磨く牙
プロローグ
「坊っちゃん、今からお出掛けですか?誰か若い者を・・・・・」
「いい!」
「しかし、こんな夜に1人で外出させるわけにはいきません。おい!誰か!」
古参の幹部に腕を取られ、振り解こうとするがビクともしない。もう直ぐ50歳になろうかという相手に対して少しも抵抗出
来ない自分が情けなかった。
「楓坊っちゃん」
「・・・・・」
「伊崎の昇格がそんなに気に入らないんですか?」
「煩い!」
日向楓(ひゅうが かえで)は今年高校2年生になった16歳の少年だ。一見普通の・・・・・というより、かなり人目を惹く
綺麗な少年は、実は関東でも古く大きな暴力団『日向組』5代目組長、日向雅治(ひゅうが まさはる)の次男だった。
かなり古くからある日向組は、どちらかというと暴力団というより任侠ヤクザという言葉が似合う昔気質の組で、街の人々
にも暗黙の内に受け入れられていた。
6代目次期組長は楓の10歳年上の兄、雅行(まさゆき)で、雅行は正当な手段での資金作りを目指して、それは着
実に実を結んでいる。
ヤクザの世界でも、昔のように非合法な資金繰りは年々難しくなってきて、経済ヤクザといわれる頭を使った資金集めが
主流になってきていた。
その代表的な人物が関東最大の暴力団『大東組』傘下、『開成会』3代目、海藤貴士だ。
海藤は表の世界でももちろんだが裏の世界でもかなり有名で、若いながら異例の出世を続けている。
雅行はそんな海藤を尊敬しており、幾度か会ってもいるようだった。
『腕力だけじゃ生き残れない。楓、お前はちゃんと大学まで行け』
中学校も満足に通わないまま組に入った雅行は、弟にはきちんとした教育を受けさせようとし、楓も大好きな兄の為に
進学校に入学し、成績もトップクラスを保っている。
そんな楓には、小学校に入学した時から世話係が1人付いた。大学院を辞めてこの世界に入った変わり者は、楓の家
庭教師として、兄代わりとして何時も側にいた。
楓の我がままにも静かに笑って従ってくれた男・・・・・家族以外で楓が唯一心を許せる相手だった男が、今日突然楓の
世話係から外れ、一気に組の若頭となった。重要な組の幹部になった男は、もう楓の世話をやく時間など全く無くなるほ
ど忙しくなる。
(俺が一番じゃないなんて・・・・・!)
『これからは組長を第一に、勤めさせて頂きます』
何の事前報告もないまま、楓は幹部が居並ぶ会議室の隅で初めて知った。
これからは雅治が、そして次期組長になる雅行が一番なのだと聞いた時、楓の頭の中は真っ白になった。
何の根拠もなかったが、楓はずっと男と一緒にいられると思っていた。男にとっての一番はずっと自分で、他の者は、たとえ
組長である父親でさえ自分の後だと確信していた。
それが全て崩れてしまったのだ。
「行くぞっ」
「坊っちゃん!」
この騒ぎを聞いても、若頭になった男は動かないだろう。たかが子供の我がままだと呆れているかもしれない。
「・・・・・っ」
手を離されて、楓は初めて自分の気持ちに気付いてしまった。
(認めない・・・・・っ。この俺があいつをなんて・・・・・!)
怒りに燃える瞳が、机の上に広げられていた襲名披露の回書を捕らえた。そこには、新しく若頭に昇格した男の名が、
達筆な筆文字で書かれていた。
(日向組若頭・・・・・伊崎恭祐(いさき きょうすけ)・・・・・)
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