異国の癒す存在




プロローグ




                                                          
『』は中国語です。





 「マコ、そろそろ表閉めてくれないか?」
 「はい!」
 後10分ほどで午後11時になるという時間。
午後11時閉店の宅配ピザ《森の熊さん》は、配達の人間も全員揃った今からそろそろ閉店の準備をしていた。
 カウンター係りの西原真琴(にしはら まこと)は、店長にそう声を掛けられ、表のオープンの札をしまおうと外に出た。
深夜に近い時間ながら都心に近いので車も人影も多く、真琴は何時ものことなので何も気にすることもなく札を取り、表
のシャッターを下ろす準備を始める。
 その時。
 「?」
店から数メートル離れた場所に、1人の男が立っているのが目に入った。
本来ならば気にもしない通行人が目に止まったのは・・・・・多分、その雰囲気だろう。
歳は海藤と同じか少し上くらいで、すらりとした身体に纏っているスーツもコートも多分上等な物だというのは何となく感じ
た。
(何してるんだろ?)
 携帯で話しているわけでもなく、何かを見ているわけでも無く、人を待っている様子も無い。ただじっと立っている男が何
をしているのか気になった真琴の耳に、不思議な響きの言葉が聞こえた。
 「マオ・・・・・」
男の目線の先には、一匹の野良猫がいた。



 西原真琴は大学2年生の、どこにでもいる普通の青年だった。
いや、女には見間違われないが柔らかい雰囲気を持ち、少し華奢で、目元のホクロがどこか色っぽく感じる・・・・・それで
も飛びぬけた容姿や才能など持っていない、ごく普通の・・・・・大学生のはずだった。

 そんな真琴の生活が一変したのは、もう1年半ほど前、まだ大学に入学して一ヶ月もしない頃だ。
バイト先の客として現れた男によって強姦され、半ば強制的に生活を共にするようになってしまった。男は真琴よりも一回
り以上年上の・・・・・しかも、普通の職業ではない男だった。
 男の名前は海藤貴士(かいどう たかし)、関東最大の広域指定暴力団《大東(だいとう)組》の傘下、《開成かいせ
い)会》の3代目組長・・・・・簡単に言えばヤクザの頭、それが男の肩書きだ。
 始まりは確かに海藤の強引さから始まった関係だったが、今は真琴も海藤に対して深い愛情を抱いている。共に過ご
してきた時間が、日々2人の愛情を強固にしていった。



 「あの、道に迷ってるんですか?え、え~と、 Are you troubled?」
 とことこ近付いていった真琴は、振り返った男の顔を見てあっと声が洩れそうになった。
(すごい・・・・・綺麗な空色の瞳・・・・・)
髪は黒、そして顔立ちも東洋人のように見えるが、明るい街灯の下で見た男の瞳は薄い青い瞳だった。
先程聞こえた言葉が中国語だったような気がしたのだが、もしかしたら間違っていたかもしれない。
(英語、分からなかった?)
 英語が得意という方ではなく、ましてや中国語などほとんど聞き取れない自分は余計なことを言ってしまったかもしれな
い。そう思った真琴は、どうやってこの場を引き返そうか考え始めた。
 「ありがとう」
 「え?」
 一瞬、どこからその言葉が聞こえてきたのか分からなかった。
 「私にそんな優しい言葉を掛けてくれたのは君だけだ」
 「あ、い、いえ」
ようやく、その言葉が目の前の男から発せられたことに気付いた真琴は、たちまち顔を赤くしてしまった。こんなに完璧な日
本語を話せる相手に、拙い英語で話し掛けたことが恥ずかしくてたまらなかったのだ。
 「す、すみません、何も無かったんならいいんですっ」
 「私は日本人に見えなかった?」
 「あ、その・・・・・」
 「・・・・・」
 「う、後ろ姿しか見てないので・・・・・ただ、さっき、猫を見てマオって言ったように聞こえたので、あ、友達に猫にそう名前
をつけた子がいて、それが中国語で猫って意味だって聞いたから、その、中国の人かなとは思ったんですけど、俺、中国
語は話せないので・・・・・」
言い訳のようにそう説明するのも恥ずかしかったが、男は気分を害した様子も無く、穏やかな表情で真琴を見下ろしてい
る。
 「だから、英語で?」
 「へ、変な発音ですみませんっ」
 「いいや、ゆっくりと分かりやすい言葉だった。何より、君が私を気遣ってくれているのがよく伝わったよ。日本人も捨てた
ものじゃないな」
 「・・・・・」
(日本人もって・・・・・じゃあ、やっぱり日本人じゃないのかな)
 真琴の不思議そうな顔が分かったのか、男はクッと笑った。
 「私は中国人だよ」
 「え、でも、日本語上手ですね」
 「ビジネスの為には必要だからね。日本語は色々複雑な言い回しがあるし、きちんと意味を把握しておかなければ後
で困ることになる」
 「はあ・・・・・」
男の言葉に真琴は感心したように頷いた。
世界の言葉の中でも複雑な方だといわれている日本語を、ここまで器用に使いこなすにはかなりの努力が要っただろう。
そういえば、友人である高塚友春(たかつか ともはる)と恋人に近い関係にあるアレッシオという男も、イタリア人だが流
暢な日本語を話す。
彼の場合は母親が日本人らしいが、目の前のこの男も日本人に知り合いがいたからこんなに上手に話せるのだろうか。
 「マコ!」
 ぼんやりと考えていた真琴は、いきなり名前を呼ばれてハッと振り向いた。
 「どうかしたのか?」
店の入口から顔を出して声を掛けてきたのは先輩である古河篤志(こが あつし)だった。
最近店を放火されたという事件もあり(それは海藤の方の関係で、既に解決済みだが)、過保護なほどに心配してくれ
ているのだろう。
 「今戻ります!」
直ぐにそう答えた真琴は、目の前の男に向かって頭を下げた。
 「勘違いして声を掛けてすみません。あの、気をつけてくださいね」
 「ありがとう」
 最近はこの辺りも物騒だという噂もある。目の前の男が観光中にしろ、人と待ち合わせているにしろ、一応一言声を
掛けて真琴は店に戻った。
 「あの男は?」
 「もしかして何か困ってるかなと思って声を掛けたんですけど、大丈夫な感じでした」
 「人に親切にするのはいいことだけどな、知らない相手に対する時は気をつけるんだぞ?」
 「はい」
(古河さん、兄さん達みたい)
心配されることはくすぐったいくらいに嬉しいが、先程の男に再び会うことなど有りえない。
綺麗な青い瞳と優しい微笑みは印象に残ったものの、真琴は直ぐにこの後迎えに来てくれるはずの海老原の方へと思
考を向けた。
(早く電話しないと、また待たせちゃうな)





 店に戻っていく青年の後ろ姿を見送りながら、男はポツンと呟いた。
 「マコ・・・・・」
どういった字を書くのだろう・・・・・ふと、そう思った。
数多く行き交う人間の中、金や体目当てで声を掛けてくる人間とは違い、純粋に心配して(よほど頼りなく見えたのだろ
うか)声を掛けてくれたのは今の青年ただ1人だった。
 しばらく、その青年が消えた店に視線を向けていた男は、直ぐ側の車道に車が止まり、中から男が出てきても振り向か
なかった。
 『遅くなって申し訳ありません、ジュウ』
 『ウォン、お前が遅れてきたおかげで、思い掛けなく綺麗なものを見た』
 『綺麗?』
 『あれはトウゥだな』
 本来、数分でも遅れてしまったことを(それが事故の渋滞のせいでも)かなりの叱咤を受けても仕方がないところを、男
は上機嫌のまま開かれた車の後部座席に乗り込む。
ドアが閉まるまで頭を下げ続けたウォンは、俯いた視線のまま僅かに眉を顰めた。
(綺麗な兎?何のことだ・・・・・?)






                                      






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