未来への胎動




プロローグ







 「なあ、日向ってどこの大学行くんだ?」
 「それが、本人に聞いても笑ってごまかされるだけでさ。知ってる奴っているのか?」
 「本人には問題なんか一つも無いんだけどなあ・・・・・やっぱ、家のことって大きいよな」
 「・・・・・ああ」

 「・・・・・」
 日向楓(ひゅうが かえで)は開こうとしたドアから手を離した。
強引に卒業アルバムの委員に選ばれ、こうして図書室までやってきたというのに、本人が来ることが分かっていてこんな陰
口など叩かないでもらいたい(彼らにその自覚は無いのだろうが)。
(俺の進路なんて、誰が教えてやるか、バーカ)
 口の中で文句を言うが、今入っては微妙な雰囲気になってしまうだろう。
自分の方が気を遣ってやることもないのだが、卒業までの残り少ない時間を平穏に送りたいと思っていた楓は、少し時間
を置いてから来ようと、時間を潰すために踵を返した。




 日向楓は、今年の春卒業を控えた高校3年生の少年だ。
男といってもいい歳ながら、楓は女のように・・・・・いや、女以上に華やかな美貌を誇っていた。
切れ長の目に、通った鼻筋、丸みを少し残した頬に、小さめの赤い唇。肌の色は真珠のようで、身体付きも華奢ながら
しなやか。
完璧といっていい容姿の楓は、学校では天使のように愛らしい存在だったが、その家庭環境は普通とはいえなかった。

 大東組系、『日向組』。彼の実家はヤクザだった。楓はそこの次男である。
今の組長である日向雅行(ひゅうが まさゆき)は兄で、父は相談役として後ろに退いた。
普通ならば煙たがれ、避けられる立場にあるはずだったが、かなり昔から地元で地域と共存してきた日向組を悪く言う者
は少なく、その上、楓自身の魅力が否が応でも人を惹きつけていた。

 そんな、完全無欠の楓が唯一敵わない存在が、恋人である伊崎恭祐(いさき きょうすけ)だった。
日向組の若頭でもある彼は、楓がまだ小学校の頃から世話係として仕えてくれていた。
本来はかなり家柄のいい生まれの伊崎だが、一目惚れといってもいい感情をまだ幼い楓に抱き、普通の生活を切り捨
ててこの極道の世界へと飛び込んできた。
 楓に対して、深い愛情を与えてくれる彼に、楓も独占欲から愛情へと感情が変化し、今ではかなり年齢差があるもの
の、熱い恋人同士だった。

 ただ、組の息子である楓と、若頭である伊崎の関係は今のところ極秘だ。
楓としたら周りに知られても全く構わなかったが、自分の組の子息という事実と、長年の保護者代わりの気持ちが消えて
いないようで、楓の気持ちとは裏腹に、伊崎はなかなか後一歩を踏み出してはくれなかった。

 そして今、楓には新たな問題が生まれていた。
それは、自分の歳ならば仕方が無いかもしれない進学問題だ。
国立にも行ける学力があり、進学費用も心配する必要は無く、家族も、組の人間も、なにより伊崎も楓の大学への進
学を望んでいる。
 しかし・・・・・楓は今だ心が揺れていた。
センター試験を受け、伊崎が行っていた大学の他、都内の2つの大学も合格したが、今だどこにも入学手続きをしてい
ない。期日は今週一杯だというのに、だ。
 父の跡を継ぐために進学をしなかった兄を差し置き、自分だけが勉強を続けるということが納得出来なかったし、なによ
り、弱小で大変な組の中、自分だけがのんびりと大学生活を送るということが嫌だった。
 役職など無くても、組に貢献出来ることをしたい・・・・・そう言い出した楓を兄は一喝し、父も、古参の組員も考え直
せと言ってきた。
 ただ、伊崎だけは、

 「あなたが望むように」

とだけ言い、後は一言も何も言わない。
恋人だというのに、そして、高校卒業という節目を迎え、ようやく自分達のことも皆に・・・・・そう思っていた楓は伊崎の消
極的な言動に頭にきてしまい、目下一週間も口をきいていなかった。




 「あれ?楓、アルバムの話は?」
 廊下を歩いていると、偶然クラスメイトと会った。既に自由登校になっていたが、大学を合格した者の中には後輩の部
活動を見るなど、学校に来ている者も多いのだ。
 「うん、今からだよ」
 「そっか・・・・・。なんだか、本当に卒業が近いなって思うと・・・・・寂しいよな」
 「うん」
 「楓にも会えなくなるし」
実感がこもったクラスメイトの言葉に、楓は曖昧な微笑を浮かべる。
 「なあ、楓はどこの・・・・・」
 「あっ、時間過ぎてる!ごめん、急がないと!」
 どこの大学かを訊ねられる前に、楓はそう言って手を振った。間近で見る楓の微笑に見惚れたクラスメイトはそれ以上
突っ込んでくることも無く、楓は先程立ち去った図書室へと改めて向かう。
(どいつもこいつも、人のことなんて放っておけばいいのにっ)
 気に掛けて欲しい相手は1人だけなのに、その相手はなぜか自分を突き放している。
何だか胸の中がモヤモヤとして、楓は唇を噛み締めた。




 一時間ほど、たいした話も無いままアルバム委員の話は終わり(ほとんどが楓の進路への質問だった)、楓は昼前には
校門を出た。
そこから少し離れた場所には、既に見慣れた男が立っている。
 「お疲れ様でした」
 「疲れてない」
 「・・・・・」
 八つ当たりのような楓の言葉にも、ほとんど表情を変えないまま、男・・・・・津山勇司 (つやま ゆうじ)は後を付いてき
た。
 若頭に就任した自分の代わりに伊崎が選んだ津山は前科持ちで、守役として付いた当初は感情の起伏も乏しかった
が、今ではかなり気を許してくれているのではないかと思っている。
 楓は自分が我が儘だと自覚しているし、扱い難いだろうとも思っているが、津山はそんな自分とも上手く付き合っている
方だろう。
(文句、言えばいいのに・・・・・っ)
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 普段から無口な津山から話をふってくることは考えられないが、それでも、自分の進路のことは組の中でも問題になって
いるだろうし、今自分に一番近い津山としても自分に関係のある話のはずだ。
(・・・・・まさか、恭祐が聞くなって言った、とか)
 「・・・・・」
 楓は足を止めた。
 「どうしました?」
学校の行き帰りくらいは車は止めて欲しいという楓の希望通り(元々、日向組には余裕も無いだろうが)、通学はバスや
電車を使い、津山もそれに同行している。
 一時期、香港の妙な男に付きまとわれた時は車を使うことがあったが、楓は本来そんな不経済なことは頭から却下し
ていた。
 今も、津山は楓と共に通学路に立っていたが・・・・・目立たないように、スーツではなく大人しい色使いのジャケットを着
ているが、陽の光の下ではどこか異質に映ってしまう。
 「津山」
 しかし、今は時間帯が関係しているのか、この場には自分と津山しかおらず、他の奇異な目など全く無い状況下で楓
は訊ねた。
 「お前、何も思わないのか?」
 「・・・・・なんのことでしょう」
 「俺の進学のこと」
 「・・・・・それは、楓さんが決めることですから」
 「それ!お前の言葉、恭祐そっくりだよ!あいつに何か言われてるんだろうっ?」
 楓の剣幕にも、津山の表情は変わらない。何時もはそんな無表情も気にしないのだが、今日だけは楓は何だか無性
にイラついてしまった。
 「・・・・・鞄だけ持って帰って」
 「どちらに行かれるんですか」
 「徹を呼ぶから。夕飯もいらないって言っておいて」
このまま家に帰ってもイラついて、誰彼構わずにあたってしまうだろう。それでも、きっと肝心の伊崎は子供を見るような目を
して自分を見ているだけで・・・・・そんな状況を想像すると、遊びに行った方がましだと思った。
 牧村徹(まきむら とおる)は、同級生で、楓の二面性も知っている夜の街での遊び仲間だ。一度、怪しい関係になり
かけたが、伊崎と結ばれてからは一度もそんな雰囲気にはさせなかったし、牧村もそれを心得ていた。
頭が良く、遊び上手な牧村と久し振りの夜の街にくりだせば気分も晴れるかも・・・・・楓はそう思ったのだ。




 「・・・・・あ、徹?俺」
 携帯電話で話す楓を見つめながら、津山はどうするかと考えた。
もちろん、楓が言った通りにこのままノコノコと伝言を持って帰るわけにも行かず、かといって多少鬱憤を払う行動を取らせ
てやらなければ、楓がどんどん追い詰められていくのも目に見えている。
 「じゃあ、一時間後、何時ものトコ」
 相手は簡単に了承したらしく(楓の誘いを断る人間はそうそういないだろう)、携帯を切った後の楓の顔は少しだけ柔ら
かくなっていた。
 「じゃ、そういうことだから」
 「・・・・・」
 楓はそう言って、津山の横を通り抜ける。
その少し後を変わらずに歩き始めた津山は、しばらくして振り向いた楓に一喝された。
 「付いてくるな!」
 「私も、遊びに行きます」
 「・・・・・え?」
 「遊んでください、楓さん」
 「・・・・・」
 口先の勢いはよく、気の強い楓だが、頼られたり下手に出られると弱い。見掛けによらずに親分肌な彼に対するやり方
は、始めに伊崎に教えてもらったし、今は・・・・・津山自身も学習していた。
 案の定、楓は迷っている。綺麗な赤い唇を噛んでいる姿を見ると、痕が付いてしまうと心配になってしまうが・・・・・今は
それを言わない方がいい。
 「お願いします、楓さん」
 「津山・・・・・」
小さなその声を聞いて、津山は僅かに頬を緩めた。