子犬と闘犬2
1
目の前の、顔を真っ赤にしている青年の顔をじっと見つめながら、楢崎久司(ならざき ひさし)は対応を間違えてはならないと
思った。
「こ、今週の金曜日の夜から、母さん、弟を連れて田舎に帰るんです。従兄弟の結婚式に呼ばれて・・・・・日曜日の夜まで、
帰ってこないって」
どう考えても、これは誘われていると思っていいだろう。
親子ほども歳の違う恋人の、これは精一杯の誘惑の言葉だと楢崎は分かったが、一方で本当にいいのかと何度も頭の中で繰
り返した。
今ならば、まだその身体を完全には自分のものにしていない。他の男に渡すことなど考えられないと、お前は俺のものだと何度
も言いきかせたくせに、いざこの時が来た時、自分の中で一歩足を後ろに引いてしまう思いがある。
多分、楢崎の心のどこかで、もう一歩深く踏み込むことに躊躇いが残るせいだろう。今ならばまだ、手放すことも出来るかもし
れないと・・・・・。
「な、楢崎さん?」
「・・・・・」
「あ、あの」
「・・・・・」
「い、一緒にっ、いたいんですっ」
「暁生(あきお)・・・・・」
出会った時はまだ少し子供っぽい面影を残していたが、今はもう中学生に見間違えることはない。
楢崎が好きではないからと髪を染めることも止めて、今では艶やかな黒髪で、ずっと外していたピアスの穴ももう塞がっている。
そこまで自分に合わせることはないと思うのに、一途な好意を向けてくれる恋人に、楢崎は今こそ自分も決意をしなければならな
いと考えた。
楢崎は今年43になる、最大指定暴力団大東組系羽生会の幹部だ。
中年太りとは程遠い鍛えた体躯に、昔抗争の時に負った、目じりに深い切り傷が彼を強面に見せるが、実際は落ち着いた物腰
の静かな男だった。
腕っぷしは強く、頭も切れるのに、何時も飄々としている羽生会会長、上杉滋郎(うえすぎ じろう)と、男にしておくにはもった
いないほどの美貌なのに、何を考えているのか全く分からない会計監査、小田切裕(おだぎり ゆたか)を上司に持って苦労して
いるものの、幾つもの組を渡り歩いてきた楢崎にとってはこの組は居心地が良く、やり甲斐のある仕事も任せてもらってる。
そんな彼は2年近く前、ある1人の少年と出会った。それが、日野暁生(ひの あきお)だ。
街で偶然絡まれている暁生を助けたが、その後なぜか懐かれてしまった。
シングルマザーで、飲み屋で働いている母と、弟の三人家族。まだ十代の暁生を自分のようなヤクザと関わらせるのは駄目だと
始めは突き放していたが、一心に自分を慕う暁生の気持ちに何時しか絆され、とうとう恋人のような関係になってしまった。
それでもまだ、最後まで関係は持っていない。
ペニスを弄ったり、口や手で愛撫はしたものの、挿入する時になるとどうしても躊躇いがあった。
暁生を大切に思っている。この歳になって、久しぶりに本気の恋をしていると思う。だからこそ、暁生の将来を考えれば、最後の
一歩が踏み出せなかった。
そんな自分に、暁生がじれったさを感じているのは分かっている。最後まで抱いて欲しいと、言葉でも眼差しでも言われたこと
がある。
もう少し先にと延ばしてきたものの、それももう・・・・・限界なのかもしれなかった。
「・・・・・」
黙って自分を見つめる楢崎を見ている内、暁生は何だか泣きそうになってしまった。
(俺・・・・・無理なこと言ってるのかな)
目的もなく、それでもそれなりに生きていた日々。楢崎はそんな自分の人生に、強烈な光を差し込んでくれた。
ヤクザなど、怖くて近寄ってはならない存在だと思っていたのに、楢崎は暁生が理想とする大人の男で、そこらにいる普通のサ
ラリーマンよりもよほどカッコいい。
外見も、一見怖いと感じるが、その心はとても温かく、知れば知るほど好きになって、男同士だとは分かっていたが、どうしても
我慢出来ずに楢崎にアタックし続けた。
大人の彼はまだ未成年の自分を受け入れることに相当悩んでくれたようだが、暁生は自分の選択に後悔などしないし、楢崎
と知り合わなかった頃の自分に戻りたくは無かった。
押して押して。
何とか恋人(多分)という位置にまで来ているものの、実はいまだ最後まで楢崎に抱いてもらっていない。
何時も自分を気持ちよくしてもらっているが、自分の後ろで楢崎を受け入れてはおらず、もしかしたら彼は男同士というものを思っ
た以上に重視しているのかもしれないと思った。
どうしたら、最後までセックス出来るのだろう。
彼に、全部を愛してもらえるだろう。
愛されていないとは思わないが、それでも不安で、何時か楢崎を他の誰かに奪われてしまうかもしれないとも思って。
焦って、本当にどうにかしなければと思った時に、唐突に今回の話が出た。
母子家庭の自分を外泊させるわけにはいかないと、楢崎はどんなに遅くなっても暁生を自宅に帰してくれる。
母親に心配かけるわけにはいかないからという楢崎の気持ちは嬉しいが、自分の年だったら外泊をしたって少し怒られる程度で
終わるはずだ。
今回の母の留守は、暁生にとっては大きなチャンスだった。
本当は一緒に行かないかと誘われもしたが、バイトが代われないからと答え、何とか1人だけこちらに残ることを了承してもらった。
自分1人ならば心配をされただろうが、母親は楢崎のことをとても信頼していて、彼が側にいるのならば大丈夫だろうという話に
なって・・・・・。
自分の方は全て話はつき、後は楢崎の承諾の言葉だけが必要だ。
明らかに誘っている言葉に、それでも駄目だと言われたら、きっと自分はしばらく立ち上がれないくらいに落ち込んでしまうだろう。
「な、楢崎さん?」
「・・・・・」
「あ、あの」
「・・・・・」
「い、一緒にっ、いたいんですっ」
「暁生(あきお)・・・・・」
事務所に押し掛け、突然そう言いだしたことに楢崎は困惑している。
もしかしたら、嫌だと言いたいのかもしれないが、優しい彼は自分のことを考えて言い出さないのかもしれない。
(う・・・・・落ち込む・・・・・)
「・・・・・明日」
「えっ?」
「今から出掛けないといけない。その話は明日しよう、いいな?」
「う・・・・・ん」
とても嫌だと言えなくて、暁生は何とか頷く。断られるのが1日延びただけかもしれないが、それでも希望を持つことは出来たの
だと自分自身に言い聞かせた。
明らかに肩を落とした暁生が自分の部屋から出て行くと、楢崎はようやく深い溜め息をつくことが出来た。
何とか誤魔化して返事は延ばしたものの、結論は出さなければならない。
「・・・・・」
「い、一緒にっ、いたいんですっ」
暁生の口からそれを言わせたことを申し訳なく思い、そこまであの青年を追い詰めてしまった自分が情けなかった。
「・・・・・どうするかな」
独り言のように呟いた時、部屋がノックされた。
どうぞと答えればドアが開き、その姿に楢崎は立ち上がる。
「何か?」
「・・・・・暁生君が来たと聞いたんでね」
「先程帰りました」
「そう・・・・・残念だな」
そう言いながらも、楽しそうな笑みを頬に浮かべたまま、小田切はじっと楢崎を見つめてきた。
「喧嘩でもした?」
「・・・・・」
(誰かに聞かれたか?)
その言葉に楢崎は眉を顰める。大声で言い合っていたとは思わないし、きちんと扉は閉めたつもりだったが、誰かが廊下で自分
達の会話を聞き、それを小田切に進言した者がいたのだろうか?
「あ、当たり?」
「・・・・・」
「さっき、帰る暁生君を見掛けてね。暗い表情をしていたから、絶対に何かあったんだと思って」
何も、自分を引っ掛けなくてもいいと思うが、面と向かって小田切に文句を言うわけもいかず、楢崎は隠すこともない溜め息を
つく。そんな楢崎に、小田切は目を細めた。
「悩みがあるのなら聞くが?」
「いえ、大丈夫です」
「きっぱり拒否か?」
「あなたにアドバイスを求めても、とても私が実行出来ないことばかりでしょうから」
「ふふ、仕方ないよ。でも、自分で考えようというのは私も賛成だな。誰かに相談したって、結局決めるのは自分自身だ。どうせ
後悔するのなら、自分の決断で失敗した方がいい」
小田切の言葉はもっともだ。どんな結論にせよ、それは自分が決めなければならない。
(どうせ後悔するのなら、自分の決断で失敗した方がいい・・・・・か)
暁生のためにはどうすればいいのか。
自分はどういう決断をした方がいいのか。
簡単には結論が出ない問題だと思うものの、それでも楢崎は自分の出す結論は既に決まっているような気がしていた。
『事務所に来れるか?』
翌日の夕方。
楢崎からそんな電話があった暁生は、直ぐにうんと返事をした。バイトが終わったころに連絡をしてくれたのは楢崎の優しさなんだ
ろうなと思うと、自分が大切にされていないとは思わない。
(駄目でも・・・・・仕方ないか)
今回の誘いを断られたとしても、次もあると思えばいい。
(今までだって、我慢出来たんだからさ)
けして、楢崎の身体だけを欲しているわけではないのだ。
「あ」
「いらっしゃい」
「こ、こんにちはっ」
羽生会の事務所にやってきた時、丁度玄関先で小田切と会った。彼は出掛けようとしていたらしく、停まっている車と数人の
顔見知りの組員の姿に、暁生も姿勢を正して頭を下げる。
有能で、年齢不詳な美貌を誇る小田切。叱られたり、恫喝されたりしたことは無いのだが、暁生は小田切が苦手で、楢崎も
あまり近づくなと言っていた。
(な、なんか、食われそうな気がするんだよな)
年少の友人で、羽生会会長の上杉の恋人である少年は、小田切のことを優しくて頼り甲斐があると言っていたが、そう思える
のが凄いなと思ってしまう。
「暁生君」
「あ、はいっ」
名前を呼ばれ、緊張した暁生の顔をしばらくじっと見つめてきた小田切は、不意に楽しそうに笑った。その笑みは何時もの何か
を含んだものではなく、純粋に楽しそうな笑みに見えた。
「お土産は、饅頭でいいですから」
「え?」
「早く行きなさい」
「あ・・・・・はい」
(どういう、意味だろ?)
いきなり饅頭と言われても、どういう意味なのか全く分からなかったが、暁生は焦って頭を下げると、自分を待っているだろう楢
崎のもとへと急いだ。
自分の部屋にいた楢崎は、直ぐに暁生を招き入れてくれた。
昨日の自分の言葉への答えを聞くということが分かっているだけにとても緊張してしまい、自然と浮かべる笑みも頬の上で強張っ
てしまう。
「あ、あのっ、昨日のことなら、俺っ」
昨日一晩考えて、やはり自分の言葉は楢崎の都合を考えていないものだったと思えた。身体を重ねるということは、それが普通
のカップルとは違うだけにもっとデリケートで、楢崎がその気になってくれた時でいいと思うことにした。
無理に抱いてもらうのは何だか情けないし、悲し過ぎる。
「急に言って、楢崎さんも困ったと・・・・・」
「先走るな」
「・・・・・え?」
突然謝ってきた楢崎に、いったいどういうことなのか全く分からないままその顔を見上げると、彼はすまなかったなと謝ってくる。
「年下のお前に誘わせるなんて情けないが、俺もようやく腹が決まった」
「な、楢崎さ・・・・・」
「金曜の夜から二泊、箱根に宿を取った。こういうことは慣れないから人に頼んだんだが、宿には間違いが無いと思う」
その言葉に、暁生はようやく先程の小田切の不可解な言葉の意味が分かったような気がした。
「都内のホテルや俺の部屋で抱くのも考えたが、多少・・・・・記念になる場所がいいかもと思ってな」
「・・・・・っ」
「それとも、わざわざ出掛けてまで・・・・・」
「う、嬉しいですっ」
楢崎はきっと、初めてのセックスのことだけではなく、常日頃から二人きりで過ごしたいという自分の我が儘な願いまで一気に叶
えてくれようとしているのだ。
優しくて、少し照れやな恋人のサプライズに、暁生はその身体に抱きついてしまった。
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楢崎&暁生の続編。
今回は2人のお初編。ここまでかなり長かった(笑)。