必定の兆し
1
ノックの音がして、海藤はパソコンの画面から視線を移した。
社長室である自分の部屋に、こうして直接やってくる人間は限られているので、海藤は黙ってドアが開くのを見つめる。
そこに、失礼しますと言いながら入ってきたのは、開成会の幹部であり、表の仕事では自分の秘書的な役割をしてくれている倉
橋克己(くらはし かつみ)だった。
「申し訳ありません」
海藤の仕事の手を止めさせたことに謝罪する倉橋に、海藤はいいやと答えた。自分が何をしているのか全て理解している男が、
ここにこうして現れたこと自体が緊急を有することだと分かっているからだ。
「どうした」
「海老原から、真琴さんをこちらにお連れすると連絡がありました」
「・・・・・何があった」
真琴の身辺に何かあったのではないかと思い、海藤は直ぐにそう訊ねる。
真琴自身はごく普通の家庭に育った大学生の青年だが、その傍にいる自分という存在はとても普通という括りではあらわせられな
いだろう。
もちろん、味方もいるが、その数倍は敵がいる。
身に覚えの無い恨みを買うこともあるだろうし、それが自分自身ではなく真琴に向けられることを一番懼れている海藤にとって、当
初の予定を急に変更するということはその危惧を感じさせるのに十分な理由だった。
「詳しい理由は言いませんでしたが、社長に会わせる方がいいという判断をしたということは、何らかの異変を感じたのでしょう」
「・・・・・」
「夕方以降の予定は全てキャンセルしておきました」
「分かった」
海藤が頷いたのを確認すると、倉橋は一礼をしてから部屋を出て行く。その背中を自然と目で追い掛けた海藤は、一体真琴
に何があったのかと考えた。
中国マフィアのジュウのことは、彼が香港に帰国したことで、一応の決着が着いたはずだが、あれから半年以上経って、その状況
に変化が出てきたのだろうか。
それとも、前回の理事選絡みで、海藤に思うところがある人間が行動に出たのか。
どちらにせよ、真琴に直接確認するまでは安易な想像はやめた方がいいと、海藤は今手掛けている仕事を片付けることを優先し
た。
「グッドタイミ〜ン♪」
「うわあっ」
海老原の運転で開成会の事務所ビルにやってきた真琴が、地下駐車場から1階へと上がってきた時、エレベーターのドアが開く
なりギュウッと強く抱きしめられた。
「・・・・・綾辻(あやつじ)幹部、ガキッぽい真似はやめて下さいよ」
「も〜っ、いいじゃない、久し振りなんだから。ね?マコちゃん」
「は、はい、そうですね」
自分を抱きしめている人物が誰か分かった真琴は、苦笑しながら頷いた。
綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)。古めかしい名前に似合わず、モデルのような華やかな容貌の男は、茶髪にピアスという外見から
見えないが開成会の幹部だった。
かなり広い人脈を持っている彼は、陽気で、悪戯好きで、真琴のことを何時も楽しませ、笑わせてくれる。
一方では、かなりの武術の達人で修羅場も経験してきたようで、スレンダーで着痩せする服の中身は、かなり鍛えた身体をしてい
るのを見て(以前温泉に一緒に入った)驚いた記憶がある。
「ラブハニーに会いに来たの?」
「ラ、ラブハニーって・・・・・」
それが誰を指しているのか・・・・・形容詞と現実の相手とのギャップに、真琴はとうとう声を出して笑ってしまった。
「あら、じゃあ、私?」
「綾辻幹部」
「ん?」
「あなたは仕事があるでしょう」
さらに話し続けようとする綾辻の腕を引っ張るのは、彼の一番身近にいる部下の久保(くぼ)だ。
綾辻よりも大柄な身体の久保は、真琴に向かって頭を下げる。
「すみません、このまま連れて行きますから」
「あ、いいえ、いいんですよ?」
「・・・・・駄目です。久保、その男を連れて行け」
騒ぎに気がついたのか、一階事務所のドアが開いて出てきたのは、もう1人の幹部である倉橋だ。
細身の眼鏡を掛けた、少し神経質そうな繊細な美貌の主だが、真琴は倉橋がとても優しく、気遣いの出来る人物だということも
知っている。
本当は弁護士とか、医者とか、そういうイメージを持っていたが、前に何気ない会話の中で、彼が以前検事をしていたということ
を聞いて納得もしたくらいだった。
「そろそろ真琴さんが来る頃だと思って待っていたが、まさか同時刻に帰ってくるとは」
「克己、恥ずかしがらなくっても、私を待っていたって言ってもいいのよ?」
「・・・・・さあ、真琴さん、行きましょう」
綾辻の言葉をいっさい無視して倉橋は真琴の背を押す。いいのかなと真琴は綾辻を振り返ったが、無視された形の綾辻はウイ
ンクし、笑いながら手を振っていた。
「真琴さん」
「あ、はい」
エレベーターに乗り込むと、倉橋は真琴に切り出した。
「相手を思って言わないことも、もちろんあるとは思いますが、自分が秘密を持たれたらと考えれば・・・・・その考えも少しは変わ
るんじゃないでしょうか?」
「倉橋さん?」
海藤より先に真琴の変化を知ろうとは思わないが、それでも海藤のために、少しは真琴の気持ちを解しておくことが出来ればと思
い、倉橋は少しだけ助言をしてみた。口下手な自分の思いが、どこまで伝わるのか分からないが。
「・・・・・」
「・・・・・着きましたよ」
エレベーターの扉が開く。
倉橋は真琴を促した。
皆が気を遣ってくれているのが分かる。
海老原も、倉橋も、そして多分、綾辻も。自分が何も言わないのにその異変を感じて、先回りをして環境を整えてくれている。
もう20歳も過ぎた、世間的には大人と思われてもいい自分が、これほど大切にされているというのは恥ずかしくて・・・・・それでも、
やっぱり嬉しい。
(海藤さんには、ちゃんと言っておこう)
もしかしたら本当に何でもないことかもしれないが、ジュウの時も初めはそう思っていて、海藤に伝えるのが遅くなったのだ。海藤の
職業を考えれば、用心にこしたことはないかもしれない。
「真琴」
「海藤さん」
倉橋がドアをノックして開けてくれ、真琴が一歩中に入ると、既に海藤は直ぐ近くに立っていた。
「仕事中に、あの」
「俺が、お前の顔を見たいと思ったんだ」
真琴の顔を見て、優しく目を細める男。
一回りほど歳が上の海藤は、真琴から見れば大人の男で、一見冷酷で無表情な、それでいて端正に整った容姿の持ち主だ。
黒髪を軽く後ろに流し、眼鏡を掛け、きっちりとスーツを着た姿はエリートビジネスマンか、弁護士のように見えるだろうが、その眼鏡
の奥の目はきつく冷たいもので、普通の職業の人間とは少し違う風に感じるはずだ。
ただ、真琴自身は、自分を見つめる海藤の目をとても優しいものだと思っているし、ヤクザという、世間から白い目で見られてし
まう彼が、とても責任感が強く、部下思いだということも分かっているつもりだ。
だからこそ、始まりがイレギュラーだったが、今こうして自分は海藤の傍にいるのだ。
「・・・・・」
「・・・・・」
何も聞かないまま、ただ自分の身体を抱きしめる海藤の温かさを、目を閉じて感じていた真琴は・・・・・やがて、顔を上げて海藤
に言った。
「あの、もしかしたら全然意味がないことなのかもしれないんですけど」
「・・・・・」
「さっき、大学に宇佐見さんが来たんです」
「宇佐見?」
その名前に海藤は眉を顰めた。
もちろん、自分の異母弟の苗字は知っているし、今何をしているかも分かっている。
ヤクザな自分の父親が手を出した(少し事実は違うようだが同じことだ)相手が生んだ子供。それが、数ヶ月しか違わなかった事
から、海藤の母親は父親への執着を強くし、それは子供への無関心を呼んでしまった。
自分の感情に欠陥があることは自覚していた。それは幼い頃に愛されなかったせいだと伯父(母親の兄)の菱沼(ひしぬま)は感
じているようだが、元々、自分はそんな人間だったのだろう。
自分にとっては、育った環境も全く違う、会うこともない異母弟。
ただ、向こうは自分に対してかなり強く敵意を抱いていて、警察官という職業柄か、いつか捕まえてみせると面と向かって言われた
こともある。
さらに、自分の恋人でもある真琴のことを調べているうちに心を惹かれたようで、特別な感情も抱いているようだったが、海藤はも
ちろん真琴を手放すことは考えていなかった。
そんな、自分と真琴にそれぞれ別の感情を抱いている宇佐見の行動。これをどう考えればいいのだろうか?
「何を言っていた?」
「えっと・・・・・変わったことはないかって」
「変わったこと・・・・・」
「それと、連絡は今までの携帯番号じゃない方にって、あの・・・・・」
真琴は少し迷ったようだが、それでも鞄の中から紙切れを取り出して海藤に差し出した。
それに書かれてある番号とアドレスは、海藤が把握している男の物ではない。
(携帯を変えた・・・・・何か、あったな)
宇佐見のような職業の男は、他人に容易に番号を教えることは出来ないだろうし、プライベートは別にして、一つの番号を長くは
持たないということも分かっている。
ただ、わざわざ真琴に異変の有無を訊ね、その上で新しい番号を教えたということは、宇佐見側に何らかの・・・・・警戒しなけれ
ばならないことが起こったということだろう。
「・・・・・」
海藤は顔を上げ、まだそこにいる倉橋に眼差しを向ける。
それだけで海藤の言いたいことを理解した倉橋が静かに部屋の外に出た。今の話を聞いていた倉橋は、きっと海藤の知りたいこと
を調べるはずだ。
「海藤さん、宇佐見さんに何かあるんですか?」
自分の話したことを黙って聞き、その上で何か考えている海藤に、真琴は不安そうな目を向けてくる。
そんな真琴に向かい、海藤は少し頬を緩めた。
「心配することはない、大丈夫だ」
「本当に?」
重ねてそう聞く真琴に、海藤はしっかりと頷いてみせる。
自分以外の人間を心配する真琴に嫉妬する気持ち以上に、そんな優しい真琴の気持ちに、海藤は自分の心が温かくなるのを
感じていた。
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