眷恋の闇
プロローグ
『』は中国語です。
『お休みにならなくてもよろしいのですか?』
『ああ』
『日本に到着するまで一時間近くあります。ロスでもほとんど休まれていませんし、目を閉じるくらいはしていただけませんか』
『そうだな・・・・・』
もう直ぐ、あの島国に着く。
ただの狭い、ビジネスだけが目的の国だったのが、何時の間にかこんなにも心が沸き立つ思いを抱く国になっている。
彼は、私のことを忘れてはいないだろうか。少しは、懐かしいと思ってくれるだろうか。
そして、今度こそこの手の中に堕ちてきてくれるだろうか。
『到着したら、直ぐに会いに行く』
『手筈は整えております』
『・・・・・可愛い私のトウゥ』
もう直ぐ、会いに行く。
「うわっ」
ざっと突風が吹いて、頭上の桜の木が大きく揺れた。
西原真琴(にしはら まこと)は自分の髪を慌てて押さえながら、首を上げて・・・・・思わずへにゃっと笑ってしまった。
「綺麗だなあ、桜」
春は好きな季節だ。寒い冬から温かな風を呼び寄せてくれて、何もかもが新しく始まるといった気分にさせてくれる。
「こんなこと、のんびりと考えてる場合じゃないんだけどな」
今年で大学4年生になった真琴は、普通に考えれば来年卒業を迎える。本当は3年生から就職活動をしていなければならない
のに、今もって自分が何をしたいのか、真琴ははっきりとしたビジョンが無かった。
バイト先の店長は、就職先が無かったらここに来いと言ってくれているが、自分にとって居心地の良い場所に何時までも逃げ込
んではいられないことくらいは自覚している。
つくづく、自分の周りの人間は良い人ばかりで幸せだ。
「俺、最強の公務員になって、野良猫や野良犬を一匹でも多く助けるつもり!」
「俺は弁護士。悪徳弁護士になって、バンバン金をもぎ取ってやる」
年少の友人達は、ちゃんとした目的を持って大学に進学したことを聞いた。
大学の友人達の中には、内定を貰った者達も多い。
自分だけが取り残された気分・・・・・だと、言いたいところだが、
「ん〜、俺も就職のことを相談したら、働かなくてもいいって言われちゃって・・・・・困ってる」
「イタリアに連れていくって言われてるんだ。そんなに簡単に決められることじゃないんだけどね」
などと、近しい友人の中には例外もあった。
ふと、その友人達の言葉と顔を思い出した真琴は、また一緒に花見がしたいなと思ってしまう。桜が残っている今、パーッと楽
しく騒ぎたい。
「今から連絡しても間に合うかな?」
「・・・・・分かりました、では、明日の午後2時に本家へ窺います」
そう言って、海藤貴士(かいどう たかし)は電話を切った。
「社長」
「明日、千葉の本家に向かう」
「組長の御命令ですか?」
「・・・・・とうとう、年貢の納め時のようだ」
いずれは、こんな日が来るだろうと覚悟はしていた。以前、理事選で思いがけなく多くの支持を受け、次は逃げることは出来ない
だろうと思っていたが、それは想像していたよりも早い時期にやってきた。
「理事の席が2つ空いた。1人は引退、1人は上に上がった」
前回は選挙を行ったが、今回は組長の意向で信任投票という形になるらしい。始めに名前を挙げ、その者でいいかという投
票が行われることになったのだ。
「それって、あの方ですか?」
「ああ。江坂(えさか)理事は4月1日付けで総本部長に格上げだ。正式な披露目は15日に行われるらしい」
今の関東随一、そして日本でも有数の広域指定暴力団、大東組。
海藤はその一派である開成会を率い、なおかつ経営コンサルタントとしての会社も経営している、経済ヤクザと言われる種類の
人間だった。
伯父も、父も、大東組の中ではかなりの地位にまで上がっている海藤は、いわばこの世界ではサラブレッドだ。
端正な美貌と、冷静沈着な性格。その上、能力も高い海藤は昔から幹部候補だったが、自分自身はまだ当分先ではないかと
思っていた。
しかし、昨今の暴力団への世間の厳しさの加え、長く続く不況を乗り越えるには大胆な改革が必要だという考えを持つ、大東
組7代目現組長の永友治(ながとも おさむ)は、なかなか上に上がろうとしない海藤にしびれを切らしたらしい。
「現総本部長の本宮さんは、最高顧問に席を移るそうだ」
「早く楽したいって、よく言ってましたよね」
その言葉に、海藤も少しだけ口元を緩める。
伯父と親しい本宮のことは幼いころから良く知っているが、本当に昔の任侠ヤクザといった雰囲気の豪快で男義のある人で、今
でも何かあれば先頭に立って動いている。
ただ、伯父が海藤に開成会を譲って隠居してからは、どうやら喧嘩相手がいなくて寂しいという思いもあったようだ。
引退はしなくても、気楽な位置にいたい・・・・・そう漏らしていたのを海藤も聞いたことがある。
「まだ、隠居はして欲しくないがな」
「ふふ」
「しかし、江坂理事は凄い抜擢じゃないですか?いくら現組長が改革に前向きでも、年功序列をひっくり返すのは簡単なことで
はありませんし」
「確か、今までの中では最年少なんじゃないですか?江坂理事。よく受けましたねっていうか、よく本家のおじ様達が賛成した
こと。一悶着はあったのかしら」
楽しそうに言うのは、開成会の幹部、綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)だ。
モデルのような華やかな容姿の綾辻だが、そのバックにはかなり大きなものが付いていて、本人も一筋縄ではいかない男だ。
「お祝いをお届けしなければいけませんね」
冷静に意見を述べる、開成会のもう1人の幹部、倉橋克己(くらはし かつみ)は、海藤の大学時代の先輩であり、もとは検事
という異色の経歴の持ち主である。
生真面目で、融通がきかないものの、何よりも海藤を一番に考えてくれていた。
「あの人は、それだけの力があるからな。時間の問題だったし、それならば早い方がいいってことなんだろう」
江坂凌二(えさか りょうじ)は海藤や上杉のように自分の組を持っているわけではなく、始めから大東組本部にいる、いわばエ
リートとも言われる立場の人間だった。
総本部長は、組長、若頭に続き、組織の中ではNO.3の立場になる。理事である今でもかなり重要なポジションにいた江坂
は、この先もっと高みにのぼって行くのだろう。
(もしかしたら、組長の座にも・・・・・)
「社長、もう1人の理事候補って」
「上杉会長だ」
「やっぱり」
「受けられるでしょうか?」
「さあ・・・・・あの人は面倒なことが嫌いだからな」
大東組系、羽生会会長、上杉滋郎(うえすぎ じろう)。自分より年上の、同じように一つの組を率いる男は出世欲が無く面
倒くさがりやであるものの、それでも素晴らしい能力の持ち主だ。
彼を登用しようと周りが考えることは容易に想像出来るものの、本人がどうするかは海藤ははっきりと言えない。
ただ、以前ならばともかく、今の彼ならばもしかしたら・・・・・この話も考えるかもしれないと思えた。
大切なものを持つ者は、その存在を守るために少しでも多くの力を欲するからだ。
「向こうにも今頃連絡が行っているだろう。受けるにしても断るにしても、明日本家で会えば答えは分かる」
「マコちゃんにも言わないといけませんね」
「・・・・・」
「びっくりしちゃうかしら」
「・・・・・」
(驚くくらいならばいいが・・・・・)
それで怖がってしまい、自分の傍から離れようとしたならば・・・・・自分はどうするか、どうなるのかとても想像がつかない。
海藤はらしくもない溜め息をついた。
海藤の最愛の恋人、真琴。
普通の大学生である彼と出会ったのは今となれば必然で、強引な手段で身体を奪い、やがてその心も自分のものにした。
優しい恋人はそんな自分を愛していると言ってくれているが、ヤクザという職業に関してはやはり思う所もあるようで。
彼に怖がられないように、逃げ出したりしないように、海藤は雁字搦めに拘束している。
(今までも、何度も危ない目に遭わせてしまったが、これからはもっと・・・・・)
それでも、真琴は自分の傍にいてくれるだろうか。
「説明すれば、分かってくれるんじゃないかしら。マコちゃん、社長のこと大好きなんだし」
「・・・・・」
「そうですね、私も真琴さんはきちんと受け入れて下さると思います」
2人の幹部も、真琴の存在を快く受け入れている。そして、真琴の気持ちを信じている。
(・・・・・そうだな、俺が先ず信じなければ・・・・・)
もう3年近く、愛し合い、共に暮らしてきた。その愛しい人の心を信じなければ・・・・・海藤はそう思うと、少しだけ心の重荷が軽く
なったような気がした。
「真琴には明日話す」
「ええ、早い方がいいかと」
少しだけ先に延ばしたいという気持ちが無いわけではなかったが、いずれは話さなければならないことは少しでも早く・・・・・海
藤はそう決意して顎を引いた。
桜吹雪の中を歩きながら、真琴はこれからどうしようかと考えた。
今日はバイトは休みだし、最愛の恋人である海藤はきっと仕事中で。少しでも顔を見たいという我が儘はとても言えなかった。
「今日は、俺が夕飯を作ろうかなあ」
一流料理人並みの腕前を持つ海藤にはとても敵わないが、彼に鍛えられて、1人暮らしを始めた当初からは考えられないほど
に料理のレパートリーも増えた。
「何にしよう」
(まだ少し寒いし・・・・・思い切っておでんとか)
「だったら、直ぐに買い物して煮込まないと」
ようやく今からやることが決まり、真琴は携帯電話を取り出した。送り迎えをしてくれる海老原(えびはら)に連絡を取るためだ。
たとえ近距離でも送迎を頼むことを言い含められているので、申し訳ないがこのままスーパーに寄ってもらうことにする。
「・・・・・あ、海老原さん、俺です。後5分くらいで門を出ますから・・・・・はい、じゃあ、何時もの所で」
いくら慣れたとはいえ、やはり一般市民である真琴にとって誰かに世話をされるというのは気恥ずかしいというか、申し訳なくて
たまらない。
海老原は海藤の部下で、彼の命令で自分に付いてくれているのだと思っていても、社会人になった時はどうするんだろうと最近
考えることも多くなった。
(まさか、会社まで送り迎えなんて・・・・・)
「子供じゃないんだし」
そこまで考えて、再び先程まで頭の中にあった就職のことがグルグルと回り始める。
このままでは駄目だということは分かっているし、一度、海藤とちゃんと話し合わなければならないだろう。
父とも相談して、ちゃんと自分の進路を決めなければ・・・・・。
「あ」
その時、まだ手に持ったままの携帯が鳴った。
海老原から、迎えの場所に着いたという折り返しの連絡だと思った真琴は、液晶に出る番号も見ないまま、全く警戒することもな
く電話に出た。
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