前 編






 大学の准教授である杉崎桂一郎(すぎさき けいいちろう)は悩んでいた。
教え子である田中三郎(たなか さぶろう)と結婚を前提にした付き合いを始めてから一か月。なかなかセックスまでいきつくことが
無い。
(こういう場合、雰囲気作りが必要だと言っていたが)

 「田中君は真面目だからね〜、やっぱり先生と生徒って関係がネックなんじゃない?」

 経験値の豊富な先輩准教授、溝部孝蔵(みぞべ こうぞう)は笑いながらそう言った。
本来、聖職にあるまじき行いをしている溝部にそんなことを言われることはない。そう返せば、お前こそと言ってくるだろうが、三郎
とは真剣に付き合っている自分と溝部はわけが違う。
 「真面目なのは良いことだが、私の前では少しは違った顔も見せてくれていいのだが・・・・・」
 この一カ月で、三郎と身体を重ねたのは5回だ。
それが多いのか少ないのか、元々性欲というものが薄い杉崎には分からなかったが、三郎の歳ではもっと相手を欲しがってもおか
しくないはずだ。
自分にメロメロな三郎がどうしてセックスを求めないのか。
 「・・・・・しかたない、田中は奥ゆかしいからな」
 今時の若者とは違い、三郎はこういったことに関して随分とストイックで、そういえば今まで誰とも付き合っていないとも聞いた。
そんな三郎にとって自分が特別だということが嬉しくて仕方がなく、結局杉崎の思考はいかに三郎が可愛らしいかということにいっ
ていた。




 昼になり、杉崎はソワソワと落ち着かない気分で研究室の入口を見ていた。
予定変更の連絡は来なかったので、何時ものように三郎が手作りの弁当を持ってきてくれるはずだ。三郎の弁当ももちろん楽し
みだったが、三郎自身に会うことが嬉しくて、杉崎はまるで飼い主を待つ忠犬のごとく、椅子から微動だにせずにただ時間が過ぎ
るのを待つ。

 トントン

 それからしばらくして、ドアを軽くノックする音が聞こえた。
途端にニヤケそうになるが我慢して、出来るだけ冷静な口調でどうぞと促した。
 「やっほー」
 「・・・・・なんですか」
 妙に軽い口調でそう言いながら入ってきたのは待ち人の三郎ではなく、杉崎にとっては少々厄介な先輩准教授、溝部だ。
自然に眉が寄った杉崎にまったく頓着する様子を見せず、入室を許可してもいないのに勝手に中に入った溝部は、来客用の小
さなソファに腰掛けた。
 「勝手に座らないでくれますか」
 「さっき、そこで田中君に会ってさ」
 「田中に?」
 「相変わらず愛されてるみたいだねえ」
 いったい何をどう見てそう言うのか。
短い付き合いではないが、いまだ溝部の思考回路が理解出来ない杉崎は、わざと大きな溜め息をついて見せる。
 先程三郎と会ったのなら、もう間もなく彼はここに来るはずだ。2人きりの大切な時間を邪魔されたくは無く、さっさと用件を聞い
て帰そうと思った。
 「話があるのなら言って下さい。回りくどい前置きはいらないので」
 「杉崎、冷たい〜」
 「・・・・・」
(いったい何をどうしたいんだ、この人は)
 多分、こちらから何を言っても溝部は自分のペースを崩さない。
苛々するだけ馬鹿らしいと思った杉崎の攻撃の矛先が緩んだのを肌で感じ取ったのか、溝部は不意に身を乗り出すと笑みを崩
さないまま言った。
 「愛妻弁当は作ってくれるのに、夜のお相手はなかなかしてくれないって言ってたよな?そんな杉崎に、いーとこ紹介しようと思っ
てさ」
 そんな風に言った覚えは無いが、少々他の人間とは違う溝部の耳にはそう聞こえたのかもしれない。
そして、そんな溝部の言葉に、杉崎は思わず引っ掛かってしまった。
 「いい所?」
 怪訝に思いながらも繰り返すと、溝部はジャケットのポケットから紙きれを取り出してテーブルの上に置く。
 「・・・・・」
あまり見ない単語と、その下の意味不明の言葉に内心首を傾げていると、溝部はあのなと口を開いた。




 「こんにちはー」
 杉崎の研究室に向かう途中、溝部に頼まれごとをされた三郎は少し遅れて杉崎のもとにやってきた。
部屋の中の何時もの定位置に座っていた杉崎は、なぜだか端正な顔に険しい表情をしている。
 「センセ?」
 常ならば、今日はどんなおかずだと目を輝かせるようにして見つめてくるのにいったいどうしたのか。
彼らしくない態度を不審に思いながらも、三郎は手に持っていた弁当箱を机の上に置いた。
 「遅くなってすみません」
 「分かっている、溝部先生だろう」
 「あ、はい」
(どうして知っているんだろ?)
 用件自体は些細なことで、時間もそれほどかからないと思い杉崎には連絡を入れていなかった。それなのにどうして杉崎は原
因を知っているのかと首を傾げてしまう。
 「ここに来て説明を受けた」
 「あ、そうだったんですか」
 直ぐに納得して頷くと、杉崎はまだ厳しい表情を変えないまま続けて言った。
 「田中」
 「はい?」
 「明日は私の家に来れるな?」
 「あ、はい、約束していましたし」
杉崎の家は以前掃除をして以来、何度か呼ばれて遊びに行った。
それは掃除をしに行くというよりも、杉崎と付き合っている者として招待をされていたし、そこで何度か、身体を重ねている。
(う・・・・・ちょっと、恥ずかしいかも)
 杉崎とのセックスは、性に淡白な三郎をも官能の嵐に巻き込むほどに衝撃的なものだ。男同士ということは抜きに、杉崎はセッ
クスという行為そのものには慣れていたし、やり方も驚くほどに勉強していた。
 実際に、とても大切に抱かれていると思う。杉崎以外の人間と経験がないのでそうとしか思えないが、多分他の誰と比べても
自分はそう思うと確信できる。
それは、実際に付き合っているから言えることかもしれないし、絶対に他人になど言えないことだが。
 「待っているからな」
 また、杉崎の家に行けばそんな雰囲気になってしまうのだろうか。
嫌だとは思わないが、なんだか落ち着かない気分になってしまいそうだった。




 放課後、受け持つ講義をすべて終え、しなければいけないこともすべて済ませた杉崎は、珍しく三郎の訪れを断って学校を出
た。
三郎との貴重な時間を潰すのはもったいなくて仕方がないが、どうしても今日しなければならないことがあるのだ。
 「・・・・・この辺りか?」
 新宿までやってきた杉崎は近くの駐車場に車を止めると、1枚の紙切れを持ったまま歩き始める。それには簡単な地図が書い
てあったが、普段これほど賑やかな場所に来ることが無い杉崎にとって、人ごみの中を歩くだけで疲れた。
 「ねえねえ、時間ある?」
 「つきあおーよ、おにーさん」
 そして、歩くごとに纏わりついてくる少女たちの存在に辟易する。
若い彼女たちが自分のような年齢のいった男に声をかけてくるのは何かの間違いだとは思うが、それがこれほど頻繁なのはとて
も疲れた。
 「ねえってば、おにーさん」
 腕を引っ張られた杉崎は、渋々足を止めて自分の胸ほどの身長しかない少女を見下ろした。
 「うわ・・・・・カッコいい・・・・・」
着ているものの良さから羽振りがいいとでも思ったのかもしれないが、実際に目線を合わせると少女はポカンと口を開けた後、見
る間に顔を赤く染めて行く。
その変化にも当然興味は無かったが、杉崎は一言言っておこうと淡々な口調で言った。
 「私は君の兄ではない」
 「・・・・・はぁ?」
 「それに、時間があるかと聞きながらつきあおうと決めつける物言いをするのもおかしい。私は君に時間があるとは答えていない
はずだ。暇のない私が君に付き合う可能性はまったく無い」
 つらつらと説明をしても、少女はわけがわからないといった表情を変えない。
(これ以上言っても無駄だろうな)
 杉崎はまだ自分の腕を掴んでいる少女の手を外した。
 「大体、初対面の相手にそんな風に崩した物言いをしてもいいと思っているのか?君は高校生だろう、少しは目上の者に対す
る物の言い方を勉強した方がいい」
 「あ、あ、あの・・・・・」
 「ちなみにその制服は八鹿女子高のものだと思うが、だとしたらスカート丈は膝下15センチと決まっているはずだ。少々足が出
過ぎだな、注意しなさい」
大学の教授がその高校に通っている孫娘のことで悔やんでいたことを思い出しながらそう言うと、杉崎は唖然とする少女を置いて
再び歩き始めた。

 「・・・・・ここか?」
 賑やかな通りから二つ分の路地を奥に行ったところで、杉崎はメモに書かれてあった店を見付けた。
本当に分かり難くて、このメモが無ければとても見付けられなかったかもしれない。
 「・・・・・」
 時刻は夕方の5時過ぎ。
まだ空は若干明るかったが、この辺りの人影は極端なほど少ない。
そのことを気にすることもなく、杉崎は店の中に入った。
(・・・・・狭い)
 畳で言えば10畳ほどか。
薄暗い店内には所狭しと棚が置かれ、そこには杉崎の人生で今まで見たことのないものがずらりと置かれていた。
それがどんな目的で使用するものなのか、こうして見た限りではよく分からない。ただ、明らかに見覚えのある形のものに眉を顰
めていると、
 「何をお探しですか」
のっそりと、背後から声を掛けられた。
 「・・・・・」
 杉崎が振り向くと、そこにいたのは自分と同じくらいの歳格好の男だ。
ラフなシャツにジーパンといういでたちで、顔にはファッションなのか不精なのか分からないような髭を生やしている。
 傍から見れば随分怪しげな人物だったが、人を外見で判断してはならないという祖父の教えが身体に沁みついている杉崎は
何時もの調子で男に言った。
 「申し訳ないが、明かりを強くしていただけませんか?」
 「・・・・・は?」
 「こんなに薄暗くては部屋の中が良く見えない。色形はもちろん、新旧を見極めるためにも、この照明では正しい判断が出来
かねるのですが」
 同じくらいの歳格好だと言っても、一応相手に対して敬語を使うのは社会人としての礼儀だ。
ただし、胸を張り、高身長から見下ろすような形で言えば、男は頭を掻きながら申し訳ありませんと謝罪してきた。
 「うちはこの照明が一番明るいんで」
 「・・・・・」
 「お客さん?」
 「では、商品を店外に持ち出しても構いませんか?まだ明るいので外の方がよく分かる」
 「ちょ、ちょっと、それは・・・・・。さすがにうちの商品を堂々と外で晒されるのは不味いですよ」
 「・・・・・それは、自社の製品に自信が無いということですが?そんなものを客に提供しようとするなんて、あなたはいったい商売
というものをどう考えているんです」
 オドオドした口調に、杉崎の眉間の皺は一気に深くなった。
いい加減な性格とはいえ、溝部に紹介されたこの店にはある程度の信頼感を感じていたというのに、今の言葉ではとても信頼と
いう言葉が当てはまらない。
 それに、どうみても商品の並べ方が雑だ。
杉崎自身、整理整頓には自信は無かったが、これでも三郎に鍛えられて随分と能力は向上しているのだ。
(田中が見たら、おおいに嘆いて整理させて欲しいと訴えるだろうな)




 腕を組み、店の入口で仁王立ちをしていた杉崎を、男はちょっと奥にと引っ張っていった。
狭い店内の奥には畳二畳分の事務スペースがあり、そこは蛍光灯の明かりで男の顔も随分はっきりと見ることが出来た。
 そうすると、同世代だと思っていた男が随分若かったことに気づく。自分に近いというよりも、教え子の大学生の方に年齢が近
そうだ。
 「・・・・・君がこの店のオーナーか?」
 「・・・・・雇われですけどね」
 苦く笑う男に、杉崎は言葉を続ける。
 「その歳で店の経営を任されていることは誇りに思っていい。自身を卑下して言うことはない」
杉崎とはまったく職種も違うし、はっきり言って何をやっているのかいまだよく分からないものの、一つの仕事を懸命にやっている
者を責めるつもりは無かった。
 そんな杉崎の気持ちがわかったのかどうか、男はしばらくして深く息をつくと、ありがとうございますと小さく礼を言う。
 「今まで、そんな風に言ってもらったことなんかなくて・・・・・」
 「そうなのか?」
 「なんだか、気持ちがすっきりとしました。今回は俺の奢りなんで、ぜひ、うちの商品を貰って行って下さい」
 「いや、きちんと代金は払わせていただく」
何もしていないのに、貰うことは出来ない。
杉崎はそうきっぱりと言うと、今度はもう一枚のメモに視線を落とした。
 「それで、この店には《アナルパートナー》というものはあるだろうか?」
 アナルという言葉が少々引っ掛かるものの、パートナーというだけになにか2人の関係を良くするものがあるのではないかと思う。
ニヤニヤと笑っていた溝部の思惑も気にはなったが、少しでも三郎との愛情を深めることが出来るならと、そういた方面には詳し
い溝部の言葉を信じたのだ。
 「・・・・・えっと」
 しかし、なぜか、男は戸惑った眼差しを向けてくる。
 「あ、あなたのパートナーって、女性です、よね?」
 「私の婚約者は男性だ」
間違えるなと胸を張って言う杉崎に、男はそうですかと乾いた笑いを浮かべた。

 何も分からないまま、溝部に教えてもらった商品名を言った杉崎は、差し出された商品と男の説明にさすがに呆気に取られて
しまった。
確かに、三郎とスムーズにセックスをするためにはどうすればいいのかというようなことを話したが、こんな怪しげな道具を教えて欲
しいとは考えてもいなかった。
 「だいたい、これはピンクローターと言っているが、ピンク色ではないじゃないか」
 「いえ、だから色の意味じゃないんですけど・・・・・」
 困ったような男に、ここまで聞いてしまっては最後まで聞かなくては気が済まなくて、杉崎は様々な性具の名とその使用法を聞
いた。まさに、深い世界だ。
すべてがセックスに関する道具ばかりで、人によっては役に立つものかもしれないが、杉崎は三郎に対して溢れるばかりの愛情が
あるので道具など必要なかった。
 だが、もしもこれで三郎が喜んだらと思うと、このまま背中を向けて店を出るという選択は少し横に置いた。
 「この店の名前は《baiser》だが、商品の種類で言うと何を売っているんだ?」
 「・・・・・大人のオモチャです」
 「大人の・・・・・オモチャ」
その時杉崎は溝部の笑い声が耳元で聞こえたような気がした。きっと今の杉崎の表情を間近で見たかったと思っているだろう。
(いったい、何を企んでいたんだ、あの人は・・・・・)






                                        






杉崎&サブちゃん。

本編終了後、間もない(一か月)話です。