必定の兆し
31
遅い朝食を済ませた海藤を送り出した後、真琴はだるい身体を誤魔化しながらゆっくりと部屋の中を片付けて、それから出掛
けることにした。
「あ」
用心のために、まだしばらくは1人で出歩かないようにと言われたので、真琴は何時ものように海老原に連絡する。時間を置いて
地下駐車場に向かうと、そこには海老原だけではなく、安徳と城内も揃っていた。
「あのっ、ありがとうございましたっ」
2人にはまだ礼を言っていなかったことを思い出して、真琴は慌てて頭を下げた。
不安で、怖くて・・・・・それでも、自分がパニックにならなかったのはこの2人が傍にいてくれたおかげだ。感謝を込めて言った言葉が
通じたのか、安徳が相変わらず抑揚の無い、それでも少しだけ温度のある声音で言った。
「こちらこそ、結局あなたを危険な目に遭わせてしまいまして、申し訳ありませんでした」
「そ、そんなことっ」
「今日で、あなたの警護を外れるので、最後に謝罪と・・・・・お願いを」
「え?」
(警護を外れるって・・・・・)
元々、今回のことで付いてくれていた2人だ。綾辻の部下で、海外を飛び回っている人達だと聞いた。全てが解決すれば元に
戻ることは分かっていたが、それでも寂しいと感じるほどには彼らに親しみを感じていたのだ。
「どうか、会・・・・・社長を、よろしくお願いします」
「え・・・・・」
「あなたが傍にいることが、あの方の安らぎになりますから」
「安徳さん・・・・・」
「お願いします」
安徳と城内が自分に向かって頭を下げてくる。止めてくださいと言い掛けて・・・・・真琴は止めた。自分が言う言葉は、今はそれ
ではない。
「・・・・・はい、絶対に、傍にいますから」
「真琴さん」
「だから、安徳さんも、城内さんも、海藤さんの傍にいてくださいね。海藤さんを支えているのは俺だけじゃない、皆さんも一緒にい
ないと・・・・・俺だけじゃ、重くて倒れちゃいますよ」
別れる寂しさを誤魔化すようにそう言うと、城内はプッとふき出し、安徳も僅かに口元を緩めてくれる。それが肯定の印なのだと思
い、真琴はもう一度頭を下げた。
「本当に・・・・・ありがとうございました」
「マコっ?」
「大丈夫なのかっ?」
海老原に連れて行ってもらったのはバイト先だった。
夕べ、いきなり気分が悪いからと帰ってしまった自分を心配してか、昨日から今日に掛けて店長やチーフを始め、バイト仲間に、も
うバイトを辞めた古河や森脇からも、心配してくれる留守電やメールが届いていた。
古河達には家を出る前にメールを返したが、バイト先には直接顔を見せた方がいいと思い、今日はシフトが入っていないのでこう
して昼間にやってきたのだ。
「昨日はすみませんでした、みんなに心配掛けちゃったみたいで」
「心配したぞ、折り返しの連絡もないし、酷いことになってるんじゃないかって」
「すみません」
「いや、元気になったんならいいって。マコには何時でも笑っていて欲しいしな」
看板息子だしと笑うチーフに、真琴は自分が恵まれていると感じる。様子がおかしいからといって、こんなに心配してもらって、確
かに怖い目には遭ったものの、その後の海藤との時間を思い出すと、早く連絡しておけば良かったと申し訳なく思ってしまった。
「明日からのシフトはちゃんと入りますから」
「いいのか?」
「はい、よろしくお願いしますっ」
もう、何も心配することは無いのだと伝えるようにはっきりと頷くと、ようやく皆ホッとしたように笑ってくれた。
黙々と書類にチェックをしていく海藤の横顔を見ながら、倉橋はようやく落ち着いたのだということを実感した。
今日は休むと思っていたが、昼過ぎに出社してきた海藤の表情はとても穏やかに見える。
今回は、過去の温情が牙を剥いて跳ね返ってきた形になり、そのことで、海藤がそれ以外の自分の行動に、疑問や後悔をす
るのではないかと危惧していたが、どうやら真琴という特効薬は思った以上の効果があったようだ。
(私の言葉も、不要なものだったかもしれない)
真琴に向かって偉そうに説教をしてしまったが、彼は自分が何も言わなくても自然に海藤を包み、癒してくれたはずだ。自分の
言葉が真琴にとって変な重荷にならなければいいが・・・・・そんなことを考えていた倉橋は、
「倉橋」
「はい」
海藤に呼ばれて顔を上げた。
今まで書類を見ていたと思っていた海藤は、ちらっと時計に目をやってから口を開いた。
「もう直ぐ真琴が来る」
「真琴さんが?」
(・・・・・大丈夫なのか?)
いろんな意味で彼の体調を考えて眉を顰めたが、その倉橋の僅かな表情の変化を見て取ったのか、海藤は少しだけ柔らかな笑
みを向けた。
「お前達に直接礼が言いたいそうだ」
「礼、なんて、私は・・・・・」
「ありがとう、倉橋」
「・・・・・っ」
「お前達がいたからこそ、俺も真琴も・・・・・こうして変わらずにここにいることが出来る。感謝、している」
過分な言葉だと、倉橋は首を横に振った。
自分の行動は自分が望み、勝手にしたことで、海藤や真琴に礼を言われることではない。それでも、こうして海藤の言葉を聞け
ば、自分が海藤の傍にいる意味を肯定してもらえているようで嬉しくてたまらない。
涙を流すことは、無い。それでも、その顔は歓喜に歪んでいると思い、倉橋はとても海藤に見せられないと少しだけ顔を横に逸
らした。
(・・・・・拙い)
この、高揚した気持ちをどうしようか・・・・・倉橋がそう思った時、
「あー!社長、克己を泣かさないで下さいよ?」
ノックの音もせずに扉が開き、賑やかな声がする。
その態度に倉橋はたちまち何時もの冷静沈着な幹部の顔を取り戻し、少しきつい口調でその侵入者を咎めた。
「ノックをしてくださいと何時も言っているでしょう、あなたは記憶出来ないんですか」
「克己の可愛い声を一言でも多く聞きたいから、都合よく忘れちゃうのよ」
「・・・・・幹部なんですから、しっかりしてください」
「は〜い、社長、お待ちかねの方の到着で〜す」
倉橋の小言を、どういうわけか嬉しそうに聞いていた綾辻のその言葉に、倉橋はその背後に視線を向ける。そこには今の自分達
の馬鹿馬鹿しいやり取りに笑っている(と、思う)真琴が、こんにちはと言いながら頭を下げてきた。
「あ〜っ!たっぷり愛してもらっちゃった顔ね?」
「え・・・・・?」
事務所に着くなり、そう言いながら抱きしめてきた綾辻に、真琴はたちまち顔を赤くしてしまった。
自分と海藤の関係を知られているとはいえ、もちろん海藤が夕べのことを話すはずがないのだが、自分の顔は一目見ただけでも
その様子が分かるような雰囲気になっているのだろうか。
(は、恥ずかしい・・・・・っ)
「ふふっ、可愛い顔で安心したわ。社長に会いに来たんでしょ?相変わらずラブラブなんだから〜。私なんか、夕べは克己は神
経を使い過ぎてバタンキューで、楽しいこと少しも出来なかったのにぃ」
何だか際どい言葉を聞いたような気がしたが、真琴は直ぐに自分の訪問の目的を思い出した。
「あ、あの、綾辻さんと倉橋さんにもお礼を言いたくて」
「礼?」
「は、はい、今回のことで・・・・・・」
「あ〜、まあ、それが私達の仕事なんだし、何より、マコちゃんが好きだから勝手にしたことで、礼なんて言われる必要は無いんだ
けど・・・・・あ、今言うのは待って。克己と一緒に言ってもらっていい?」
「え?」
真琴が戸惑っていると、綾辻はふふっと笑った。
「照れ屋の克己がどんな顔をするか見たいから」
「あの、倉橋さん、綾辻さん、今回は本当にありがとうございました」
そして、真琴は倉橋と綾辻に向かって頭を下げる。
どういう言葉が一番感謝の気持ちを伝えられるかと考えたが、やはりありがとうという言葉が一番相応しいような気がした。ありが
とう・・・・・感謝の気持ちで一杯だった。
「真琴さん、私は特に何も・・・・・」
倉橋はその言葉に頭を振るが、彼の海藤を思う真摯な言葉も、真琴の気持ちを柔らかく解かしてくれた要因の一つであること
は確かだ。
「倉橋さんの言葉、凄く嬉しかった。本当に海藤さんを大切に思ってくれていることが伝わりました」
「え、何?どんなこと言ったの?」
目を輝かせ、興味津々に訊ねてくる綾辻を見上げた真琴は、続いて倉橋へと視線を向けた。表面上は何時もと変わらないよ
うに見えたが・・・・・。
「・・・・・内緒です」
あの言葉は、きっと倉橋の心の奥底の言葉のはずで、幾ら親しい綾辻とはいえ、自分の口から言うのは違うと思った。
もちろん、倉橋が自ら綾辻に説明することは全然構わないが、今の様子を見るに、多分・・・・・倉橋はあの言葉を真琴と2人だ
けの秘密とするような気がした。
真琴の返答に倉橋の緊張が少し解かれた様子が見える。どうやら、真琴の判断には間違いが無いようだ。
「礼などいいんですよ、真琴さん。あなたと社長が無事であることが、私達にとって大切で嬉しいことなんですから」
「倉橋さん」
「・・・・・こうして、笑っているあなたに会えて、嬉しいです」
倉橋の重たい言葉に、真琴はしっかりと頷いた。
真琴と部下達の様子を、海藤は穏やかな気持ちで見つめていた。
今はこうして笑っている真琴を見ることが出来るが、一時はあの笑顔を二度と向けてもらえないかもしれない、それでも離すことが
出来ないと、追い詰められた気持ちでいたのだ。
(本当に、皆のおかげだな)
自分1人では、何も出来なかった。いや、結果的に解決は出来たかもしれないが、それは最悪の解決方法になっていたかも知
れない。
自分の前に立ってくれた綾辻にも。
あの男に向けた殺意を止めてくれた倉橋にも。
無血の手打ちに誘導してくれた江坂にも。
全てを許してくれた真琴にも。
他の、今回の件で動いてくれた全ての組員や関係者に感謝をしなければならない。そのおかげで、海藤は一番大切なものを手
放さなくて済んだのだから。
「海藤さん、今日は早く帰れますか?綾辻さんと倉橋さんを誘って、俺、夕飯をご馳走したいんですけど」
それも、似たようなニュアンスを聞かされていた海藤は驚くことなく、椅子から立ち上がって真琴の傍へと歩み寄った。
「え、マコちゃんが?」
「そんなに気を遣わないで下さい」
「あ、いえ、そんな風に言ってもらえるほどのものじゃないんですけど・・・・・あの、うちのピザを」
うちの・・・・・それはバイト先のピザだろう。今回心配を掛けたお詫びと思っているのか、気を配る真琴らしい選択だなと思えた。
「熊さんのかあ。そう言えば久し振りねえ。克己、ご馳走になりましょうよ」
綾辻も、宅配ピザなら値段も張らないと思ったのか、素直に真琴の好意を受けようと倉橋を誘っている。倉橋は言葉を濁してい
るが、彼が頷くのは時間の問題だ。
(綾辻はともかく、真琴の誘いは断らないだろう)
「じゃあ、つまみは2人で作るか?真琴」
「いいんですか?」
「客のもてなしはホストの役目だからな。うちに呼ぶんだ、俺とお前とで仕度をしよう」
「はい!」
今回のことに捕らわれていた間に溜まった仕事があるものの、今日だけは皆早めの帰宅をさせよう。夕べは真琴と2人だけの時
間を満喫したが、今日はもう少し賑やかに。
「スケジュール調整、頼むぞ、倉橋」
「・・・・・分かりました」
平和な日常が戻ってきた。
この先、これまで以上の荒波が襲ってくるかもしれないが、この手を離さなければ大丈夫・・・・・海藤はそう思いながら、自分の隣
に立つ真琴の手を握り締める。
「?」
不思議そうに振り向いた真琴は、それでも笑ってその手を握り返してくれた。
ごく自然なその仕草に海藤は笑み、そのまま身を屈めて、周りの目を全く気にせずに、自分を見上げる真琴の唇に触れるだけの
キスを落とした。
end
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