、あまりいいことは無かった気がする。
まさか海藤に何かあるのかと思ってしまったが、宇佐見はしばらくじっと真琴を見つめた後、静かに口を開いた。
「変わりないか?」
「え?」
「周辺に変わったことは?」
「な、ないです」
去年の暮れ、中国マフィアの人間と偶然知り合ってしまい、そのまま香港へと連れ去られるかという事態があったものの、それは
もう半年以上も前の事で、今は全く周りにその気配はない。
もちろん、真琴の中でその相手を完全に忘れてしまうことは今もって出来てはいないが、現状は、とても穏やかに時間が過ぎて
いた。
「宇佐見さん、何かあったんですか?」
「・・・・・」
「海藤さんに、関係あること?」
「警察官である私が、ヤクザの男に用があるはずがない」
「あ・・・・・」
「仮にあったとしても、それはあの男を逮捕する時ぐらいだろうな」
きっぱりと言い切る宇佐見の言葉に、真琴は胸の奥がズキッと痛んだ。
彼が言葉で言うほどに冷酷な人間ではないと思っているし、自分に対しては優しい言葉も掛けてくれ、柔らかな態度で接してくれ
るが、やはり海藤のことになると、その気持ちは頑なになってしまうのだろうか。
「・・・・・何も無かったらいい。これを」
俯いてしまった真琴の片手を取った宇佐見は、その手に紙切れを握らせる。それには幾つかの番号が書かれてあり、見ただけで
携帯の番号とアドレスだということは分かった。
「これ・・・・・」
「もし、何かあったら、今までの番号ではなくこちらに掛けてくれ。いいな?」
「は、はい」
それがどういう意味でというのを訊ねる前に、宇佐見はそのまま真琴に背を向ける。
そして、少し離れた場所に停めてある外車まで歩いていくと、運転席に乗り込み、自分で車を走らせて行ってしまった。
「何かありました?」
「い、いえ、何も」
宇佐見が立ち去って間もなく、海老原の運転する車がやってきた。多分、宇佐見の車は視界に入っていなかっただろう。
ただ、直ぐにそう問い掛けてくるということは、自分の態度にどこかおかしなところが見受けられるのかもしれなかった。
(宇佐見さん、何しに来たんだろう?・・・・・まさか、今頃ジュウさんのことを聞きにって・・・・・そんなことないよな)
「・・・・・」
考えていると自然に眉間に皺が寄ってしまうが、自分ではその表情に気付かない。海老原がバックミラー越しにその表情を観察
しているということにも、だ。
(電話、掛けるようなことが・・・・・)
「真琴さん」
「・・・・・」
「真琴さん」
「え、あ、何ですか?」
何度目かに名前を呼ばれた真琴が慌てて顔を上げると、車はちょうど信号で止まっているらしく、海老原が顔をわざわざ後ろに
向けて言ってきた。
「・・・・・社長のところに行きますか?」
「海老原さん・・・・・」
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