前編
真琴は目の前の弁当箱の蓋を開け、思わず歓声を上げてしまった。
「うわ〜っ、おいしそー!」
その中には、ウインナーにハンバーグ、ポテトサラダ、色とりどりの小さなおにぎり。それに、別の容器には初物のスイカ
まであって、真琴はちょっとしたお子様ランチを前にした気分だ。
見た目も楽しく、もちろん味も保証付きの弁当を前に顔を綻ばせたまま顔を上げた真琴は、
(・・・・・まだ、難しい顔してる)
目の前の深刻そうな表情をしている相手を見て苦笑してしまった。
「どうしたんです?お弁当、見てみないんですか?」
「・・・・・真琴さん」
「綾辻さんも料理上手ですもんね。どんなものを作っているのかすごく楽しみなんですけど」
そう言えば、目の前の相手・・・・・倉橋は複雑そうに眉間の皺を深くする。
「やっぱり、私は」
「駄目ですよ」
「・・・・・」
「せっかく、海藤さんと綾辻さんが俺達に休みを取るように言ってくれたんですから。今日は子供達も2人に任せて、俺
達はのんびりとしましょうよ」
もう、何度も同じことを繰り返すが、元々生真面目な倉橋は《休養する》ということに抵抗を抱いているらしい。
(俺だって、たかちゃんのこと、心配だけど・・・・・)
何時も子育てを手伝ってくれる海藤に貴央を任せても安心だと分かってはいたが、それでもこんなに長い時間離れてい
るのは心配だし、何より寂しい。
それでも、せっかく2人が自分たちのために時間を作ってくれたのだ。その気持ちに応えたいという気持ちも強かった。
「ね、倉橋さん」
真琴が重ねて言えば、倉橋はほうっと息をついてから大きな弁当箱の蓋を開ける。
「・・・・・何を考えてるんだっ」
魚の照り焼きに、ハスの煮物。白和えと煮豆。
倉橋の好む和食のおかずの反対側にある白飯の上には、桜でんぶで描かれた大きなハートマークがある。
「すごい・・・・・」
「・・・・・っ」
「そ、外じゃ無くて良かったですね」
(ほ、他の人に見られたら、少し・・・・・恥ずかしいかも)
悪戯好きの綾辻が作りそうな弁当だ。
顔を真っ赤にしている倉橋は怒っているのかもしれないが、それ以上に嬉しく感じていると思う。
真琴は窓の外を見つめ、今頃は公園で遊んでいるはずの二組の父親と子供の姿を想像して・・・・・笑った。
「・・・・・はぁ〜」
洗濯物を畳んでいた真琴は、手を止めて大きな息をついた。
毎日の家事に、暴れまわる幼稚園児の子供の相手。
もちろん、海藤のサポートも大きく、かなり助かってはいるが、日々の小さな疲れは解消されないまま蓄積されているらし
い。
そして、そんな真琴を海藤は良く見てくれていた。
「真琴、後は俺がするから」
「大丈夫ですよ」
大学に通って育児をしているとはいえ、真琴よりも海藤の方が多忙で大変だというのは良く分かっている。
その海藤に帰ってまで家事をさせることは出来ないと、真琴は心配そうに自分を見つめてくる海藤に向かって笑みを向け
ると、再び手を動かし始めた。
一方・・・・・。
「み、克己」
「・・・・・っ、あ、やつじ、さん」
倉橋は何度も自分を呼ぶ綾辻の声に直ぐ様意識を浮上させた。
ここは開成会の事務所で、今はパソコンを開いて今日の部下たちの報告をまとめていたはずだった。だが、何時の間にか
眠ってしまっていたようだ。
「すみません」
「そんなこといいけど・・・・・ねえ、少し仮眠を取ってきたら?後は私がやっておくから」
「いいえ、これは私の仕事ですので」
そうでなくても、出仕事は倉橋に代わって綾辻がほとんどしてくれていて、自分は内勤をさせてもらっているのだ、これ以
上は絶対に迷惑をかけたくない。
「克己〜」
「それに、もう直ぐ終わりますから」
一時間以内に仕事を済ませ、その後は優希の夕飯の支度をして。
やらなければならないことは沢山あると、倉橋は気持ちを切り替えてパソコンに向かった。
「休み?」
「・・・・・ですか?」
それから間もなく、開成会の事務所に遊びに来た真琴は、海藤と綾辻から突然そんな話を聞かされた。
隣にいる倉橋も初めて聞かされたのか、珍しく驚いたように目を瞠っている。
「そーよ。明後日の日曜、マコちゃんと克己にはお休みをあげるから、一日のんびりとして頂戴」
「の、のんびりっていっても・・・・・」
真琴が倉橋を見ると、倉橋は直ぐにそんなことは出来ませんと断った。
「優希を一日あなたに任せるなんて・・・・・」
「私が信用できない?」
綾辻が顔を覗き込むように言うと、倉橋は顔を反らしながら少し早口に言い訳を告げる。
「そういう問題ではありません。育児は私の義務ですし、普段あなたにも社長にもご迷惑ばかりかけているのに、わざわ
ざ休みを頂くことなど出来ません」
それは、真琴も同じ気持ちだった。いや、倉橋以上に、申し訳ない気持ちを抱いていた。
すると、綾辻は芝居じみた大きな溜め息をついてから、それまで黙っていた海藤を振り返る。
「社長〜、やっぱりここはあなたに言ってもらわないといけないみたいですよ」
「あ、綾辻さんっ」
(海藤さんが言ったら、絶対にうんって言っちゃうよっ)
自分も、そして倉橋も、ここは頷く以外の選択が無くなってしまう予感がしていた。
(結局、海藤さんに説得されて、今日休むことになったんだよな〜)
海藤手作りの弁当を食べながら、真琴は美味しいと小さく呟く。目の前の倉橋はまだ弁当を見下ろしていたが、きっと
もうじき手をつけるはずだ。
「倉橋さん」
「はい」
「ご飯を食べて、ゆっくりして・・・・・。それから、公園に行きませんか?」
「え・・・・・ですが・・・・・」
海藤と約束したことを考え、ここは絶対に何もしないで休まなければならないという使命感を抱いているのだろうが、そん
なふうに無理矢理休んだ所で少しも身体や心の癒しにはならないはずだ。
それよりも・・・・・。
「俺はたかちゃんや海藤さんと一緒に遊ぶことが一番のリラックスした時間なんです。倉橋さんはどうですか?」
真琴の言葉に、倉橋は少しして口元に笑みを浮かべる。
「確かに、今日はせっかく頂いた休みなんですから、私が一番したいことをさせてもらいましょう」
「はいっ」
なんだか、途端にワクワクした。
自分たちが行ったら、2人はどんな顔をするだろうか?・・・・・いや、もしかしたら、自分たちが行くことまで想像しているか
もしれないが、それならそれでも構わなかった。
「じゃあ、食べちゃいましょ」
「はい」
ようやく気持ちが落ち着いて、真琴と倉橋は弁当を口にする。
本当に美味しくて、美味しくて。でも、皆が揃っている方がもっともっと美味しかったと思う。
(今度は、みんなで一緒に出掛けよう)
「ほら〜、ゆうちゃん、こっちよ〜」
両手を大きく広げる綾辻に向かい、優希はヨロヨロと不安定な足取りで近付いて行こうとするが、まだまだ歩くという段
階ではなくて、直ぐに尻もちをつく。
下が芝生なので痛くは無いはずだが、自分の思うように身体が動かないのが不満なのか顔をぐしゃっと歪めた。
「うぅ〜」
「どうしたの、ゆうちゃん?」
「ゆーちゃん、こっち!」
すると、綾辻の直ぐ横で優希を呼ぶ声が聞こえてくる。まだ甲高い子供の声で名前を呼ばれ、優希は直ぐさまその主
に向かって這い始めた。
ようやく立つことを覚えた優希は最近は頻繁に歩くことに挑戦していた(ほとんど失敗する)が、多分この声の主には一刻
も早く近付きたくて這っているのだろう。現金というか、それだけ相手・・・・・貴央のことが好きなのか。
(パパ、ちょっと嫉妬しちゃいそう)
「ゆーちゃん!」
「たーちゃ!」
ようやく言葉になり始めたくらいなのに、貴央の名前はそれと分かるように発音をしていた。いったい、何時覚えたのか
と、常に側にいたはずの綾辻も不思議だった。
「社長」
「どうした?」
「・・・・・私、たかちゃんに負けてます?」
そうでなくても、家では優希の一番は倉橋だ。母親がその立場にいるのは仕方がないと諦めもつくが、今から他の男に
負けるとはまるで娘を持ったような気分になってしまう。
「・・・・・多分な」
そんな綾辻の気持ちを十二分に分かっているだろうに、海藤は笑いながらそんなことを言った。
「ひど〜い!」
泣き真似をすれば、貴央が直ぐにどうしたのと顔を覗きこんでくれる。すると、必然的に優希も綾辻に近付いて来て、
意図しないままその身体を抱きしめることが出来た。
「もう、まだまだパパが一番よ、ね?」
甘い声で囁くと、なぜか周りから歓声が湧く。
広い公園だというのに、何時の間にか自分たちの周りには遠巻きにギャラリーが出来ていた。今更それを気にすることも
無いが、あまり側に寄られても困る。テレビの中の芸能人を見るような距離でいいのだ。
(・・・・・だけど)
綾辻はチラッと再び海藤に視線を向けた。
シャツにジーンズという、ごくシンプルな出で立ちながら、身にまとうオーラが半端でなく強い海藤に近付く勇気はなかなか
ないはずだ。
もちろん、ここから姿は見えないもののガードの人間も付けてあるし、こんな日曜の午後の平和な公園で何かがあるとい
うことも考え難い。
(私たちみたいな人間が公園で子供の散歩なんて・・・・・ホント、笑っちゃう)
もちろん、それはとても幸せな時間であることには間違いがなかった。
自分の傍まで這ってきた優希の身体を抱きしめていた貴央は、そのまま抱っこしようとしたのだろう、優希の脇に両手を
やったがどうにも力が足りないらしい。
「うーっ、う〜んっ」
まだ、自身も幼稚園に入園したばかりだというのに、もうすっかりお兄さん気分だ。
元々、優希が赤ん坊の頃から顔を合わせ、よく一緒に遊んでいる優希のことを本当の弟のように思っているのかもしれな
い。
「お、おとーさん!」
とうとう、自分ではどうしようも出来ないと悟ったらしい貴央が海藤を呼んだ。
海藤は歩み寄ると、優希を抱きしめたまま尻もちをついた格好でいる貴央の横に片膝をつく。
「どうした?」
「ゆーちゃん、おもい!」
「抱くつもりか?だが、お前にはまだ無理だ。このまま抱き上げることが出来たとしても、直ぐに腕から落としてしまうぞ?
優希が怪我をしたら嫌だろう?」
ただ駄目だというよりも、きちんと説明して納得をさせる。幼稚園児の貴央がどこまで納得出来ているかは分からないも
のの、それでも我を通すほどに貴央は我が儘な子供ではなかった。
「・・・・・ゆーちゃん、ごめんね?」
抱くことが出来ないと貴央が謝ると、優希は小さな手を伸ばしてぺチぺチと貴央の頬を叩いた。痛くは無いだろうが、突
然のことに貴央は目をパチパチとさせている。
「ゆーちゃん?」
「たーちゃ」
「抱っこできなくてもいいって言ってるのよ」
「ほんと?」
ついさっきまで、優希に振られたと嘆いていた綾辻は、笑いながら貴央の髪をクシャッと撫でると、そのまま優希の腰を
抱いて立ちあがらせて貴央に抱きつかせた。
途端に優希は笑い、貴央も戸惑った表情から嬉しそうな顔になる。
「本当に仲がいいんだから」
「真琴と倉橋の仲がいいからじゃないか?」
母親同士が友人のような関係なら、その子供達も同じような関係性になるのかもしれない。
海藤も貴央と優希の頭を撫でてやると、近くに置いていた鞄の中から水筒を取り出す。初夏の日差しはまだ暑いという
ほどではないが、きちんと水分を取らせなければならない。
「貴央、飲みなさい」
「は〜い!ゆーちゃんも、のむ?」
「む〜」
「綾辻」
視線を向けると、既に綾辻も鞄から水筒を取り出していた。
見掛けは派手なモデルのような容姿をしていても、綾辻は立派な父親だ。まだ貴央に抱きついたまま離れようとしない優
希を軽々と抱き上げ、嫌がるそぶりを見せる前に口にストローを入れた。
「す〜って、飲むのよ?」
「うちの王子様、肺活量がちょーっと少ないんですよね〜」
同じ歳の子供よりも二周り近く小さな優希は、貴央以上に何もかも平均よりも少ないし、弱い。
ストローで飲み物を吸うという力もまだまだで、本当なら口元までスプーンで飲ませる方が早いだろうが、綾辻は優希を甘
やかすことはしない。
いや、一方では本当に甘いが、必要以上に過保護にはならなかった。
「ぶぶぅ」
「ふふ、それは息を吐いちゃってるのよ。ゆうちゃん、ほら、すーって、ね?」
息を吸うと、吐く。まだその感覚を完全に自分のものにしていない優希が茶を飲むのも一苦労だし、時間もかかるが、綾
辻は根気よく付き合っている。
そして、海藤もまた、そんな2人に苛立つことも無く、目を細めてその光景を見つめていた。
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