Love Song
第 2 節 Modulation
18
隆之と太一がアコースティックギターを持って椅子に腰かけ、裕人がピアノの前に座った時、観客の驚いたようなざわめきが会
場内を包んだ。最近のステージで隆之がギターを弾くのはあまりなかったからだ。
だが、イントロが始まった時、あれほどの人数がいる会場内が静まった。
(始まった・・・・・)
初音の中で【GAZEL】が特別になったあの曲。それから間もなく、ライブでもテレビでも演奏されることがなくなった大好きな曲。
ファインダー越しに、初音は一心に隆之を見つめた。
「・・・・・え?」
その時、隆之と目が合った気がしたのは気のせいだろうか。ステージ上の隆之が、薄暗く、何万人もの中で初音のいる場所が
わかるはずがないのに、それでも初音はそんな気がしてしまった。
顔が燃えるように熱くなったかと思った次の瞬間、甘く切ない隆之の歌声が耳に届いた。
『恋が降る日』
それは【GAZEL】のごく初期の曲で、メロディーも歌詞もどこか青臭く、直接的な言葉が多い。しかし、だからこそ胸の奥に響く
ものがあった。
(これで、本当に【GAZEL】が好きになったんだよな)
正直、【GAZEL】がここまで国民的なバンドになるとは思わなかった。いや、どちらかと言えばなって欲しくないと思っていた。彼
らのことを知っているのは自分だけでいい、初期のファンだけが彼らを支えていけばなんて、考えたら何と傲慢な思いだろうか。
結局、【GAZEL】は見る間に人気を得て、今ではライブチケットを取るのが日本一難しいと言われている。取材という名目でこうし
て苦労もなくステージを見ることが申し訳ないくらいだ。
「・・・・・」
特に、今隆之が歌ってくれている曲は、昔からのファンの中でもかなりレアなものとして、いつ聞けるか長い間待ち望んでいたも
のだ。
取材をしなければならないのに、耳に届く隆之の優しい歌声にただただ酔っていたい。
それは会場にいるファンたちも同じようで手拍子もなく、合わせて歌う声もなく、隆之の声とギターとピアノの音に耳を傾けている。
とても不思議で、それでいて泣きそうになるほど幸せな時間だった。
『好きになって欲しいのに 言葉にすることができない
恋なんてとても簡単で 誰にでもできるものだと思っていたのに』
久しぶりに口にする歌詞は、それを作った時とはまるで違った想いが込められる。
(あの時は、特定の誰かを思い浮かべることなんてなかった・・・・・)
奥手とまでは言いたくないが、誰かと付き合うよりもバンド活動の方が楽しくて、想像上の理想の恋を思うままに歌っていた。そ
れでも、隆之にとってもこの曲は初めて自分が深く携わったので、思い入れは大きかった。
その曲を、初音は好きだと言ってくれた。
初音と出会うことができたのも、この曲のおかげだ。だとしたら・・・・・。
『想いが降る 恋が心の中に落ちてくる
誰を想っているのか泣く君を ただ見ていることしかできない』
好きな相手を強引に手に入れようとするような性格ではなかったはずが、ただ見ているだけでは収まらない想いというのが自分
の中にあることに驚くばかりだ。
(今の俺は、見守るだけじゃない)
『好きだという想いが溢れた時 唐突に恋が降ってくる
君にも恋が 降ってくればいいのに
僕を恋する想いが 降ればいいのに』
薄暗い会場の中で、初音がどこにいるのかわからない。どのあたりで取材をするのかは聞いていたが、それでも個々の顔を判
別するのはこの人数の中では難しい。
それなのに、今の隆之には初音の顔が見えている気がした。好きだと言ってくれたこの歌を聞きながら、初音は笑っているのか、
それとも・・・・・。
(俺が側にいない時に泣かないで)
間奏に入り、マイクから離れた隆之がふっと息を吐く。視線を隣にやれば太一と目が合って、なぜか楽しげに微笑まれてしまっ
た。もしかしたら太一には、自分が誰のことを考えて歌っているのか伝わっているのだろうか?・・・・・そう思うと、敏い裕人にばバ
レバレだ。
ライブ中に他のことを考えているなんて叱られそうだが、今だけは自分の自由にしたい。
隆之は再びマイクに向かった。
『恋が降る日』
演奏が終わっても、すぐには拍手も何もなかった。しかし、三人が立ち上がって頭を下げた途端、割れるような拍手と凄まじい
歓声が飛び交う。
もちろん、初音も一生懸命拍手した。隆之の名を叫ぶことはできないので、想いを込めて手を叩いた。
「おい」
「え?」
「ちゃんと撮ったか?」
「へ?」
再度、臼井にそう言われ、初音は一瞬間を置いてからあっと青褪めた。
『恋が降る日』の演奏が始まる前に臼井に注意され、ちゃんとファインダー越しにステージを見ながらシャッターを押した。そう、確
かに数回押したが、その後はずっと歌に聞き入ってしまい、写真を撮ることを忘れてしまっていたのだ。
「すっ、すみませんっ」
取り返しのつかない失敗に、初音はとにかく謝った。その声と勢いに周りが何事かと振り向いたが、今は恥ずかしさなど感じる
暇もない。
(ど、どうしよっ)
撮り直しなんてできない。この先、もしもまたこの歌を歌ってくれたとしても、二度と《今》のステージを再現できない。
土下座の勢いで謝罪する初音の頭上で、臼井の溜め息が聞こえる。きゅうっと身が縮む思いでいると、ぐしゃっと頭が鷲掴みに
されるようにして髪を撫でられた。
「撮った」
「え・・・・・」
「多分、こうなると思ってな。お前のこの歌に対する思い入れは半端なかったし」
「臼井さんっ」
「ライブはまだ終わってないぞ。この先はちゃんと仕事しろ」
「はいっ」
写真を撮ることも忘れて歌に聞き入っていた自分は社会人として失格だ。それなのに、臼井はこの曲に対する初音の思いを尊
重してくれて、雑誌記者としての立場を忘れることを許してくれた。
だが、それもこの曲だけだと念押しをされ、初音は気持ちを入れ替える。写真はもう臼井に任せるが、今日のライブの感動を来
れなかったファンたちに伝えるためにもしっかりとこの目で見、耳で聞いて記事を書かなければ。
初音はしっかりとペンを握りしめた。
そして、ライブは終わった。
合計三時間、あっという間だったが、とても濃密な時間のように思えた。
臼井の注意からは初音もライブ全体に目を向け、びっしりとメモをとった。本当は目で見てもらうのが一番だとわかっているが、
自分が書いた記事でその熱を少しでも感じてもらえればいい。
余韻はまだ会場内に残っていて、誰もかれもが口々に楽しげに、興奮しながら感想を言い合っていた。その中の何人かに初音
はインタビューしたが、彼女たちの多くは『恋が降る日』のことを口にする。
「ギターとピアノだけっていうのが良かったよねっ」
「タカ、ギターうまかったし」
「声がさ、色っぽくってドキドキしちゃった。まるで自分に向かって告白されたみたいでさ〜」
「また聞きたいよぉ〜」
「でも、次いつやってくれるかわかんないじゃん」
どの感想も、思わずうんうんと頷きたくなってしまうほど同意できるもので、初音も思わず頬が緩んでしまった。同じファンとして
この後何時間でも話していたいが、さすがにできなくてなんとか感情を抑える。
「どうもありがとうございます」
記事が書けるほどのインタビューを終え、初音は臼井と共に今度はロビーにも移動し、そこでも取材をする。何万人という観客
がすべて会場から出るにはまだまだ時間は掛かりそうだ。
「じゃあ、楽屋に行くか」
臼井に言われ、初音は一瞬躊躇った。感動したまま、その張本人である三人に会えるのはファンとして至上の幸福だが、一方
で隆之にどう声をかけていいのかわからなかったのだ。
(そのまま、言ってもいいのかな)
歌を聞いて、どう思ったか。
凄くて、感動して、本当に演奏してくれて嬉しかった・・・・・それだけで?
「行くぞ」
「あ、はいっ」
気持ちは揺れたまま、初音は楽屋に向かった。通路には多くのスタッフが行き来していて、こちらもまだ興奮が収まっていない
ようだ。
「あ」
ちょうどそこへ、上半身裸の太一が現れた。どうやらシャワーを浴びてきたらしい。
「初音ちゃん、今日は御苦労さま」
「い、いえ、お疲れ様です」
太一はライブ直後だというのに疲れた様子も見せない。
「どうだった?」
「す、凄く良かったです!もうっ、本当にあのっ、凄くてっ・・・・・えっとっ」
文字を書く仕事をしているというのに、どうしてこんな時に限って自分の語彙は少ないのだろう。情けなくて顔中が熱くなってし
まったが、どうやら太一はそんな初音の言葉だけでも気持ちを察してくれたらしい、とても嬉しそうに笑いながら照れくさそうに頭
をかいた。
「ありがと。そんなふうに思ってくれて、俺たちも嬉しい」
そう言って、目の前のドアを指し示す。
「タカが待ってるよ」
「・・・・・っ」
なんだか物凄いプレッシャーを感じて、初音の頬は引き攣ってしまった。
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