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「和沙(かずさ)君、今度デートしよっか」
「え?あ、あの、僕、その・・・・・」
端正な容貌の中の切れ長の目が笑っているのにも気付かず、和沙は焦って思わず持っていたお絞りを落としてしまった。
「ご、ごめんなさいっ」
「いや、急に声を掛けた俺が悪かったんだから」
「す、すぐ、取り替えて来ますから!」
ペコペコと何度も頭を下げて言った和沙は、それでもこの場から逃げ出す切っ掛けが出来て内心ホッとしていた。
高校3年生の杉野和沙は、既に進学する大学も決まり、持て余した時間で叔父が経営する喫茶店を手伝うことになっ
た。
手伝うといっても内向的で大人しい和沙はとても接客業に向いているタイプではないのだが、これからの大学生活の為に人
馴れする必要があると母親に厳命されたのだ。
始めは「いらっしゃいませ」と言う事も出来ず、その上いくつもカップを割ってしまった。
それでもおおらかな叔父は気にすることはないと笑ってくれ、和沙も常に傍で見てくれている叔父の存在に安心して、今では
少しだけだが声も出せるようになっていた。
そんな叔父の喫茶店『彩香』(色々なコーヒーの香りという意味らしいが)の客層は20代から40代の大人の客が多く、和
沙がバイトに入った当初から優しく受け入れてくれた。
注文を急かすことはないし、失敗をしたとしても笑って許してくれる。
臆病な和沙にはありがたい職場だが、1つだけ困っていることがあった。
それは今も和沙をデートに誘った男の存在だ。
男の名前は沢渡俊也(さわたり としや)といい、もう長い間この店に通っている常連客らしい。
今年32歳になる外資系企業に勤めているサラリーマンらしいが(叔父談)、困ったことに和沙がバイトを始めて幾日も経た
ない内から口説き始めたのだ。
からかっているのだろうが、何時も来る度にデートに誘ってくるのを和沙が断わるのも一苦労なのだ。
沢渡曰く、
「和沙君は可愛いから、早めにツバを付けておきたい」
と、言うのだが、和沙にその言葉の意味は全く分からない。
近眼の為に掛けている眼鏡も(コンタクトは恐くて付けられない)顔の大半を隠しているし、人の目を真っ直ぐに見れなくてカ
モフラージュに伸ばしている前髪もボサボサだ。
男子校である高校ではしょっちゅうからかわれる対象であり、仲がいい友人達は皆大人しい少年ばかりで、女の子の話など
お互い恥ずかしくて言えないというくらいで、容姿のことなども誰も気にしなかった。
沢渡はそんな自分とは正反対の人間だ。
背が高く、容姿もいい。何時も綺麗に背広を着こなし、いかにも出来る男といった感じに自信に満ち溢れている。
そんな沢渡の言葉は、和沙にとっては全く現実味がないものだった。
「お、お待たせしまっ、しました」
どうしても強張った表情になってしまう和沙に、沢渡は笑いながら声を掛けた。
「さっきは、俺が驚かしたせいで、ごめん」
「い、いえ」
「でも、和沙君、俺の言葉は本当だから。今度デートしようよ」
「ぼ、僕、男ですよ?」
「知ってる。それでも全然構わないんだ」
「・・・・・」
(構って欲しいんだけど・・・・・)
沢渡は人差し指で軽く和沙の手の甲に触れる。
「!」
まるで感電したように、和沙はビクッと身体を揺らした。
ドキドキと煩いぐらい鳴る心臓がどういう理由からなのか、和沙は考えるのが恐くてワザと思考を逸らしてしまう。
(し、静まれ、心臓・・・・・っ)
「和沙君、俺はそんなに悪い男じゃないよ」
とても口では勝てないと、和沙はそれとなく叔父にも相談した。
しかし、叔父は、
「あいつはお買い得だよ。金も持ってるし、生活力だってある。引っ込みじあんな和沙にはピッタリだ」
そう、本気なのか冗談なのか分からないことを言いながら笑っていた。
和沙は沢渡に対抗するのは自分しかいないと思い知ったのだ。
「じゃあ、明日」
「おう、気をつけて帰れよ」
それから数日したバイトの帰り、店の裏口からバス停に向かっていた和沙は、不意に後ろから名前を呼ばれた。
「和沙君!」
「え?」
振り向くと、そこには店の常連客の1人が立っていた。
「・・・・・神田さん?」
20代後半のサラリーマンである神田は、ほぼ1日おきに店に来てくれる常連客だ。
大人しい和沙にもよく話しかけてくれ、和沙はいい人という印象を持っていた。
「ど、どうしたんですか?」
「君が出てくるのを待ってたんだ」
「え?」
少し、嫌な予感がする。
「店ではなかなか言いにくくて。和沙君、俺と付き合ってくれないか?」
「え、ええっ?」
この人も・・・・・悪い予感が的中してしまった和沙は、緊張で身体が強張ってしまった。
「他の奴らも君を狙ってる奴がいるみたいだし、早く言っておきたかったんだ。どうかな?」
「ぼ、僕なんか、どうして・・・・・」
「和沙君、綺麗な顔立ちしてるよ。人馴れしてないところも庇護欲そそるし、腕の中で可愛がってやりたいんだ」
「ひ、庇護欲・・・・・」
全く自分とはかけ離れた言葉を聞いたような気がする。
「どう?」
「ど、どうって、僕、そんなこと考えられないし・・・・・」
「考えてくれないか?」
神田の手が腕を掴んだ瞬間、和沙はゾクッとした悪寒を感じてしまった。
自分に対して特別な思いを抱いている男という存在が、思っていた以上に和沙には負担に感じてしまったようだ。
しかし、一方で、神田と同じ様に自分に好意を持っているらしい沢渡には、今のような嫌な感情は抱いたことはなかった。
何度も好きだとか付き合って欲しいとか言われたが、戸惑ったり、恐かったり、羞恥を感じることがほとんどで、嫌だとは思ったこ
とはない。
(沢渡さんは・・・・・別だってこと・・・・・?)
「和沙君?」
硬直してしまった和沙を、神田はそのまま自分の方に引き寄せようとする。
「ごめんなさい!」
「・・・・・っ」
和沙は反射的に神田の身体を突き飛ばした。
「お、お付き合い、出来ません!ごめんなさい!」
一瞬のことで呆然とする神田をそのままに、和沙は今までで1番早いと思えるほど走った。
(ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさい!)
走りながら、何度も何度も謝罪を繰り返す。
頭の中が混乱していて、和沙はいったい誰に対して謝っているのか自分でも分からなかった。
「い、いらっしゃいませ」
「こんにちは、和沙君」
翌日の夕方、沢渡は何時もの時間に店に来た。
しかし、迎える和沙の気持ちは昨日までとは全く違う。
「ご、ご注文は?」
「ん?和沙君」
にっこりと笑いながら、何時ものからかうような口調で言う沢渡に、和沙は付けているエプロンの裾をギュッと握り締めて搾り
出すように言った。
「い、今は、だ、駄目ですからっ」
「え?」
何時もとは違う反応に、沢渡はじっと和沙を見つめる。
真っ直ぐな視線を感じて、和沙の顔はじわじわと赤くなっていった。
「・・・・・後ならいい?」
「あ、後、そ、そです、後なら・・・・・」
昨夜、かなり遅くまで和沙は考え込んでいた。
自分にとっての沢渡がどういう存在なのか、眠れないほど考えた。
そして、分かったことが2つ。
沢渡の申し出をなかなか受け入れられなかったのは、OKを出した途端に沢渡が冗談だよと打ち消すのが恐かったこと。
実際に2人きりで会うようになったら、和沙をつまらない子だと幻滅されること。
思えば、沢渡が嫌いだとは全く思っていないのだ。
「じゃあ、和沙君、明日の土曜の昼間、俺とデートしてくれませんか?」
少し改まった口調で言う沢渡を、和沙は出来るだけ頑張って見つめようとした。
「・・・・・」
「大切にするから、安心して俺のものになりなさい」
その言葉を、今は直ぐに信じることはまだ出来ない。
しかし、信じたいと思っている自分の気持ちに素直になりたいと思った。
「え・・・・・と、じゃ、じゃあ、お、お試しってことじゃ・・・・・だ、駄目ですか?」
和沙にとって、それがどんなに勇気がいる言葉かちゃんと分かってくれていた沢渡は、嬉しそうに笑って直ぐに承諾の返事を返
してくれた。
「もちろん。しっかり俺を見て欲しいな」
「は、はい」
「じゃあ、何時ものブレンド頼むよ」
「はいっ」
変わりない日常だったが、和沙の心の中はかなり変化している。
思い切って一歩踏み出した自分が誇らしくて、和沙の足取りは自然と軽いものになっていた。
end
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