屋烏の愛 おくうのあい
1
「・・・・・分かりました、では、明日の午後2時に本家へ窺います」
そう言って、海藤貴士(かいどう たかし)が電話を切った時、倉橋克己(くらはし かつみ)はもしかしてという思いで必死に彼
の口もとを見つめた。
「社長」
「明日、千葉の本家に向かう」
「組長の御命令ですか?」
「・・・・・とうとう、年貢の納め時のようだ。理事の席が2つ空いた。1人は引退、1人は上に上がった」
その言葉に、倉橋はゆっくりと頷く。
海藤は年貢の納め時と言ったが、倉橋はようやくこの時が来たのだという思いの方が強かった。
以前にもこのチャンスはあり、誰が見ても海藤の優位は揺らがなかったが、当の本人がそれを望まず、結局は荒業で辞退し
てしまった。
その時の海藤の選択は彼にとって必要なものだったのだろうとは思うものの、倉橋にとって海藤ほどの男が人の上に立たない
方がおかしいと思っている。
「倉橋先輩」
大学を卒業し、それぞれ別の道を歩むようになった自分達が偶然再会し、彼がそう呼び掛けてくれた時から、倉橋の運命は
変わった。
敬愛し、支える喜びの持てる相手に巡り合えたし、弟に対するような優しい感情を抱ける相手とも出会えた。
そして・・・・・心も身体も、嵐の中で攫われ、たちまち染まってしまうほどに影響力のある男と出会えたのも、海藤と出会えたか
らだ。
そんな彼の名誉ある出世に、倉橋は内心で何度も祝辞を送った。
今の関東随一、そして日本でも有数の広域指定暴力団、大東組。
その傘下である開成会という会派を背負っている海藤の下で幹部をしている倉橋には夢があった。それは海藤に天下を取ら
せること。
本人がそれを望んでいないのは薄々気が付いていたが、倉橋は海藤のような人こそが、人の上に立つのに相応しいと思って
いるし、そうなるためならば全力で支えるつもりだった。
仮に、その過程で闇の部分に携わったとしても、海藤のためならばこの手を汚すことなど簡単だ。
彼のために生き、そして死ねるのならば、現世で生きる意味を与えてくれた彼に対しての恩返しにもなるのではないか。
「江坂(えさか)理事は4月1日付けで総本部長に格上げだ」
(江坂理事が・・・・・)
「正式な披露目は15日に行われるらしい。現総本部長の本宮さんは、最高顧問に席を移るそうだ」
「・・・・・」
(あの人が総本部長・・・・・)
江坂凌二(えさか りょうじ)。
個人で組を持たず、大東組直轄で仕事をしてきた特異な存在。海藤より年上だとはいえ、まだ30代の江坂が組のNo.3の
位置に付くというのは大抜擢だ。もちろん、それだけ優秀な男だということを認めないわけではないが・・・・・。
倉橋は海藤の横顔を見つめる。その表情の中に江坂を羨んだり、妬んでいるといった様子は見えなかった。
そんな人間の出来た海藤を尊敬はするものの、もっともっと上を見て欲しい。
(あなたなら、それが出来るのに・・・・・っ)
「早く楽したいって、よく言ってましたよね」
「まだ、隠居はして欲しくないがな」
「ふふ」
「しかし、江坂理事は凄い抜擢じゃないですか?いくら現組長が改革に前向きでも、年功序列をひっくり返すのは簡単なこと
ではありませんし」
江坂が汚い手を使ってまで上に登ろうとする男かどうかは分からないものの、そう簡単に決まった話ではないような気がする。
海藤の伯父、菱沼(ひしぬま)の盟友であった本宮は反対はしなかったのだろうか?
「確か、今までの中では最年少なんじゃないですか?江坂理事。よく受けましたねっていうか、よく本家のおじ様達が賛成し
たこと。一悶着はあったのかしら」
そんな倉橋の言葉に重ねるように言ったのは、開成会の幹部、綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)だ。
モデルのような華やかな容姿の綾辻だが、そのバックにはかなり大きなものが付いていて、本人も一筋縄ではいかない男だ。
そして・・・・・どこから自分の気持ちが変化したのかは分からないが、倉橋にとって海藤以外で初めて、その存在のためにこの
命を捨ててもいいと想わせた恋人だった。
海藤の理事就任という吉報にもっと喜びを爆発させてもいいと思うのに、目の前にいる美しい男の表情はどこか優れないもの
が見えた。それが、海藤の就任と共に聞かされた江坂の総本部長昇進の話を聞いたからだろうというのは直ぐに分かる。
(ホント、社長が好きなんだから)
眼鏡の奥に見える切れ長の眼差しが揺れていることに気が付いているのはきっと自分だけだ。
繊細な容貌が曇っているのも、甘やかな声が少し硬いのも。
全部、全部、全部、自分だけが知っていいものだと綾辻は思っている。
たとえ海藤が自分の上司であっても、倉橋が彼を敬愛していても、倉橋の中の一番を譲るつもりは毛頭ない。
一緒に海藤の部屋を出た綾辻は、そのまま自分のオフィスに戻ろうとする倉橋の手を掴んだ。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・離して下さい」
「克己」
「ここがどこだが、あなたは分かっているんですか?」
わざと呆れたように言うものの、掴んだ手を振りほどこうとしないのが今の倉橋の自分への気持ちだ。
少し潔癖症の気がある倉橋が、ここまで接触を許してくれているのだというのは妙な自信になっていて、綾辻はにっこりと笑っ
て言った。
「今日、一緒に帰らない?」
「忙しいんです」
「仕事があるなら手伝うわよ」
「あなたの仕事だってあるでしょう」
「でも、克己と一緒にいる時間を削ってまで大事な仕事って無いわ」
指先で、服の上からすっと腕の内側を撫でるように刺激してやると、たったそれだけのことで倉橋は面白いようにビクッと反応
してくれた。
「だ、駄目です」
それなのに、あくまでも口は可愛くないことを言う。
「明日は、千葉に行かなくてはいけないので・・・・・」
「分かってるわよ、一緒に聞いたじゃない」
「だから・・・・・」
倉橋の言いたいことが分からないはずの無い綾辻は、もう少しだけ意地悪をしようと思った。どんな時も海藤を優先する倉橋の
立場は十分分かっているつもりだが・・・・・。
(私だって、一番に思って欲しい時だってあるのよ)
「でも、それは明日のことでしょう?今晩は空いてるじゃない」
「・・・・・」
「・・・・・」
「で・・・・・も」
「あ、克己、もしかしてセックスの心配してる?抱かれた翌朝、何時も辛そうだものね。あの姿で社長と千葉に行けるわけが
無いと思った?」
「・・・・・っ」
色白の頬が面白いほど朱に染まり、倉橋は綾辻を睨んできた。
(だから、可愛いだけよ、そんな顔)
どんな顔の倉橋も愛しいと思っている自分にとっては、様々な表情を見せてくれるのならば怒った顔も悪くないのだと言ったら
・・・・・どう思うだろうか。
(からかわれた・・・・・っ)
夜、付き合う=セックスと単純に考えてしまったことが分かってしまったのかと、倉橋は顔だけではなく全身が熱くなってしまっ
たように思えた。
しかし・・・・・多分、自分がそんな風に誤解してしまうことを綾辻は分かっていたはずだ。その上で、誤解しやすいように話を持っ
ていった相手に何と言えばいいのだろうか。
「セックスは無し」
「・・・・・」
「でも、キスくらい良いでしょう?」
「・・・・・駄目です」
今度こそ何とかそう言うと、倉橋は綾辻の手を振りほどいた。いや、始めからそれほど力が入っていなかった手は簡単に離れ
ていき、少しだけ寂しく感じてしまうほどだった。
「・・・・・明日は、忙しいので」
「分かったわ。じゃあ、また近いうちに誘うから」
そう言いながら軽く手を振って行く綾辻を一瞬呼び止めようとして、倉橋はとっさに口を噤んだ。彼を呼びとめて一体何を言う
気だったのだろうか、今この瞬間分からない。
自分が断ったからといって、綾辻が他の誰かをその腕に抱くかもしれないということは考えない。外見の華やかさや軽さを裏
切るように、あの男はとても誠実で、勿体ないほどの愛情を自分に向けて抱いてくれている。
だから、なのか、こんな風に彼をあしらってしまう言葉を自分が言えるのだが、それは傲慢だと思われないかとどこかで不安
も感じていた。
相反する感情を御しきれないくせに、愛する者を作ってしまった自分は、それでもなお、愛される資格があるのだろうか。
そんな倉橋の悩みは、その数時間後の海老原からの報告で一気に消し飛んでしまった。
【香港伍合会が真琴さんに接触をしました。側近のウォンの姿は確認済みですが、側にいた男がロンタウかどうかは不明で
す。このまま事務所に向かいますので】
香港伍合会(ほんこんごごうかい)のロンタウ(龍頭)で、ブルーイーグルと言われる男、ジュウ。
以前彼が偶然会った海藤の恋人、西原真琴(にしはら まこと)を気に入り、そのまま香港に連れ去ってしまおうとしたことが
あった。開成会の上部組織である大東組は、香港伍合会と事業の一部分において提携をしていて、私事で動くこともままな
らなかったが、江坂の力も借りて、何とか彼を日本から退去させることに成功した。
もちろん、それ以降も定期的に綾辻がジュウの動向を調べさせていたが、大きな動きという報告は無かったはずだ。
大東組本部からも、今回香港伍合会のウォンが来日するという知らせは無く、ましてやロンタウであるジュウの動向など漏れ
てくることも無かった。
「本家関係では無いということですね」
倉橋が海藤に確認を取っている間も、綾辻は各方面に連絡を取っている。
徐々に彼の関係する人間のことは聞いていたが、まだまだ倉橋が全てを把握することは出来ておらず、きっと今連絡している
相手も倉橋の知らない相手なのだろう。
(ジュウが日本に・・・・・?)
その目的が何なのか、海藤も、そして綾辻も自分も容易に想像はついた。
大きな動きなどしていなかったが、ジュウは真琴を諦めたわけではなかったのだ。
(こんな時に姿を現すとは・・・・・まさか、大東組の内部に通じている者がいるとか?)
海藤の理事就任時を狙っているような動きに、倉橋は余計なことを考えてしまう。
「克己」
「綾辻さん」
「今回の理事のことを知っているのは多分組長と若頭、それと本宮さんと江坂理事くらいのはずよ。彼らの中にジュウと通じ
る者なんかいるはずがない。回り道はしないように、ね」
「・・・・・はい」
己の動揺など直ぐに見抜いた綾辻の言葉に、倉橋は辛うじて頷くと直ぐに自分もパソコンを開く。
疑心暗鬼になっている場合ではなく、直ぐに自分も効率的に動かなければならないと感じた。
(香港は綾辻さんが調べている。私は国内・・・・・本部を)
大東組の内部のスケジュールを見、怪しい動きをしている者はいないかを調べる。
同時に、明日の千葉行きの手筈も整えなければならない。
「・・・・・」
(社長・・・・・)
チラッと見た海藤の横顔は普段と変わらないように見えて、その実どこか心あらずという様子も窺えた。
きっと、海老原に連れられて真琴がここに現れるまで海藤の杞憂は晴れることは無いのだろうと、その間倉橋は自分が出来る
ことを精一杯しようと、じっと画面を見つめていた。
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