未来への胎動
24
「・・・・・そうか」
「・・・・・駄目?」
翌朝、楓は目が覚めると直ぐに兄の部屋に向かった。もちろん、自分よりも早くに起きていた兄は既に身支度を整えて
いて、部屋に入ってきた楓をしばらくじっと見つめていた。
(・・・・・な、なんだろ)
ここに来る前にシャワーは浴びてきたし、気持ちが張っているせいで、動きも緩慢なものではないはずだ。夕べの伊崎と
のセックスを感じさせるものは無いつもりだが、兄の目から見ると違うのだろうか。
「・・・・・どうした、こんなに朝早く」
何か言われるかと思ったが、兄は結局座れと楓を促してくれ、自分もどっしりとその場に胡坐をかいた。
日向組組長という立場ではなく、楓の兄として話を聞いてくれるのだと感じて、楓は意を決して自分のこれからのことを兄
に話した。
一度決めたことに躊躇いはない楓は、自分が最終的に決めた理由・・・・・クラブで出会った浅間のことも話した。
兄はさすがに眉を顰めたが、楓はくれぐれも手を出すなと言った。浅間と渡り合うのは自分で、それは悔しいがもうしばら
く先だということも話して。
「・・・・・」
全てを説明して口を閉じた楓は、腕を組んで目を閉じている兄をじっと見つめる。
兄も望んでいた大学進学をするという点については反対はないだろうと思ったが、その職業については何か言われるかも
しれないと思った。
大学を卒業しても直ぐ一人前というわけではなく、もしかしたら司法試験に受かるのさえも何時になるか分からない。
それまで、兄や父に甘えることになってしまうかもしれないことを、兄は直ぐに賛成してくれるかどうか・・・・・。
「楓」
「は、はい」
思わず緊張したように答えた楓は、目の前にいる兄が笑ったのに気付いた。
「・・・・・兄さん?」
「やりたいことをやってみろ」
「え・・・・・」
「難しいだろうということも分かるが、負けず嫌いなお前のことだ、勝つまでやり遂げてくれるだろう」
もちろんその通りだと、楓はしっかりと頷く。
「う、うん!」
「法廷に立つお前を見て、みんな見惚れるんじゃないか」
「兄さん!」
楓は兄の逞しい首に抱きついた。急激に動いたので身体が悲鳴を上げたが、そんなことは今のこみ上げる嬉しさから比
べればたいしたことではない。
「ありがとう!俺っ、頑張るから!」
「ああ。お前が決めたことだ、皆応援してくれるだろう。だが、今まで以上に勉強しなけりゃならんぞ?夜遊びはほどほど
にしておけ」
「分かった!」
夜の街に遊びに出ていたのは、どっちつかずの不安定な自分の立場を誤魔化すためだ。やりたいことが決まったのなら
ばそれに向かって突き進むだけで、遊んでいる暇などないだろう。
「ほら、親父にも教えてやれ。あ、俺に先に言ったとは言うなよ?あの顔で、お前に関しては子供みたいに独占欲がある
からな」
「分かってる」
もちろん、父にも報告をするつもりだ。楓は兄から身体を離すと、早速父の部屋に行ってくると言い残して兄の部屋から
出て行った。
楓が遠ざかる足音が聞こえる。
古い日本家屋のこの家では誰かの気配がしないということは無く・・・・・雅行は先程まで楓に向けていた顔とは全く正反
対の厳しい顔をして入れと命じた。
「失礼します」
まるでその声を待っていたかのように襖が開き、伊崎が姿を現した。何時ものように隙のないスーツ姿の伊崎は、とても
これが早朝の姿とは見えない。
「・・・・・お前の入れ知恵か?」
「いいえ、楓さん自身が考えて決められたことです」
「・・・・・そうだな。あの楓が幾らお前の言葉だったとしても、他人の考えをそのまま受け入れるはずがない」
「お許しになられたんですよね?」
「反対する理由がないだろう」
楓には言わなかったが、雅行は楓が弁護士になる可能性は五分五分と思っている。先ずは司法試験に受からなけれ
ばならないだろうし、その後の道も平坦ではない。
しかし、それでいいと思った。本来は大学を卒業すれば独り立ちすると言いかねなかった楓だが、弁護士を目指すこと
によって庇護する時間は更に長くなる。楓を手の中から離さずとも良いのだ。
(楓が幸せになるという確約がなければ・・・・・このままこの家から出すつもりはない)
雅行は伊崎を見つめる。何時ものように表情の読めない顔・・・・・その奥を読み取るように、雅行はゆっくりと口を開い
た。
「夕べは、どこにいた?」
「・・・・・自室です」
「楓と一緒じゃなかったのか?」
「・・・・・いいえ」
「・・・・・」
何を言っても、伊崎は本当のことを言わない。いや、絶対に悟らせるなと言った自分の言葉通りにしているだけなのだ。
(食えない野郎だな)
本当は、きっぱりと楓と別れさせたい思いだが、今の楓にとって伊崎がどんなに大きな存在かというのも分かっている。
雅行はそのまま立ち上がった。
「朝飯の時間だ」
「はい」
(まだ、2年近くある)
楓が成人するまでまだそれだけの時間がある。伊崎から別れないのならば、楓に他に目を向けてもらうしかないと思いな
がら、一方ではそれは無理だろうとも雅行は分かっていた。
「いただきま〜す!」
「楓、朝飯は1日の源だからな、しっかり食え」
「うん、分かってるって、兄さん」
「嫌いなものがあったら言いなさい、父さんが食べてやるからな」
「うん、ありがと、父さん」
日向組の何時もの朝食の光景に、住み込みの組員達の表情も明るい。やはり、この組の核となる楓の言動はかなり
影響力があるなと伊崎は口調を漏らした。
朝、雅行に夕べのことを問い詰められた時は冷や汗が流れる思いだったが、伊崎は平然と嘘をついた。これは自分と
楓のためであり、雅行のためでもあった。
「楓っ、モズクもちゃんと食べろ」
「ネバネバ嫌い。ねえ、父さん、食べて?」
「おお、いいぞ」
「親父」
「仕方が無いだろう。人には好き嫌いってもんがある。楓が食べられないものを出す方が悪い」
そう言いながら、楓の父が今日の料理番の組員の顔を睨む。引退したとはいえその眼力に衰えは無く、組員はすみま
せんと青くなって謝った。
「親父、楓を甘やかすな」
「お前には言われたくないな、雅行」
楓を可愛がる2人の会話は何時もの光景で、組員達も肌で全てが解決したということを感じたのだろう。
何時も以上に活気のある朝食の光景を見ながら、伊崎は父親と兄に挟まれて笑っている楓を微笑ましい思いで見つめ
ていた。
朝食を終えた楓は、早速大学と高校に行くことに決めた。
まだもう少し時間はあったものの、もう決めてしまったので直ぐに動いてしまいたかった。
「ごめんな、津山」
「・・・・・いえ」
津山の運転する車が走り出した時、楓は直ぐに謝罪の言葉を口にした。
夕べ自分が屋敷を抜け出したことで、多分兄か伊崎から叱責を受けたはずだ。自分の勝手でしたことなのに津山が責
められることはないと思うが、それは楓の甘い気持ちで、組織の中の規律では仕方がないことなのだろう。
そのことについて津山が自分を責めないので更に申し訳ない気分なのだが、そんな楓に向かって津山は淡々とした口
調で言った。
「若頭から、進路をお聞きしました」
「あ、もしかして無理だって思った?」
「いいえ・・・・・嬉しいと思いました」
「え?」
「あなたが独り立ちすれば、私の役目も終わってしまいますから」
「津山・・・・・」
確かに、高校を卒業して直ぐに組の仕事に携わることになっていたら、付く人間は全く別の者になっていただろう。
しかし、弁護士になるとしたらこれから大学だけでなく、もっと長い間、津山が傍に付くことになるはずだ。
「・・・・・俺なんかに付いていても出世しないぞ」
「傍にいられることが嬉しいんです」
「・・・・・」
「今の言葉は気になさらないで下さい」
最大限、楓の負担にならないようにと動く津山の気持ちの意味を、楓はもう知っている。だが、その気持ちには応えられ
ないのだ。
(俺には、恭祐がいるから・・・・・)
応えることができないのなら、けして気を持たせる素振りはしてはならない。楓は自分の心にそう言い聞かせながらも、自
分のためにはそんな労力も惜しまない津山の横顔をちらっと見た。
(あ〜あ、津山が嫌な奴なら良かったのに・・・・・)
大学の入学手続きを終えた楓は高校に行くと、担任に自分の進路を説明した。
「そうか」
目を細め、本当に嬉しそうな顔をしてくれる担任に、楓は今まで心配掛けてばかりだったことを後悔してしまった。もっと早
く自分の気持ちを見つめることが出来ていれば、こんなにも時間は掛からなかったかもしれない。
「ご心配を掛けてすみませんでした」
「いいや、将来のことだ。日向が時間を掛けて考えたことは悪いことじゃない」
「先生」
「それにしても、日向が弁護士かあ」
しみじみと言う担任の声に馬鹿にしたような響きはないが、楓は自分のことを客観的に見ていたはずの担任の意見が
少し気になった。
「・・・・・おかしいですか?」
学力的にとか、性格的にとか、色々問題があるだろうか?
「いいや、美人弁護士と評判になりそうだ」
「・・・・・」
(なんだか聞いたような言葉だけど・・・・・)
「日向、お前は自分の家のせいで色々と話したくないことがあるかもしれないが、クラスの皆も心配しているんだぞ?来
週の登校日、話せる範囲だけ話してみたらどうだ?」
「・・・・・はい」
確かに、大学に進学せずにヤクザになるというのは言い難いものの、受かるかどうかは別にして、弁護士になりいたいと
いう夢を話すのは悪いことではないかもしれない。
(そう言えば、徹にも話してなかったっけ)
もしかしたら今回一番振り回していたかもしれない牧村に結局何も話していなかったことを思い出して、楓は後で電話
をしようと思った。
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