眷恋の闇




41





                                                                     『』は中国語です。






 日本が遠くなる。
 『・・・・・』
来日する時、まさか一人で帰国するとは考えてもいなかったが、今自分の隣にない温もりをこの先も追い求めようと思うことは止め
なければならない。
 好意も嫌悪も抱いてはもらえない相手を、既に愛する者がいる相手を己の方へ振り向かせるには、ジュウはあまりにも余計なも
のを背負いすぎて、なりふり構わず行動することが出来ないのだ。
 いっそ、何もない、ただのジュウならば、もっと真琴に近付いていったかもしれない。しかし、そんな男を真琴に近付けさせないと、
海藤はもっと簡単な方法で自分を引き離していただろう。
 ロンタウ。
重くて、価値がある地位と同時に、限りなく孤高の存在でなければならないと、ジュウは改めて考えていた。
 『空港に着いた時点で、向こうが拘束している者はこちら側に引き渡されることになっています』
 隣に座ったウォンが声を掛けてきた。
真琴達とホテルで別れて以来、一言も口を聞かない自分を気遣わしげな視線で見ている。
 『・・・・・』
 『・・・・・直ぐに、香港に到着します』
 『・・・・・』
 『今度こそ、裏切ることの無いように粛清しなければ』
 『・・・・・そうだな』
 真琴が手に入らない今、あの婚約破棄は意味があったのだろうかと思うものの、今何の感情も抱かない女を妻として迎えること
は出来ない。いや、その親は自分を裏切った相手だ。
 『ジュウ』
 『・・・・・』
 『あなたを必要とし、あなたが愛せる相手はきっと現れます。どうか、全てを諦めないでください』
自分を慰めるつもりなのか、そう言うウォンに視線を向ける。真琴以上に心を惹かれる相手が現れるとは今の時点で考えられな
いが、それでもジュウは目を細めて少しだけ笑み、再び窓の外を見つめる。
 もう、会うことも無いかも知れない真琴の幸せを願うなど、とても自分らしくないことを考えながら、ジュウは修羅場が待つ自分の
国へと意識を向けることにした。








 「ううん、こっちこそ、お祝いをありがとう。海藤さんも江坂さんにお礼を言うっていってたけど、俺は静に直接言いたかったから。江
坂さんにも、今回凄くお世話になったんだ、よろしく言っておいて」
 電話の向こうで穏やかに頷く静の様子を想像しながら、真琴はようやく言えた謝礼にホッとしていた。
海藤の襲名式とジュウの帰国と。
真琴にとっては大きな出来事が重なって、頭の中が一杯になっていたため、海藤の昇進祝いを贈ってくれた江坂に礼を言うことも
忘れてしまっていたのだ。
 式もとっくに過ぎた二日後、ようやく落ち着いた真琴は早速静に電話をし、江坂への伝言を頼む。彼に直接電話をするのは、
やはり少し緊張してしまうからだ。
 【でも、昨夜メールをくれたんだろ?】
 「メールだけじゃ失礼かもって」
 【笑っていたよ。なんだか小学生になった気分だって言ってた】
 「・・・・・見た?」
 【ふふ、ごめんね】
 「う、ううん、別にそれはいいんだけど・・・・・そんなに幼稚な文句だったかな・・・・・?」
 真琴としては一生懸命考えた文章なのだが、少し型にはまり過ぎていたのかもしれない。それでも、どうやら不快な思いは抱い
ていないらしいと静の言葉で分かり、ホッとしたのも事実だった。
 「今度、ゆっくり会おうね。静とも色々話したいし」
 【俺も。真琴の顔を見てちゃんと話したい。江坂さんや海藤さんも誘って、4人でご飯食べに行こうね】
 「うん」
 電話を切った真琴に合わせるかのようにインターホンが鳴る。
時間通りだと思いながらも一応モニターで相手を確認した真琴は、ソファの上に置いていた鞄を取って玄関へと急いだ。
 「おはようございますっ」
 「おはようございます」
 目の前にいるのは海老原だ。付きっ切りで守ってくれていた安徳と城内は昨日でその任を外れると挨拶をされた。
もちろん彼らにも仕事があることは分かっていたのでその場で感謝の言葉を伝えたが、今日は夕方に海藤の会社に行くことになっ
ているその時、彼らがいないのはきっと寂しいだろう。
 「大学でいいんですよね?」
 「はい」
 「・・・・・」
 「?何ですか?」
 「何だか、少し前よりも表情が晴れたなって思って。いろんなこと、解決したようですね」
 「・・・・・心配掛けてごめんなさい」
 運転手として、真琴の一番傍にいた海老原には、自分の情けない表情はたっぷりと見られている。恥ずかしいが、心配してくれ
ていた彼が安心するほどに自分は復活したのかと思えば、この悩みの時間も必要だったのかもと思えるから不思議だ。
 全てが上手くいくかどうか分からないものの、前を見ることが出来るようになった。全ては黙って支えてくれた海藤と、今は日本に
いない彼のおかげかもしれない。




 大学へ行き、目当ての教授の部屋に向かおうとした真琴は、廊下の向かい側から島谷が歩いてくるのが見えた。
(・・・・・無事だ)
どういった経緯で彼がジュウの手助けをしたのかは分からないが、どうやらあれが失敗した後も彼には何の罰も与えられなかったよう
だ。それにホッとした真琴が息をつくと、島谷も真琴に気付いた。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・おはよう」
 「・・・・・おはよ」
 短い挨拶だけを交わして、そのまますれ違う。これが島谷と自分の日常だ。
 「・・・・・」
何歩か歩いた真琴が、ふと気を引かれるように後ろを振り向くと、立ち止まってこちらを見ていた島谷が、少しだけ笑みを向けたよ
うな気がした。




 昼食も学食で食べ、そのまま大学にい続けた真琴が帰ることにしたのは午後4時を過ぎた頃だった。
海老原に連絡を取り、何時ものように校門で車を待っていると、携帯電話が鳴ったので急いで鞄を漁って取り出す。
 「あ」
 携帯は、また新しいものを与えられた。
そのアドレスを送った兄弟達から、どうして頻繁に携帯を買い換えるのだ、いったい何があったのだと、電話やメールで質問攻めに
あっているのだが、こんな風に心配されることが嬉しかった。
 「真ちゃんか」
今のメールは真哉で、兄達とは全く違う冷静な切り口でじわじわと真相を訊ねてくるのがとても中学生とは思えない。
 「えーっと、心配無用。今度帰るから」
 感情の機微に敏い真哉には電話の声でも何かを悟られかねないので、一応メールで返事をした。
 「真琴さん」
 「あ、はい」
送信を押した時、海老原の車が目の前に来る。真琴は迎えに来てくれたことへの礼を言いながら車に乗り込んだ。

 海藤の会社に着いたのは午後5時少し前だ。
仕事中かもしれないと思ったが、車が玄関先に着くと直ぐにガラス戸の向こうに見慣れた姿が映る。
 「マコちゃん」
 「すみません、綾辻さん。まだ少し早かったですよね?」
 今日は綾辻と倉橋、そして久保も揃って夕食を食べに行くことになっていた。
海藤に世話になった礼をしたいと相談すると、改めてこういった席を設けてくれたのだ。ただ、こうなると支払いは海藤もちになってし
まうのが心苦しいのだが、気にすることは無いと言われてしまう。
頑強に拒否するのも申し訳ない気がして、真琴は個人の礼はまた後日にしようと思っていた。
 「・・・・・あれ?」
 「ん?どうかした?」
 「気のせいかも・・・・・あの、何だか人が多いなって思って」
 「ああ、本部の方から社長の護衛として付けられた彼らがいるのよ。むさ苦しい上に無口で、何だかいっぺんに事務所が狭くなっ
ちゃった気分」
 「綾辻さんってば・・・・・」
(でも、前からいる組員さんだけじゃ足りないのかな・・・・・?)
 今までも、開成会の会長である海藤を守ってきた組員達。彼らも立派な護衛なのにと思っていると、その視線だけで言いたいこ
とが分かったのか、綾辻は口元を緩めながら続けた。
 「彼らはあらゆる意味でプロなの。絶対に社長を守る。マコちゃんもそのことに関しては心配しなくてもいいから」
 「は、はい」
(そっか・・・・・ちゃんと守ってくれるのか)
 それならば安心だ。
初めての役に就いて、きっと大変だろう海藤の身の安全だけでも確かならば、真琴も安心して彼を待っていられる。




(社長だけじゃないけどね〜)
 真琴は全く気付いていないようだが、真琴にも護衛が付いていた。
正式な妻を持っていない海藤にとって、自分の全てを譲る唯一の相手が真琴だ。万が一真琴を利用して海藤の力を・・・・・そん
な風に思う他組織を警戒するためにも、真琴にも今まで以上の護衛が付くようになったのだ。
 もしかしたら、組長である永友との対面で、彼が真琴に対して良い印象を持ったからこそ、この対応も許したのかもしれないとも
思えるが。
(江坂理事・・・・・っと、総本部長だって、きっとしーちゃんに鉄壁のガード付けているだろうし)
 「恋人馬鹿かも」
 「え?」
 「ううん」
 綾辻は真琴を促して一階の事務所へと案内した。
 「社長、電話中だから、ちょっとここで息抜きしててね」
 「はい」
素直に頷いた真琴は、事務所の中に入るなり目に映った人物に思わず大きな声を上げる。
 「安徳さんっ?」
 「・・・・・」
 安徳は丁寧に頭を下げてから、ゆっくりと自分達の方へ近付いてきた。
真琴が驚いた理由に何となく気付いた綾辻だが、真琴の驚いたような表情が可愛かったので黙っていることにする。そんな綾辻の
笑みを含んだ視線の中、ようやく目の前に来た安徳は少し気まずそうな表情だ。

 「短い間でしたが、お世話になりました。今回もお役に立てず、本当に申し訳ありませんでした。明日には、日本を発ちます」

 確か、そのようなことを言って別れたのだと城内が言っていた。
言葉だけを聞けば、完全な離別を示す言葉なのだが、安徳と城内は未だここにいる。
 「あ、あの」
 「私が引きとめたの」
 「え?」
 言葉数の少ない安徳にこれ以上任せても話は進まないだろうと、隠すことでもないので綾辻はさっさと謎解きをした。
 「海外で働いてもらうのももちろん助かるけど、今回みたいに近くにいてくれた方が色々と力を貸してもらいやすいし」
 「私など、そんな・・・・・」
 「アンちゃん、謙遜しなくってもいいってば。ね、キーチ」
 「私はともかく、この人は優秀ですから。きっと会長や綾辻幹部の力になれると思います」
 「城内っ」
安徳を慕っている城内の真っ直ぐな言葉に焦る安徳。その様子に、綾辻は思わず笑ってしまう。その時、
 「真琴」
後ろに倉橋を従えた海藤が、開けっ放しだったドアの向こうから姿を現した。