後編
昼食を済ませ、目の前で貴央と優希がじゃれ合う姿を見ていた海藤は、ふと視界の中に這ってくる赤ん坊の姿を見付
けた。優希よりもまだ幼い、多分一歳になるかならないかの年頃だろう。真っ黒の丸い瞳が昔の貴央を思い出し、海藤
は思わず笑みを浮かべて手を差し出した。
「おいで」
「あ〜」
どうやら人見知りをしないらしい赤ん坊は、嬉しそうに海藤の手の中にやってくる。軽いその身体を抱き上げた時、すみ
ませんと焦ったような声がした。
「まこちゃんっ」
「・・・・・まこ?」
駆け寄ってきた若い母親は、海藤が視線を向けると顔を赤くして動きを止める。
腕の中の赤ん坊は母親の方へ行こうとはせず、海藤の腕の中で声をあげて笑っていた。
「名前は何と言うんですか?」
《まこ》という呼び方なら名前はかなり限定される。海藤がまさかと思って訊ねれば、母親はうわずった声で《誠》ですと
答えてくれた。誠実の誠で《まこと》。
「そうか・・・・・誠君」
たったそれだけの類似点だが、急速に親近感が湧いてきた。そんな海藤のガードが緩んだのを感じ取ったのか、今ま
で遠巻きでこちらを見ていた母親たちが子供を連れて近寄ってくる。
「何回かこの公園で見掛けたんですけど、近所に住まわれてるんですか?」
「可愛いですね、お子さんは1人?」
「こっちの子は女の子みたい」
「さっきのお弁当、奥さんが作ったんですか?」
「子育てに積極的な旦那って、奥さんが羨ましい〜」
「・・・・・」
たて続けに話し掛けられたが、海藤はまともに返事をしていない。それでも、視線を向けるだけでも満足なのか、母親
たちは勝手に盛り上がった。
どうするという思いで綾辻を見れば、既に周りには何人もの母親たちに張り付かれ、それでも楽しそうに子育ての情報
を話している。
(・・・・・どんな時でも、マイペースな奴だな)
女相手に無駄話をするという経験が海藤には無い。
過去、真琴と出会う前に周りにいた女たちのことは、たんなる性欲の処理としてしか見ることなどなかった。相手が自分に
対し、どんな感情を抱いているかなども知らなかったし、知る必要もなかった。
反面、綾辻は特別な相手もいなければ、女をただ抱くだけの相手だとは見ていなかったようだ。
関係を持った誰もが、綾辻と別れた後もその悪口を言わなかったらしいと組員が言っていたことを思い出す。
(それが、ここでも生かされているということか)
綾辻の内面がけして綺麗なだけだとは海藤も思っておらず、それを上手に隠す術を持つほどには一癖も二癖もある男
だと認識していた。
「あのっ、うちの子も抱いてもらっていいですかっ?」
許してもらうというより、もう子供を人形のように前へと差し出している母親の姿に、綾辻は傍から見ているだけでも笑
みが零れた。
一見して、怖いほどに整った容姿の海藤は子供に敬遠されるように思われがちだが、我が子である貴央と同様、優希も
とても懐いている。冷たい雰囲気が子供には通用しないのか、それとも、もうそんな雰囲気は消えてしまったのか・・・・・。
「あの、奥さんはどうされたんです?」
海藤よりもさらに話しやすいのか、綾辻の周りにはかなり若い母親たちが集まっている。メイクも服装も、とても母親に
は見えないのに、抱いている手の爪が綺麗に切られている母親が多いことに綾辻は笑った。
「今日は、奥さんのお休みの日なの」
「お休み?」
「何時も子育てや仕事でいっぱいいっぱいだから、たまにはお休みして欲しいなって思って」
途端に、いいな〜っと歓声が湧く。口々に羨ましいと言い、うちのだんなとは大違いと文句も出てくるが、その言葉の中
にはあまり嫌味は感じられなかった。
「どんな奥さん?」
1人が、興味深そうに聞いてくると、それまで煩かった周りが急に静かになる。そんなに自分のパートナーに興味がある
のかと呆れる半面、綾辻は女から自分がどういうふうに見られているのかを知っていた。
(ここはうんと自慢しちゃわないと)
「私のパートナーは、とっても美人よ〜」
やっぱりねえと、感嘆とも諦めともつかない溜め息が聞こえて、綾辻は思わず笑ってしまう。
「それに、とっても真面目で、融通が利かなくって、怒りっぽいの」
「え?」
「でも、信じている相手に対してはすっごく可愛いのよね〜。その可愛さが私だけに向けられちゃわないことが悔しいくら
い」
ここにいる母親たちは倉橋のことを知らない。この先、絶対に会わないとは言えないが、それでも、自分たちの人生にただ
通り過ぎるだけの第三者に、倉橋の素晴らしさを言葉を大にして説いてしまったのは・・・・・やはり惚気たかったのかもし
れなかった。
「綾辻さんって、何時もそんな言葉使いなんですか?」
「あら、やだ、そうよ?似合わない?」
「似合わないって言うか・・・・・」
顔に似合わない話し方と思われてもまったく構わない。
(むしろ、これで引いてもらったら助かるんだけどね)
にこにこ笑う綾辻の裏の顔に気づいたのかどうか、母親たちが顔を見合わせている。
(そろそろ、場所を変えた方がいいかしら)
そう思った綾辻が海藤に声をかけようと思った時だった。
「・・・・・あ」
公園の入口に、すらりと細い姿が見えた。
「ふふ」
「あ、あの?」
急に笑い始めた綾辻に、先程質問をしてきた母親が戸惑ったように声を掛けてくる。その相手に向かい、綾辻は蕩ける
ような笑みを向けた。
「私の最愛のパートナーが来てくれたみたい」
今日は1日ゆっくりと、昼食も手作りの弁当を食べて欲しい。
日ごろ子育てや家事、そして大学の勉強にと目が回るほど忙しい日々を送っている真琴のことを思って時間をとってやっ
たというのに、どうやら真琴は本当に・・・・・苦労性だ。
「海藤さん!たかちゃん!」
「真琴」
駆け寄ってきた真琴は、周りにいた多くの母親の姿に少し面食らったようだが、子供たちに視線を向けると途端に笑顔に
変わった。子供好きな真琴らしい反応だ。
「マコ!」
「たかちゃん、いっぱい遊んでもらった?」
「うん!」
大好きな真琴が来たことで、今まで優希の傍から離れなかった貴央が小さな手で抱きついていく。
すると、1人にされた優希が途端に泣きだした。
「たーちゃ、たーちゃあ〜」
「優希」
「ま〜ま」
綾辻が抱き上げようとするよりも先に、その身体を抱き上げたのは倉橋だ。
見慣れたスーツ姿ではない、普段着の倉橋は随分と印象が柔らかい。細いフレームの眼鏡も、冷たい美貌を随分変え
ていた。
「ちゃんと世話をしてもらっていたか?」
「や〜ね〜、克己〜。私が大事なゆうちゃんを放っておくわけ無いじゃない」
「・・・・・」
倉橋は無言のまま綾辻を見ていたが、その視線を海藤の方へと向けてくる。
「ご迷惑をお掛けしませんでしたか?」
「いや、ずいぶんと助けてもらった」
「・・・・・そうですか」
海藤の言葉を信じたのかどうか。それでも、海藤の言葉に反論することもなく、倉橋はお世話になりましたと頭を下げた。
本当に真面目な男だと思う。自身のことならばともかく、赤ん坊の我が子のためにこんな風に礼を言うとは。
赤ん坊というものは無条件で守られるべき存在で、貴央も優希もその立場に甘んじていい。そして、自分たちが休んで
いるようにといった真琴と倉橋も、出来れば1日ゆっくりとしてほしかった。
「あまり休めなかったな」
「そんなことありませんよ。すっごくのんびりさせてもらいました、ね、倉橋さん」
真琴が話し掛けると、既にこちらの方に歩み寄ってきていた倉橋が静かにええと頷いた。
「本当に、とてもゆったりとした時間を頂きました、ありがとうございます」
事務所では青白い顔色で仕事をしていた倉橋だが、今日は幾分か頬に赤みがさしている。
本来は仕事自体を休ませてやるのが一番だとわかってはいるが、倉橋が男として世の中とのかかわりを持ちたいと思っ
ているのも理解していた。
だからこそ海藤は、倉橋が少々無理をしても黙って見ぬふりをしていた。倉橋には・・・・・綾辻が付いているからだ。
「多少でも休めたのなら良かった」
「社長・・・・・」
「社長っ?」
しみじみと倉橋が呟いた瞬間、それまで静まり返っていた周りから再び甲高い声が上がる。
(・・・・・ああ、そう言えばここには・・・・・)
母親たちがいたんだと思い出し、海藤は苦笑を零した。
「あなたっ、弟さんっ?あの人、社長さんなのねっ?」
「え、えっと・・・・・」
真琴は弾んだ声で言う若い母親にせき込むように話し掛けられ、戸惑ったように視線を泳がせる。
公園の入口まで来た時に視界の中に一番に入ってきたのは海藤と貴央だったが、気付けば彼や綾辻の周りには多くの
女性たちがいた。
周りの子供たちを見ればそれが母親だというのは分かるが、若く、綺麗に装った母親たちが海藤の周りにいるのは少し、
面白くない。
「だって・・・・・ねえ」
真琴は腰に抱きついている貴央を見下ろした。
「マコ?ぷんぷん?」
真琴が面白くない感情を抱いている時、貴央はそんな風に聞いてくる。幼い我が子に気遣われているというのが申し訳
なくて、真琴は直ぐに腰をかがめて視線を合わすと、大丈夫だよと答えた。
こんな妬きもちは、貴央と遊んでいれば直ぐに忘れることが出来る。
それに・・・・・。
「申し訳ないが、私のパートナーが来たので、これで」
真琴より綺麗な母親たちが周りにいるというのに、海藤の甘やかな視線は真っ直ぐに自分を見つめている。何だかそれ
が照れ臭くて、でも嬉しくて。真琴は向けられる呆けた視線の中で海藤に笑い掛けることが出来た。
優希を抱きしめる倉橋の表情にはなかなか笑顔が浮かばない。そうでなくても泣いている優希に合わせ、こちらも情け
ない気分だった。
「・・・・・ずいぶんと、楽しそうですね」
周りに女をはべらかせた綾辻のにやけた顔が癇に障って仕方がない。海藤と共にいたので変な真似などしてはいない
と思うが、元々遊び好きな綾辻が笑顔の大盤振る舞いをしていないとは言えなかった。
「そうね、結構楽しかったけど」
「・・・・・」
そして、綾辻はさらに倉橋の神経を逆撫でしてくる。その後で・・・・・。
「克己が来たら、もっと楽しくなっちゃった」
「・・・・・」
そんなふうに、自分を喜ばすことを言うのだ。
「克己?」
長身の腰をわざわざ折り曲げ、楽しそうに顔を覗きこんでくる綾辻は人が悪すぎる。
倉橋は顔を逸らしたが、その拍子に興味津々にこちらを見ている母親の1人と目が合った。
「・・・・・こん、にちは」
子供を産み、育てるようになってから、倉橋にも人並みに人と付き合う術というものが備わってきた。特に、出産以降、
母親と呼ばれる者たちとは接触することも多く、割合に落ち着いて会話も出来ると思う。
ただ、たった今綾辻に言われた言葉に動揺したことを誤魔化したくて、短い挨拶も少し口調が固くなってしまった。
「こ、こんにちは!」
「・・・・・?」
(なん、だ?)
訝しげな視線か、それとも怖がられてしまうかもしれないと思ったのに、その母親は顔を赤くしてぼうっとこちらを見つめて
くる。
「あの・・・・・」
どうかしましたかと訊ねようとしたのに、なぜか綾辻がごめんなさいね〜と明るく言いながら倉橋の肩を抱き寄せた。
「これ以上はだめで〜す!」
「あ、綾辻さんっ」
人前でベタベタされるのはどうしても苦手だ。倉橋は顔が熱くなる思いがして逃げようとするが、綾辻は倉橋から手を離そ
うとはしない。
(・・・・・優希を抱いているから、引き離せないんだ)
気持ちとは裏腹に身体が動かなくなった倉橋はそう心の中で断言すると、チロリと綾辻を睨んだ。
真琴と倉橋が来てから、周りにいた母親たちは立ち去っていくと思ったが・・・・・。
「えっ、もう習い事させてるんですかっ?」
「自分からしたいって言いだしたしたのよ。でもこの年頃が一番物事を吸収するって聞いたし。真琴君は?たかちゃんに
何か習わせたいと思ってる?」
「・・・・・その味付けにすれば、好き嫌いが直るんですか?」
「味覚は今の内だったら誤魔化しがきくし。倉橋さんはどんなふうに料理してるんですか?」
「私は・・・・・」
目の前で会話に花を咲かせている真琴と倉橋を見ていた海藤は、隣から聞こえてきた大きな溜め息に振り返った。
「どうした?」
「だって・・・・・せっかくの克己とのデートが〜」
「優希もいるだろう?」
「私たちは3人で一心同体なんです」
わざと怒ったように言っているくせに、綾辻の目元は柔らかく笑んでいる。この状況を言葉ほど厭うてはいないらしい。
それは、海藤も同様だった。普通なら真琴の周りに若い女がいるという状況を歓迎はしないのに、それが母親たちの会
話となると・・・・・違うのだ。
「さっきまでは私たちの方がモテモテだったのに」
「お前もあの輪の中に入ったらどうだ?」
「邪魔したら怒られそうですもの」
多分、その言葉の後に続くのは、《楽しそうだから》という言葉が続くのだろう。
自分から積極的に会話をするという倉橋の姿を見るのは珍しい。
「どうする?」
まだ日は高く、風は心地良い。
「もう少し、良いでしょう?」
「・・・・・そうだな」
今日は真琴と倉橋に休息を取ってもらうつもりだったが、子育て中でもこんな風に生き生きとした表情を見せてもらえるの
なら予定を変更しても良いだろう。
「おとーさんっ、あそぼ!」
貴央が、何人もの子供を引き連れて駆け寄ってきた。
母親たちの井戸端会議の間、父親が出来ることは子守りくらいしかない。
「よし、遊ぶか」
海藤は笑いながら立ち上がると、貴央に手を差し出す。隣では、貴央の側に行きたいとぐずり始めた優希をなだめながら
綾辻も立ち上がっている。
「社長、明日は筋肉痛かもしれませんよ」
綾辻らしいからかいの言葉に目を細めた海藤は、貴央に引っ張られるまま歩き始めた。
日曜の午後は、まだまだ長い。
end
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