眷恋の闇










                                                                     『』は中国語です。






 「はい、海老原さん?」
 【・・・・・】
 「え・・・・・っと」
 しかし、直ぐに返ってくるはずの海老原の声は聞こえない。
(違った?)
 てっきりこれは海老原の到着を知らせる電話だと思っていたのに、電話の向こうは全くの無音で吐息さえも聞こえず、どうやら間
違ったと分かる。
 「ごめんなさい、俺、西原といいますけど、どなたですか?」
 その雰囲気からも、友人ではなさそうだと直ぐに悟った真琴は謝罪し、相手が誰だか分からないので、間違い電話という可能性
も頭の中に入れながら改めて問い直してみた。
 【直ぐに分かれという方が無理だったか】
 「え?」
 やがて、耳に届いた苦笑混じりの声。
(今の、声・・・・・)
どこかで聞いたことがある声。最近ではない、少し前に、強烈な印象を伴ったその声は、しかし、耳慣れた響きの言葉ではなかっ
たはずだ。
 「あ・・・・・の」
 【私の声を忘れたか?私の可愛いトウゥ】
 「!」
真琴は白くなるほど手に力を込めて携帯を握り締める。耳慣れない例えを自分に向かって言った相手のことが、鮮やかに記憶の
中から呼び覚まされたのだ。

 今から約一年前。
真琴は雪の降る寒い夜に不思議な男と出会った。柔らかな眼差しと、スマートな物腰、何より、日本人である真琴の耳にはあま
り馴染みの無い異国の言葉を発した。
 それは夜の街の一瞬の出来事・・・・・真琴自身はそう思っていたが、彼がヤクザである海藤と同じ種類の人間であることが分か
り、その上なぜか自分に対して妙な感情を抱いたらしく、自分を挟んで海藤と彼が対立し、真琴にとっては辛い思い出の存在に
なってしまった。

 あれから、一年以上経っている。
真琴の中では消えてはいないものの、過去の出来事だという意識になっていたものが面前に突きつけられた感じがして、真琴は思
わずコクッと唾を飲み込んでしまった。
(どうして、これに・・・・・)
 この携帯の番号を、彼が知っているはずが無い。それなのに、ごく普通に会話を仕掛けてくる相手がとても怖いと思う。
(た、確かめなくちゃ・・・・・)
とても声の似た赤の他人。ほんの僅かな期待を込め、真琴は恐々電話の向こうの相手に問い掛けてみた。
 「も、もしかして・・・・・ジュウ、さん?」
 【名前は覚えていてくれたのか】
 少しだけ、声に嬉しそうな響きがこもった。
 「じゃあ、やっぱり、ジュウさんなんですか?」
 【久し振りだな、マコ。お前が変わっていないようで嬉しい】
 「か、変わってないって、声なんてそう簡単には変わらないし・・・・・」
 【お前を見てそう思った】
 「!」
その言葉に、真琴は反射的に辺りを見回した。見て・・・・・そう言うのならば、ジュウは自分の姿が見える場所にいるということにな
る。
電話を掛けてくること自体不思議で怖いと思ったのに、香港にいるはずの男が今ここにいるなんて、真琴は自分の中でそれは無い
と打ち消しながら視線を動かしたが。
 「あ・・・・・」
 校門の外、車道の反対側に停まっている高級外車の助手席から降りた男の顔は確かに見覚えがあり、その男が開けた後部
座席から降りて来た男の姿に、真琴は握り締めた携帯をそのまま下ろして・・・・・。
 「見た限りでもそう思うが?」
 電話越しではなく、じかに聞こえてきた声に、真琴は無意識のうちに深い溜め息をついていた。




 香港伍合会(ほんこんごごうかい)のロンタウ(龍頭)で、ブルーイーグルと言われる男。
それが自分のことだという自覚はあっても、ジュウは一年前の自分とは全く意識が変わっていた。
(それも、マコの影響だな)
 組織の拡大と、己の中の血だけを重要視していたジュウは、自分以外の誰をも心から信じることがなかった。
そうでなくても、ロンタウという自分の地位はあまりにも巨大で、後釜を虎視眈々と狙う者ばかり周りにおり、ごく僅かな側近と呼ば
れる者にしか、自分の顔も、名前も見せることは無かった。

 そんな中、新しく取引をする日本の組織を己の目で確かめるために、顔を知られていないという利点を利用して来日したが、そ
こで偶然にも可愛らしい兎を見つけてしまう。
 兎・・・・・トウゥの名前は、西原真琴。ごく普通の大学生で、飛びぬけた才能があるわけでなく、財力も無かった。
それでも、真琴はするりと自分の胸の中に入ってきて、何時の間にかジュウにとって安らげる存在に変化していく。異国の、それも
男を、愛しいと感じ始めてしまったのだ。

 悩むことは無かった。
男同士とか、国の違いとか、ジュウにとっては、それは大きな問題ではない。自分が愛せる者か、信じることが出来る者か、それを
自分の目で確かめるだけでいい。
 ただ、真琴には既に愛する者がいた。日本のマフィアで、真琴と同じ男。組織の力では自分にはるかに及ばないのに、男は逃げ
ることなくジュウに立ち向かってきた。

 丁度その時に、自分の婚約者の問題や、組織の中の裏切り者の存在のために、いったん日本を離れることになったが、その時
も真琴は共に香港に行こうと手を伸ばした自分のそれに首を振り、男の側にいると言い切った。
 顔に泥を塗られたはずなのに、その時のジュウの中にあったのは男を羨ましいと思う気持ち。どんな圧力にも屈せず、本当に大切
だと言ってもらえる男が羨ましく、そう言える真琴が本当に欲しくなってしまった。

 あれから、一年以上経った。
思ったよりも時間がかかったのは、本土内での権力拡大に着手したのと、組織の中の裏切り者が事の他多かったせいだ。
いや、表立って異論を言う者は少なかったが、やがてここに連れてくる真琴が不快な思いをしないためにも、日本人に悪感情を抱
く同胞を粛清するのに時間が必要だった。

 それも、この春には全て終わった。
ようやく訪れた日本。直ぐに会いに来た真琴は、以前と変わらぬ優しげな面差しをしていた。
 【ジュウ、さん?】
声も、変わらずに優しい。



後は、真琴をこの手に抱くだけだった。








 「ジュウさん・・・・・」
 真琴の中で一番最初に感じた思いは困惑。続いて、懐かしさと・・・・・恐怖。
少しの感情の揺れも無いまま、海藤や綾辻に手を掛けようとした彼の姿を鮮やかに思い出し、真琴は思わず唇を噛み締めて俯
いてしまった。
(本当に・・・・・ここにいるんだ)

 「私と別れることが、少しは悲しいと思っているのか?」
 「また直ぐに会える。今度は暖かな時期になるだろうが」

 別れ際、空港で言った彼の言葉は、その年の春になっても実現することは無く、時間が経つにつれて真琴にとっては過去の出
来事になってしまっていた。
それでも、ジュウは嘘は言わなかったのだ。

 「再見(サイチェン)」

 友人同士ならば喜ぶその言葉も、複雑な感情を持つ相手に対しては笑って久し振りとは言えない。
そんな真琴の困惑を知ってか知らずか、ジュウは数人の男達---------------気付かなかったが、ジュウの車の前後に車が停まってい
た--------------に守られながら、門の前に立つ真琴のもとへと近付いてこようとした。
(ど、どうしよ・・・・・)
 逃げたいと思っても、それが無理なことは十分分かっている。ただ、相手を待つほか、真琴が出来ることは無いはずだったが、

 キキーッ!

タイヤを鳴らしながら一台の車がジュウ達の行くえを遮るように停まる。
街中、それも日本で正々堂々とした反撃をするのは躊躇したのか、それでもジュウの周りはバッと男達が固め、それぞれがスーツ
の内ポケットに手を入れていた。
(あ、あの中に何が・・・・・)
 怖い想像をした真琴の耳に、焦ったような海老原の声がした。
 「真琴さんっ、乗って!」
 「あ・・・・・」
 「真琴さん!」
 「・・・・・っ」
強張っていた足は、二度目の名前を呼ぶ声に辛うじて動き、真琴は反射的に助手席のドアを開けて車に乗り込む。ドアが閉ま
ると同時に車を走らせた海老原の横顔を見た真琴は、続いて後ろを振り返った。
(・・・・・来ない)
 ジュウは、追ってこようとしなかった。道に立ったまま、こちらへと視線を向けているだけだ。
 「どうして・・・・・」
どうして彼は再び日本に来たのだろう。彼の正体を知っているはずの自分の前に姿を現したのだろうか。
 「・・・・・」
 「大丈夫ですか?」
 そんな真琴に、海老原が何時に無く硬い声で訊ねてきた。
 「は、はい」
 「何かされましたか?」
 「いい、え」
 「じゃあ、言われたことは?」
 「・・・・・ないです」
電話で話したこともごく僅かで、それも再会のことに関してだけで。意味のある会話など全く無かったはずだ。
 「角を曲がった時、見た覚えのある顔があったんで」
 「見た覚えって、ジュウさんのことですか?」
 「いえ、ロンタウの側近であるウォンです」
 「ウォン?」
そういえば、彼の側に常に寄り添っていたあの男の顔を、真琴もさっき確認したはずだ。
(・・・・・でも、海老原さんが気付いてくれて良かった・・・・・)
そうでなければ、あの場から動けなかった自分はどうなったのか・・・・・。
 「このまま事務所に行きます。マンションで1人にさせるわけにはいきませんから」
 「・・・・・あの、このこと海藤さんに・・・・・」
 「今から報告します」
 「あ・・・・・」
(俺、今・・・・・)
 とっさに、海藤に連絡をするのは止めてくれと言おうとした自分の気持ちが分からなかった。
海藤を危険な目に遭わせたくないという気持ちがもちろんあるが、どこかで・・・・・ほんの僅かだが、ジュウのことを気に掛けてしまっ
た自分がいた。
 香港で、海藤と同じ生業を持ち、恐ろしいと噂されていると聞いたものの、真琴に対してはジュウは穏やかで優しい態度で通し
てくれていた。彼の優しさは、恐怖と共に記憶の中に残っているのだ。
(このまま、何もなかったらいいのに・・・・・)
ただ偶然、顔を合わせただけ。ありえないとは分かっていたが、真琴はそう願わずにはいられなかった。