異国の癒す存在
1
『』は中国語です。
制服を着替えた真琴は、慌てて店の裏口から外に飛び出した。
午後11時15分。なぜか他のバイト仲間よりも先に帰される真琴は(自分が皆に色んな意味で心配されているのには
気付いていない)、タイミングを合わせるように止まった車を見てほっと安堵した。
「真琴さん」
運転席から出てきたのは、真琴の護衛兼運転手の海老原康哉(えびはら こうや)だ。
先日、海藤の理事選絡みで負傷した海老原。本人や綾辻、倉橋などはもう心配いらないと言うが、真琴は自分の代
わりのように怪我をしてしまった海老原のことが気になって仕方が無く、既に自分の運転手に戻ってしまった海老原がちゃ
んと運転して目の前に現れるとほっと安心するのだ。
「何かありませんでしたか?」
「え?」
しかし、珍しく表情を硬くした海老原はいきなりそう聞いてきた。
何のことか分からない真琴は首を傾げる。
「何かって・・・・・?」
「そこで事故があったようなんですが」
「事故?・・・・・あ」
(あの人の知り合いとか・・・・・)
真琴の脳裏に、先程会った男の姿が思い浮かんだ。
人を待っていたようには見えなかったが、あんな場所で1人で外国人が(日本語は堪能だったが)立っていたのだ。
「真琴さんっ?」
真琴は踵を返して、店の正面である表通りに向かった。
(・・・・・いない)
あれから30分近くは経っているのでいる方がおかしいかもしれないなと真琴が思っていると、後を追い掛けてきた海老原
が周囲を素早く見回しながら言った。
「何かあったんですね?」
「あったっていうか、さっき店の前に男の人が立ってて。どうしたかと思って声を掛けたから、もしかして今の事故の関係者
かなと思っちゃったんです」
「男?どんな?」
「どんなって・・・・・日本語の上手な中国の人ですよ。あ、目がすっごく綺麗なブルーでした」
「青い目の中国人・・・・・真琴さん、帰りましょう」
「え?どうしたんですか、海老原さん」
「あんまり外にいると風邪をひきますしね」
「過保護ですよ」
真琴は笑ってそう言い返し、海老原もそれ以降は何時もの調子で話し掛けてくれたが、その目が何時に無く厳しいこと
には真琴は気付くことが出来なかった。
「青い目の中国人?」
海藤は車の中で視線を落としていた書類から顔を上げた。
今日は秘書的役割をしてくれている開成会幹部の倉橋克己(くらはし かつみ)ではなく、なぜかもう1人の幹部である
綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)が助手席に座っていた。
海藤の帰宅前に掛かってきた電話に綾辻が出て、その後いきなり倉橋に役目を交代と言ったのだが、海藤はそれに何
か意味があるような気がして黙っていた。
どうやって倉橋を説得したのかは分からないが、綾辻はこうして車の助手席に座っていて、車が走り出してしばらくして
海藤に電話の内容を話した。
「そうです、マコちゃんがバイト先で会ったようで」
「・・・・・それは」
「香港伍合会(ほんこんごごうかい)のロンタウ(龍頭))に間違いないでしょうね、影武者じゃなければ」
開成会の母体組織である大東組が手を結んだとされる中国マフィア。その中の頂点に立つのが龍頭大哥と呼ばれる存
在だった。
中国や香港の黒社会ではかなりの力を持つとされるその人物がどういった前歴を持ち、どんな容貌をしているかは全く
知られてはいない。それは中国の黒社会といわれる特殊な状況もあるかもしれないが。
「確か、5年位前に代替わりしたという噂を聞いたが」
「ええ。確か70を越す爺さんだったらしいですよ。ただ、平穏な代替わりじゃなく、下克上みたいなものだったらしいです
ね。その爺さん、30年近くロンタウの地位にいたらしいんですが、終わりの頃になったらかなり私利私欲に走ったらしくて。
その結果、部下が一致団結して倒したって話です」
「・・・・・」
「新しくロンタウになった人物はほとんど外に顔を知られていません。60代とも20代とも、年齢さえはっきりしていない。
ただ・・・・・」
「青い目を持つ鷲と言われていたんだったな」
「ブルーイーグル。まあ、そのまんまですが、狙った獲物は殺してでも奪うと言われていますね」
「お前、どこから情報を得た?」
「広く浅く、知り合いはいるので。エビにちらっと話してたんですが、役に立ちましたね」
ふふっと笑ってはいるものの、綾辻の目は強い光を帯びている。
海藤は目を閉じた。
(本当に・・・・・この日本にいるのか?)
大東組と実質交渉しているのは、No.2とも3とも言われるウォンという男だ。実際、海藤は別件でそのウォンには会って
いる。まだ若いといってもいい年齢であったし、別件が別件だったので、海藤の印象としてはそれほど恐ろしいという感じ
はしなかった。
ただ、ロンタウと言われている男のことはほとんどと言っていいほど情報が入ってこないので、どう対応していいのかも分から
ないのが現状だ。
真琴が嘘を付いているわけがないことは分かるので、《青い目》の《中国人》だという男に会ったことは事実だろう。
それでも、その目がコンタクトだという可能性はあるし、中国人と言ったのも・・・・・。
「社長」
「・・・・・」
「まだ、その可能性がってことですよ。エビはマコちゃんの周りに変わった気配は無かったと言っているし、その男に声を掛
けたのもマコちゃんの方からのようだし」
「・・・・・」
「気のせいかも知れません」
「・・・・・お前が倉橋を置いてきたのはなぜだ?」
思いも寄らなかった質問だったのか、綾辻はらしくも無く一瞬目を見張った。
しかし、直ぐに気を取り直したのか、わざわざ身を乗り出して後ろの海藤を振り返った。
「克己は心配性だから、可能性だけでも動くじゃないですか。こんな夜中から調べ事をしてたら徹夜になっちゃいますよ」
「過保護だな」
「お互い様です」
インターホンが鳴った。
玄関先でこれを鳴らすのはごく限られた人間であることは分かっているが、勝手に鍵は開けてはならないと強く言い含めら
れていた。
どんなにセキュリティーを強化したとしても、100パーセントということは無い。先日の銃撃事件のこともあるので(海老原
が撃たれたのはこのマンションではないのだが)、真琴はその海藤の心配を過剰なものだといって笑い飛ばすことは出来な
かった。
それでも玄関先まで出迎えに行った真琴は、ドアが開くのをじっと待つ。
やがて、微かな音がしたかと思うと、ドアが開かれて・・・・・。
「お帰りなさい」
「ただいま」
目を細めて笑みを向けてくれた海藤に、真琴はにっこりと笑って言った。
遅くなったら先に寝てていいと言われているが、出来るだけ挨拶は顔を見て伝えたいと思っているので、真琴は起きていら
れる限りは海藤の帰りを待つことにしていた。
「風邪を引くぞ」
海藤はパジャマ姿の真琴を見て、少し諌めるように言う。
それでもその声が柔らかいと感じるのは真琴の気のせいだけではないだろう。
「大丈夫、ちゃんとこれ着てますから」
「・・・・・」
真琴はパジャマの上から半纏を羽織っていた。実家から送られてきたそれは4着で、真琴と海藤の分と、この間帰省した
時に同行した綾辻と倉橋の分だ。
真琴は自分はともかく、都会的な大人の男である3人には似合わないと思ったのだが、綾辻は歓声を上げて喜んでくれ
たし、倉橋も恐縮しながら受け取ってくれ、海藤も時折・・・・・着てくれていた。
「ね?」
「温そうだ」
「海藤さんも、早くお風呂に入って温もって下さい」
真琴が海藤の腕を引っ張りながらそう言うと、真琴と海藤が名前を呼ぶ。
えっと振り向いた真琴の唇にそっと触れた海藤の唇は少し冷たかったものの、真琴は心の中までほっこりと温まったような
気がした。
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