peril point
10
目が覚めた時から、静はまるで王子様のような待遇だった。
自然と目が覚めるまでぐっすりと寝かせてもらい(目覚めたのは午前10時をとうに過ぎていた)、起きた瞬間優しい江坂の口付け
を受けた。
「ご、ごめんなさい」
「いいえ。あなたの世話をするのは楽しいですから」
夕べ、セックスしたまま眠ってしまったのだが、その身体の後始末は起きた時に全て終わっていた。
起きて直ぐに一糸纏わない姿だったのにはさすがに赤面するしかなかったが、江坂は静の胸元に口付けを落としながら疲れていま
せんかと聞いてきて、肌触りの良いシルクのパジャマを着せてくれた。
「あ、あの、全部江坂さんが・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・あの?」
「夜が明けてしまうと、やっぱり呼び方は戻ってしまいますね」
「あ・・・・・」
ああいう行為の最中でしかなかなか江坂の下の名前を呼べない自分を自覚している静は、とっさに言い訳を口にしようとしたが
何と言っていいのか分からなかった。
初めて会った時から比べれば、江坂への気持ちはとても深くなっている。
それでも、最初のイメージがあるし、何より江坂自身が静に対して丁寧語で話し掛けてくれるので、どうしても静も改まった口調
が直らないのだ。
「まあ、それも慣れかもしれませんね。楽しみに待つことにしましょう」
静が困ってしまったのを察したのか江坂は宥めるようにそう言うと、パジャマを着た身体を軽々と抱き上げた。
「わあ・・・・・美味しそう」
キッチンのテーブルに静の身体を下ろした江坂は、予め用意をしておいた朝食を次々に並べた。
静が好きなアップルティーに。
静が好きな店のクロワッサン。
野菜がたっぷりのスープと。
少し固めのベーコンエッグ。
昼に近いが、起き抜けの静はそれ程量を食べるわけではないだろうしと、江坂が用意したのは作ったともいえない簡単なメニュ
ーばかりだ。
しかし、静は嬉しいと顔を綻ばせて、早速というように食事を始めた。
「どうですか?」
「美味しいです、すごく!」
「本当はパンも焼けたらいいんですけどね」
「今度一緒に挑戦してみませんか?パン作りの機械もあるみたいだし、工作みたいで楽しいかもしれませんよ?」
「そうですね」
料理は、決められた分量を決められた手順で作ればそれなりのものが出来る。
江坂は得意というわけではないが、静に食べさせたいという気持ちで料理を作っていた。あまり興味がないのでレパートリーは多く
ないが、静と一緒に作るのならばまた違った気持ちで取り組めるかもしれない。
「じゃあ、その機械も買いましょう」
「あ、一緒に」
「え?」
「一緒に選びましょう」
「・・・・・ええ、一緒に」
江坂の答えに満足したように笑った静は食事を再開した。
その表情を見れば、どうやら昨日のショックはそれ程残っていないように見える。もちろん、全く何も・・・・・と、言うわけには行かな
いだろうが、江坂に感じ取れないならばそれほど心配することもないだろう。
どちらにせよ、あんなくだらないことで静の心に傷を残す事は許されないし、江坂はそれ程自分に力が無いとも思っていなかった。
昼から、どうしても出席しなければならない講義が1つだけあった静は、江坂が車で大学まで送ってくれることになった。
何時もは朝から晩まで、倒れないかというくらい忙しい江坂の午前中を自分のせいで潰してしまった静は申し訳ないからと断った
が、江坂は今日1日は休みを取ったからと笑っていた。
「・・・・・俺のせいで・・・・・」
「違います。夕べ、用があるとはいえ、静さんを1人で留守番させてしまったでしょう?その罪滅ぼしというか・・・・・いえ、単に私
が静さんの側にいたいからですよ」
「・・・・・」
それも、結局は自分の為だと思ったが、静はもうそれを口にしない方がいいと思った。
昨日あんなことがあって、江坂には随分心配を掛けてしまった。本当は聞きたいことは山積みで、疑問に思うことも多々あるが、
それを江坂に聞くのは筋違いかもしれない。
「あ」
「・・・・・昨日は、申し訳ありませんでした」
江坂と一緒に地下駐車場に向かうと、何時もの車の前で何時もと変わらずに氷室が立っていた。
その顔には昨日の格闘のせいの青痣があったものの、それ以外の大きな傷のようなものは見当たらない。静はパッと江坂を振り
返った。
「江坂さん」
「行きましょうか」
「・・・・・はい」
(良かった・・・・・)
昨日のことは静の、自分自身が考えが浅かったせいでのことだが、江坂からすれば護衛としての氷室の力不足と取ったかもし
れず、何らかの処分がされていたらと心配だったのだ。
しかし、氷室が変わらずにここにいるということは、江坂の怒りは氷室には行かなかったということだろう。そのことに本当に安心し
て、静は江坂に感謝を込めた眼差しを向けた。
「講義が終わるまで、構内のカフェで待ってますよ。その後買い物でもして、そのまま食事に行きましょう」
「買い物って・・・・・」
「パン、作るんでしょう?」
「あ、はい、そうですね」
朝の言葉をちゃんと覚えてくれていた江坂に笑顔を向け、静は氷室が開いてくれた車の後部座席に、江坂に続いて乗り込む。
(もう、大丈夫・・・・・だよな)
気になっていたあの視線ももう感じることは無いと、静は確信にも似た思いを抱いた。
静を講義に送り出した江坂は、そのまま構内の駐車場まで車に乗っていった。
本来なら静について行くはずの氷室だが、今日は別の護衛が3人、教室の内外で静を守ることになっている。
「・・・・・」
そして、駐車場に車を停めた氷室は、そのまま運転席から下り、後部座席のドアを開くとそのまま直立不動で立った。駐車場
には他に人影は無い。
「・・・・・」
江坂は車から降り、目の前に立つ氷室を見た。
「申し訳ありませんでした」
氷室は深く頭を下げる。長身の江坂よりもまだ身長の高い氷室だが、存在感では江坂の方が遥かに大きかった。
「アクシデントは避けられない」
「・・・・・」
「それでも、自分が何をすべきかは分かっているな?」
「・・・・・はい」
昨夜の時点で氷室への処罰は決めていなかった。
橘は穏便にとは言わなかったし、江坂も静が助かったからといって無かったことにするつもりは無い。役目を与えているのは相手を
信用しているからこそで、たとえ結果的に何も無かったとしても、静が危険な目に遭ったことは事実だった。
本来は指を詰めるほどの失態であったが、江坂はそんな時代錯誤の責任の取り方はさせない。その指1本で働きが鈍れば馬
鹿らしいだけだ。
「二度は無い」
「はい」
「これはお前を許したわけではない。この先ずっと自分は試されていると思え」
「はい」
氷室を破門することは容易い。この男は有能な男だが、今の時点ではそれは捜せば必ずどこかにいるだろうと思える存在だ。
しかし、氷室が突然姿を消せば、静に罪悪感が生まれてしまう。男が責任を取らされたのは自分のせいだと、静の脳裏から氷室
の存在が消えることは永遠になくなるだろう。
それは、許せないことだ。
それならば、今回のことを枷として、今度こそ命懸けで静を守らせる方がいい。
もちろん、次に同じことがあればこんな甘い処分では済まないだろうが、同じ間違いを繰り返すほどの馬鹿な部下を使っているつ
もりは無かった。
「行くぞ」
「はい」
静の講義が終わるまで、江坂は約束通りカフェで待つつもりだ。言葉だけでも、静には嘘はつけない。
溜まっているはずの仕事はノートパソコンで出来るだけ処理をすればいいと、江坂は何時もと変わらない表情で歩き始めた。
講義が終わった瞬間、何時もはのんびりと後片付けをする静だったが、珍しく急いで手を動かした。
(早くしないとっ)
きっと江坂は約束通りカフェで待っていてくれているはずだ。あそこはコーヒーは学生にとってはありがたい価格でそれなりの味だが、
口が肥えている江坂にはきっと合わないだろう。
それに、あれだけ目立つ容姿をしている江坂を見れば、積極的な女子学生は必ず声を掛けるはずで・・・・・。
(・・・・・やだ)
江坂がそんな誘惑にはのらないだろうということが分かっていても、想像するだけで面白くなかった。
「あ、静!」
急いで教室を出た静は、そこで基紀に出会った。たった数日だが、何だか久し振りに会った気がする。
「講義?」
「うん、次。あ」
「え?」
「例の視線、彼に相談した?」
「あ・・・・・」
(そういえば、あの時・・・・・)
静が気になる視線があると言った時、心配して恋人(江坂の事だ)に相談した方がいいと勧めてくれたのは基紀だった。
その時まで、自分の思い違いか、それとも自意識過剰かと思い込もうとしていた自分の気持ちを揺り動かしてくれたのは確かに
基紀の言葉で、その結果何とか何も無く(多少はあったが)済んだ。
「基紀!」
「うわあっ!」
いきなり基紀に抱きついた静を、周りの生徒達は驚いたように見ている。
人形のような容姿とは裏腹に、のんびりとマイペースな静がこんなに感情を露にすることは滅多に無いからだ。
「ど、どうしたんだよ?」
「基紀のおかげだよ、ありがとう!」
「え?な、何のこと?」
彼にとっては友達を思っての素直な言葉だったかもしれないが、昨日の誘拐未遂を経験した静にとっては大きくて意味のある
言葉だった。
嬉しくなって何度も礼を繰り返す静に、最後は基紀も背中に手を回してきてパンパンと宥めるように叩いてくれた。
(・・・・・いたっ)
基紀に会って少し時間を取ってしまった静が慌ててカフェに駆けつけると、窓辺の席にパソコンを開いている江坂の姿が直ぐに目
に入ってきた。
案の定幾つもの熱い女子生徒の視線が向けられているが、江坂の表情は冷淡そのもので、彼が全く意識をしていないことが分
かる。
「・・・・・」
その江坂が、まるで静の視線に気付いたようにタイミングよく顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
その魅力的な表情に更に回りはざわめいているが、江坂の視線は静だけに向けられている。それがくすぐったくて嬉しくて、静も自
然に頬に笑みを浮かべながら江坂に近付いた。
「待たせてすみません」
「いいえ」
穏やかにそう言った江坂は、何かを言いたそうな眼差しを向けてきた。
(何?)
全く想像が付かない静が首を傾げると、江坂は苦笑を浮かべながら口を開いた。
「さっき、噂が聞こえたんですよ。静さんが誰かと抱き合っているって」
「え?」
「本当ですか?」
何のことだろうと焦って考えた静は、直ぐにそれが基紀との抱擁のことだと気が付いた。あれは友人同士のじゃれあいのようなも
ので、それもたった今のことなのに、ここにいる江坂の耳に届く噂になっているとは驚きだ。
「静さん?」
噂というものの早さに目を丸くして感心していた静だったが、江坂の眼差しに直ぐに首を横に振った。
「それ、友達です。今回のことで助言してくれたから」
「助言?」
「視線のこと、江坂さんに相談した方がいいって言ってくれたんです」
「それは・・・・・私もお礼を言いたいですね」
江坂としてはごく当たり前の行動なのかもしれないが・・・・・それを想像した静は思わず眉間に皺を寄せてしまう。
「・・・・・駄目」
「どうしてです?」
「基紀・・・・・面食いだから。江坂さんのこと気に入っちゃったら・・・・・困るし」
最後の方は小さな声になってしまったが、江坂の耳には届いたらしく、その表情は先程よりもさらに深い笑みに変わった。
「静さんの妬きもちなら嬉しいですけどね」
「・・・・・」
(妬きもち・・・・・)
自分の今の感情がその言葉に変わるのかと、静は恥ずかしくてたまらない。それでも、そんな自分の感情を江坂が嬉しいと言って
くれるのなら、隠すのは止めようと思う。
江坂の差し出した手に、静は素直に手を重ねた。自分達が立ち去ったその瞬間から、様々な妄想や噂が広まってしまうだろう
が、江坂が自分のものだと言いたい位の静はそれでもまあいいかと思った。
そして、
「行きましょう」
この大学の中の誰もが見たことも無い鮮やかな笑顔を江坂にだけ向けて、静は笑いながら言った。
静と共に歩き出した江坂は、一瞬だけざわつくカフェに視線を流す。
その射るような眼差しにその場が静まり返ったのに目を細めると、江坂は華奢な静の肩を見せ付けるように抱きしめて自分へと引
き寄せた。
end
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完結です、お付き合いありがとうございました。