未来への胎動




25







 「卒業生代表、中前康弘」

 3月、まだ少し寒く、校庭の桜の木も数えられるくらいしか花を咲かせていない日、楓は卒業式を迎えていた。
(出来れば、桜の花が舞っていたら良かったんだけど)
確か、入学式の時はそうだった。1ヶ月くらい違いがあるとこんなものなのかもしれないが、少しだけ寂しいなと楓は思う。
それでも、こうして胸を張って、晴れ晴れとした気持ちで卒業出来るのだ、楓の頬には自然と笑みが浮かんでいた。
 「親父さん、泣いてるぞ」
 「・・・・・」
 「他の親が驚いてる」
 「いいんだよ」
 牧村の言葉に、楓はきっぱりと言いきった。
始め、周りの目を気にした父と兄は卒業式の出席を見合わせると言っていたが、楓は絶対に来て欲しいと言った。
 入学式はその当時の守役であった伊崎しか来ず、楓は家業のためにそれ程気を遣わなければならないのかと悔しい
思いをしたのを忘れてはいない。
 もう、自分は今日でこの学校を卒業してしまう。在校生はともかく、保護者達がどんな好奇の目を向けてきたとしても、
楓は全く気にもならなかった。
(父さん、泣いてるのか・・・・・)
 今回は残念ながら母の退院は間に合わなかった。
その母のためにビデオを撮るのだと張り切っていた父だが、泣いていてはしっかりと撮れてはいないかもしれない。
厳つい顔をした父のその様子を想像するだけで幸せな気分になった楓は、
 「日向楓」
 「はい」
名前を呼ばれ、流れるような綺麗な仕草で立ち上がった。




 「日向楓」
 楓の名前が呼ばれた時、いっせいにざわめきが湧いた。
この学校にヤクザの息子が通っていることは当然保護者達も知っているし、入学した直後は何度も保護者会が開かれ
た。
 ヤクザの息子などをどうして受け入れるのかと随分言われたが、理事長の教育者としての立派な言葉と、伊崎の外見
や物腰に目を奪われた保護者達の反対意見は、やがて自然に消えていった。
それでも、楓には目に見えないプレッシャーがあったはずだ。
 「か、楓」
 「親父、カメラ」
 「お前が撮れ。俺は・・・・・うっ」
 「お袋と約束したのは自分だろう。俺はこの目で楓の晴れ姿を見届けたいんだ」
 雅治も何時もの和装ではなく、雅行と共に目立たないスーツを着ているものの、その眼光と纏っている雰囲気を消すこ
とは出来ない。
そんな男が人目も気にせず泣いているのだ、伊崎はそっとハンカチを手渡した。
 「・・・・・」
 ゆっくりと壇上に上がっていく楓の姿を、無数の目が追っている。
ヤクザの息子という特異な環境以上に、楓の類まれな美貌は評判で、ここ数年の体育祭や文化祭の保護者の出席
率は随分と増えたという話を聞いた時は、さすがに苦笑を零すしかなかった。
 楓が好奇の目で見られることはけして面白くはないものの、絶対に俯かず、胸を張って前を見る楓の強い意志を妨げ
たくなくて、伊崎は校内でのことは見守る立場に徹していた。
それは、新しく守役になった津山にも伝えたし、楓のことを想う津山は伊崎の考え以上に隙無く行動してくれている。
 「・・・・・」
 楓が歩くたび、揺れる気配。それは証書を受け取った時がピークで、舞台の上から下りる楓の顔が一瞬居並ぶ生徒
や保護者達に向けられた。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 その眼差しが保護者席に居る自分達の姿を捉えた時、楓の頬には鮮やかな笑みが浮かび、周りのざわめきの声はさ
らに高まる。

 《見たか》

 楓の唇は確かにそう動いたように思え、伊崎ははいと頷いた。
(全く・・・・・)
最後の最後で更にファンを増やしたらしい楓に、伊崎はくっと笑みを零すしかなかった。




 「先輩!写真いいですかっ?」
 「日向っ、俺も!」
 「僕もお願いしますっ」
 体育館から退場した途端、楓は無数の人間に取り囲まれた。
今日で楓と会うことが出来なくなるので、せめて写真を、握手をと、我先にと申し込んでくる。そんな一同をぐるっと見つめ
た楓は、
 「煩いんだよ」
にっこり笑いながらそう言った。
 「こっちは待っている人間が居るんだ、写真なんてお断り」
 「・・・・・」
 「そこ開けて」
 もう、猫を被る必要など無い。
所詮ヤクザの息子だからと言われるのが嫌でどんな相手にも笑顔で、目立たないように大人しくしていたが、今この瞬間
から楓は自分の地を出すことに躊躇いはなかった。
 「ひゅ、日向・・・・・?」
 「聞こえなかった?そこ開けて」
 「あ、あのっ」
 「・・・・・」
 楓は自分の周りで呆然とした眼差しを向けてくる者達を見回し、ふっと楽しくなって笑ってしまった。
 「これが、俺なんだよ」
顔に似合わずとか、ヤクザの息子なのにとか。様々な形容詞は一切関係ない。今、ここでこうして話しているのが本当の
自分なのだ。
 「・・・・・こ、いい」
 「え?」
 「カッコイイですっ、先輩!」
 最初に叫んだのは、2年の生徒会役員だ。楓も色々手伝ったのでかなり接触はあった方だが、その2年がなぜか顔を
真っ赤にしてそう叫ぶ。
 「はあ?」
 「そうだな、女王様な日向も・・・・・」
 「・・・・・」
(何言っているんだ?)
 楓としたら、これですっぱりと仮面を被った3年間を切り捨てるつもりだったが、自分の影響力はそれくらいのことでは払
拭することは出来ないらしい。
 いや、天使のようだと言われていた楓のキャラクターとは正反対の女王様ぶりに、この一瞬で違った魅力を見出した者
も多いようで、更に楓を取り囲む輪は何十にも増えてくる。
 「聞こえなかったのかっ、お前達!俺はどけって言ってるんだよ!」
 「やです!」
 「これで最後なんだから!」
 「写真お願いします!!」
今度はどんなに怒鳴っても道を譲ろうとしない相手に、楓の眼差しは次第に剣呑なものに変化していった。




 「いい加減にしろ!!」
 キレてしまった楓の声が聞こえて、伊崎は時計を見た。
あの様子では、もうしばらく楓は捕まってしまうだろう。もちろん救い出すことは出来るが、今日で最後の高校生活をああ
見えて内心では惜しんでいるらしい楓に、もう少しこの時間を楽しませてやろうと思った。
 雅治と雅行は先に津山がつれて帰っているので(雅治は楓と帰ると煩かったが)、伊崎は楓がいいと言うまでここで待っ
ているつもりだ。
 「伊崎さん」
 そんな伊崎に声を掛けてきたのは牧村だった。
楓の悪友という地位にちゃっかりと納まった牧村には色々と思うこともあるものの、それでもこの牧村の存在が楓にとって
随分と大切なものだということは伊崎も分かっていた。
 「卒業おめでとうございます」
 「ありがとうございます。楓、大変ですね」
 「危ないことにはならないと思いますので」
 「大人しくて綺麗な楓もいいけど、気が強くって美人な楓もいいってことか。まあ、今日まで隠していたのはいいことかも
しれませんね」
 別のファンが出来ていたかもしれないしと笑う牧村の言葉は当たっているかもしれない。楓は自分の性格を我が儘で気
が強いと言っているが、それでもいいと言う者は少なくないだろう。
 「でも、伊崎さんも見られていますよ」
 「・・・・・」
 「あ、分かっていました?」
 「私にとったら、楓さん以外はただの空気と一緒ですから」
 「あー・・・・・はい、そうですね」
 楓への独占欲をこの牧村の前では時折見せていたので、今の言葉もすんなり頭の中に入ったのだろう、牧村は18歳
の青年らしくない大人びた顔で笑った。
 牧村の言う通り、自分のことを見つめる女や一部の男の視線に気付いてはいるが、伊崎は楓に少しの不安も抱かせ
たくはないので一切無視をする。
(それこそ、もう二度と会わない相手ばかりだしな)
 「まあ、大学でもよろしくお願いしますね。構内では俺が出来るだけ気をつけます」
 「それは心強い。これからも楓さんのことをよろしくお願いします」
 楓の進学する大学には牧村も通うことは知っている。楓への距離を上手く取っている牧村の存在は、この先もきっと役
に立ってくれるだろうと、伊崎は頭を下げて頼んだ。




 「もーっ、帰る!!」
 引き攣った顔を写真に撮られることは我慢出来なくて笑みを浮かべたものの、その相手も何人か分からなくなった時点
で嫌になってしまった。
それでも、もう30分以上も付き合ったのだ、十分だろう。
 「あっ!」
 「日向!」
 「先輩!」
 縋るような声を背後にし、楓は真っ直ぐに校門に向かって歩き始めた。
まだ校庭に残っている卒業生や保護者達の視線を全身に感じながら、楓は顔を上げ・・・・・その視線の先にいる人影
を見付けて直ぐに駆け寄った。
 「恭祐!」
 躊躇い無くその胸に飛び込めば、伊崎はしっかりと抱きしめてくれた。
 「今日はおめでとうございます」
 「ようやく高校卒業だ。でも、成人まではもう少し先」
 「直ぐに、時間は経ちますよ」
 「・・・・・そうだな」
楓は頷いて顔を上げた。
 「なあ、ここでキスする?」
 「・・・・・まだ人がいますよ」
 「そんなの関係ない。俺の目の前にはお前しかいないんだから」
 「それもそうですね」
 「え?」
 きっと、駄目だと言うだろう伊崎を押し倒してでも、この高校の校庭でキスしてやると思っていたのだが、にっこりと鮮やか
な笑みを浮かべた伊崎はいきなり楓を抱きしめ、そのまま唇を重ねてきた。
 「ふむっ」
 楓の耳には怒涛のように悲鳴や驚きの声が入ってくるが、そんなものは全く気にならなかった。
(この男は・・・・・俺のっ!)
自分が伊崎のものであるように、伊崎だって自分のものだ。そして、それを周りの全ての人間に隠すことなく見せびらかす
ことが出来るのが嬉しくて、楓は容赦なく口腔の中を貪る伊崎のキスに、自分も積極的に応えた。








 「兄さんがいなくて良かった」
 キスを解いた時、楓が照れ隠しに言って。
 「相談役もです」
伊崎も、そう応えた。
 「帰るぞ、恭祐」
 「はい」
差し出された細い手をしっかりと握り締めた伊崎は、自分を見上げる楓に笑い掛ける。
(遅くなると、皆が拗ねるな)
 今頃、組員達は楓の卒業祝いの準備を整えて、今か今かと楓の帰りを待っているだろう。その時の楓は、きっと今以
上に可愛く、嬉しそうな顔になるのが想像出来て、伊崎は早く楓と共にあの温かな家に帰ろうと歩き出した。




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