眷恋の闇




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                                                                     『』は中国語です。






 「海藤さん」
 振り返った真琴の笑顔に、海藤はホッとした。
まだジュウが日本を発ってから間もなく、マンションでは海藤に対して気を遣ってか何も話さない真琴だが、こうして外に出て、自分
以外の者と対した時にも笑顔が途切れないことに安堵する。
 表面上は日常を取り戻しても、真琴の受けた傷は深い。
海藤の肩の銃創のように目で見て分かりやすいものではないので、こちらが気をつけ、常に見ていてやらなければならないものだ。
 眷恋の闇。
真琴に恋焦がれ、諦めきれずに付きまとったジュウの闇を払拭するには、まだもう少し時間が掛かるだろう。
 「あの、仕事の邪魔しませんでしたか?」
 「いや、もう終わった」
 「・・・・・」
 海藤の言葉に、真琴はチラッと壁に掛けてある時計に視線を向ける、日頃の海藤ならばまだ仕事をしている最中だと思っている
のかもしれないが、真琴の杞憂を晴らしてくれたのは後ろに控えていた倉橋だった。
 「今日はたまたま全てがスムーズにいきました。真琴さんの日頃の行いでしょうか」
 「そ、そんなことないですよ」
 真面目な倉橋の言葉を、真琴は疑わない。それを分かっているからこそそう助言をしてくれた倉橋に、海藤は視線を細めて頷い
た。
 「しかし、本当に私達も同行してよろしいんでしょうか?せっかくですからお2人で・・・・・」
 「いいえっ、今日は皆さんへのお礼をこめた食事ですから、来てもらわないと困ります!」
 「そうですか?」
 「そうです!安徳さんや城内さんもいて、本当に良かった。」
 「真琴さん」
 少し戸惑った様子の倉橋の肩を、綾辻がポンポンと叩く。
誰かに好意を向けられることが苦手な倉橋だが、真琴の言葉は比較的素直に受け取る。
(本当に・・・・・戻ったんだな)
 全てが、元に戻った。いや、元にではなく、以前よりもきっと良い方向へと歩みだしたと信じたい。
海藤にとっては真琴がこうして傍にいてくれること自体が最良のことなのだが、真琴にとっても自分の存在がそうだといいと海藤は
思った。




 海藤を守る護衛の人数が増えたせいか、事務所の中は何となく落ち着かない。
それでも、組員達の顔が晴れやかなのは、自分の長が組織の重要な役に就いたという誇らしさがあるからだろう。
(やっぱり、凄いんだ、理事って)
 真琴の感覚でも偉い人なんだろうなというのは分かるものの、その権限はどうやら真琴の想像しているものよりもはるかに大きな
ものらしい。
 海藤が聞くかと言ってくれたが、真琴は遠慮した。その世界のことは聞いても分からないし、自分がその権限を使うことはないと
思ったからだ。

 「俺がこの役を受けたのは、お前を守る力がもっと欲しかったからだ。そのお前が側を離れてしまったら、何のために理事になるの
か分からない」

自分のために、力を手に入れようと思ったと海藤は言ってくれたが、その権限を出来るだけ使わないようにさせるのが自分のするこ
とだ。
 「何を食べに行くんですか?」
 「綾辻が開拓したらしい。行くまで秘密だそうだ」
 「へえ、楽しみ」
 舌も肥え、雰囲気も重視する綾辻のお勧めはきっと間違いがないだろうなと笑った真琴は、車に乗り込んだ海藤を改めて見つ
めた。
 「海藤さん」
 「ん?」
 「ここでする話じゃないかもしれないけど・・・・・倉橋さんや綾辻さんにも聞いてもらおうと思って」
 運転をしていた綾辻がバックミラー越しに、そして助手席に座っていた倉橋が身体をずらして視線を向けてきた。
皆、どうしたんだとは聞かない。きっと、真琴が今から何を話そうとしているのかを分かっていて、きちんと切り出すまで待ってくれてい
るのだ。
(・・・・・ありがとうございます、待っていてくれて)
 本当に、自分は恵まれている。それはお前が人を引きつけるからだと海藤は言ってくれるが、真琴自身はそれは海藤と出会って
彼がたくさん与えてくれたからだと思っている。
 守られるだけでなく、自分でも何かをしたい・・・・・そんな風に青臭いことを考えることが出来たのも、自分の心に余裕があったか
らだと、落ち着いた今はよく分かった。
そして、これだけ時間をくれたからこそ、真琴はようやく先を見つめることが出来たのだ。




 「俺、古河さんを見ていて、子供が相手の仕事も大変だけど楽しそうだなって思いました。教職に必要な単位は取っているし、
実習は教授にお願いして詰め込んでもらえたらって・・・・・そう、考えたんですけど」
 唐突に切り出した真琴の言葉を、海藤は一言も聞き逃さないようにと耳を傾けた。
悩んで、悩んで、ようやく真琴が出した結論だ。海藤にとってそれが良いか悪いかの前に、思いをきちんと受け止めなければと考え
た。
 「学校の先生なら、マコちゃんに似合ってるわよ。きっと子供に人気のある先生になれるわよ」
 綾辻も同じようなことを思ったのか、自信なげに言った真琴の言葉を後押しするように言ってくれる。
しかし、
 「でも、止めました」
真琴はそれを否定した。
 「真琴、俺の・・・・・」
 「違うんです、海藤さん。海藤さんの仕事のことは関係ありません」
 ヤクザという裏の顔を持つ自分が傍にいるから教師になれないのではないか。
その海藤の危惧をきっぱりと否定し、真琴は苦笑しながら続けた。
 「俺の我が儘なんです。学校の先生って転勤があるでしょう?俺、たとえ1年だとしても、海藤さんと離れて暮らしたくないから」
 「・・・・・」
 「試験が受かるかどうかの前に、考えることじゃないんですけど」
 海藤は、真琴の手を握り締めた。
今声を出してしまえば、情けなく声を震わせてしまうかもしれない。
(俺の傍に・・・・・いてくれるのか)
 真琴が望みさえすれば、海藤の方が付いて行くことも厭わないのに、真琴はこんな自分の仕事を気にしてそう言ってくれたのだろ
う。
眩しいほどに正しい真琴の希望する職種と、非合法なものも含める自分の仕事では、どちらがより尊いのか考えなくても分かるは
ずなのに・・・・・。
 「それで、もう一つ考えていた方に決めました」
 「もう一つ?」
 「税理士です」
 「税理士?」
 不思議そうに聞き返した倉橋に、真琴はハイと頷いてみせた。
 「中学上がるまでそろばんを習っていて、一応一級は持っているんです。今はもう指が動かないけど」
意外な特技に、海藤は握った真琴の指を見つめる。そういえば、真琴の父親はそろばん塾を経営していた。
 「兄ちゃ・・・・・兄達も、商売をしているし、家も自営業だし、俺が税理士になったら、家族の力にもなれるし」
 「・・・・・そうか」
 「それに、手に職を持ってたら、海藤さんが何時無職になっても、養ってあげれるし。俺、仕事で、小田切さんが上杉さんをそうし
ているみたいに、海藤さんを支えたいんです」
 「あら」
 綾辻の面白そうな声が車内に響いたが、次々と聞かされる真琴の思いに、海藤はただ胸が一杯になってしまい、握った手に力
をこめることしか出来なかった。




(最後の例えはちょっと違うけど)
 確かに、小田切は会計監査という名目ではあるが、実際にしている仕事は組長か若頭と同様のものだ。
それにあの2人の間には全く愛情はないが、真琴と海藤は違う。
 「まだ思いついたばかりだからこれから勉強して、多分一度じゃ試験は通らないと思いますけど、その時はバイトをしながらでも何
度でも挑戦するつもりです」
 「・・・・・」
(ありがとう、マコちゃん)
 今回、海藤の方の原因ではないものの、男と知り合わなかったらジュウという厄介な存在に目を付けられることはなかったし、銃
などというものも目にすることもなかったはずだ。
 一般人である真琴にとってそれがどれだけ恐怖を感じるものかは綾辻には推し量れないが、それでもはっきりとこれからも傍にい
ると断言してくれた。海藤にとってこの言葉こそがどれ程嬉しいものか、それは綾辻にも十分分かる。
 「だ、だから、フリーターになったとしても、見捨てないでくださいね」
 「・・・・・馬鹿」
 「え?」
 「出来れば、ずっとお前を閉じ込めておきたいくらいなのに・・・・・」
 「かい・・・・・」
 「頑張れ」
 大きく深呼吸をした後、海藤は力強く言った。
 「出来るまで、諦めるな」
 「はいっ」
 「・・・・・」
(これで、ようやく落ち着くわ)
真琴の進路も決定し、これで海藤も落ち着くだろう。試験に合格するか不合格になるかはおいておいても、そこまで頑張ろうという
気力があるのならきっと夢は叶うはずだ。
 「・・・・・」
 綾辻は助手席に座る倉橋を見る。
倉橋はしばらく後部座席の2人を見た後、ゆっくりと身体を元に戻して前方を向く。こちらを見てくれないのは少し寂しいが、その
口元に浮かぶ笑みを見つけただけでも、何だか得をしたような気がした。




 真琴はふうっと息をつく。
ようやく自分の思いを海藤に告げることが出来、それを受け止めてもらえて本当にホッとした。
 海藤に言った通り、こんな風に気持ちが定まったのは本当に最近で、自分でも本当にこれでいいのだろうかと未だに少しだけ迷
いはあるものの、以前海藤が言ってくれた言葉を思い出して気持ちを決めた。

 「自分のしたいことをゆっくり考えたらいい。回りを見て慌てることはないぞ」

 もしも、この選択に失敗したとしても、海藤はきっと真琴が再び目標を決めて歩き出すのを待ってくれると思う。そんな彼を外か
ら支えられるようになりたい。
(・・・・・やっぱり、絶対合格しないとっ)
 今まで暢気にしてきた分、卒業までとても忙しくなる。
バイトも今みたいな頻度ではいけなくなるだろうが、許してもらえるのならば出来るだけあそこに務めたい。海藤と出会った切っ掛け
になったバイトに、真琴は深い愛着を持っているのだ。
 「社長、楽しみですね」
 「ああ」
綾辻の言葉に、海藤がそう頷いて笑った。




 「そう言えば、安徳さん達はまた綾辻さんの部下になるんですか?」
 「キーチはそうだけど、アンちゃんは克己に任せることにしたわ。案外、合いそうだから」
 「あー、分かります」
 綾辻と楽しそうに会話を続ける真琴を見つめる自分の顔は、一体どれ程笑み崩れているのだろうかと思う。とても人に見せられ
るような顔ではないだろうが、ここにいるのは最愛の者と、心を許した部下達だ。
 「真琴」
 海藤の声に、真琴が視線を向けてくれた。
 「一度、ご両親に報告しなければならないだろう?」
 「あ・・・・・そっか。まだ話してなかった」
様々な問題が一度にあったので混乱していたとしても仕方が無いが、進路が決まったことは一度ちゃんと親には話しておいた方が
いい。
その時には海藤も同行し、今度こそきちんとあの両親と向き合わなければと思う。
 「なんていうかな・・・・・」
 真琴はもうその時の光景を想像しているようだが、海藤は既に脳裏に浮かんで見える。きっと、あの家族ならば頑張れと励まし
てくれるはずだ。
 「一緒に行くから」
 そう言うと、真琴は一瞬目を見張り、次の瞬間にパッと笑顔になって頷く。
海藤の方が落ち着き、真琴も勉強の方向性が定まったら早速行こうと、海藤はもう一つの自分の家族に会いに行くことを今から
楽しみに感じていた。





                                                                      end