正しい犬の飼い方







                                                           
「ライバル犬・前」編





 『今日は外に泊まるから』
 「え・・・・・?」
 宗岡哲生(むねおか てつお)はいきなり掛かってきた愛しい相手からの電話の用件に、思わず着ていたマイエプロンを握り締め
て声を失ってしまった。
 「で、でも、今日は裕さんの好きな茶碗蒸し、作ったし・・・・・」
 『仕事で忙しいお前を休ませてやろうとしているんだ、嬉しいだろう?』
 「・・・・・」
(お、怒ってるんだ・・・・・)
その言葉に含まれた意味に、さすがの宗岡も気付かないではいられなかった。



 宗岡は今年の夏に28歳になった、職業は警視庁交通機動隊の白バイ隊員だ。
一応公務員ではあるが、警察官ゆえに緊急出動も多く、つい2日前、恋人がせっかく外での食事をOKしてくれたというのに、緊
急出動のせいでドタキャンしてしまったのだ。
 もちろん後で直ぐに何度も謝り、恋人は仕事だからと笑いながら許してくれたのだが・・・・・もしかしてあの時の事を本当は許し
てくれていなかったのかもしれない。
 「あ、あの、裕さん」
 『ああ、悪い、連れが来たから切るぞ』
 「ま、待って!どこにいるんだよ!」
 『聞いてどうするんだ?』
 「・・・・・迎えに行く!」
きっぱりと言い切った宗岡に、電話の向こうで笑う気配がした。
 『何匹か犬がいるんだ。私と暮らしているお前に嫉妬しているから咬まれるかもしれないぞ?それでもいいのか?』





 宗岡の恋人は、とても変わった人物だった。
容姿も容貌も美しい。
頭だっていい。
ただ性格は歪んでいて、自分にとって好む相手に対しては、からかったり苛めたりする事が大好きで。
嫌いな相手はとことん精神的に追い詰めていくという、いわゆる・・・・・Sな性格なのだ。
 宗岡も、自分の気持ちをちゃんと受け止めてもらうまではかなり苛められたし、なかなか本気になってもらえなかった。
それは自分が相手より年下だからという理由だけではなく、多分、自分の職業も関係あったのだと今なら思う。
警察官である自分を嫌う・・・・・それは、相手が警察官とは対立する立場であるヤクザの幹部だったからだ。

 小田切裕(おだぎり ゆたか)。
宗岡の一目惚れで好きになった相手は、羽生会という組の幹部で・・・・・男だった。
それまで宗岡は男と付き合ってきたことなど無いし、もちろんヤクザに知り合いなどはおらず、偶然再会した小田切と寝てしまった
後にそのことを聞かされた。
 驚かなかったといえば・・・・・嘘になる。
しかし、それ以上に、既に宗岡の中では小田切は忘れることなど出来ない存在になってしまって、付き合って欲しいと伝えること
に躊躇いなどは無かった。

 小田切は確かに意地悪な男だったが、自分以上に2人の関係に悩んでくれたようだ。
警察官と、ヤクザ。
もしも恋人関係(恋人だといってもいいのかどうか分からないが)だということが知られれば、その世界である程度の地位にいる小
田切よりも、まだ下っ端の警察官である宗岡の方が困るのは明白だった。
 宗岡は、バイクが好きだったし、警察官という仕事も好きだ。
しかし、それ以上に小田切の事を好きになってしまった宗岡は、もしも小田切と付き合っていることがバレて非難されたとしても、
真正面から受け入れる覚悟は出来ていた。

 そんな自分の愛情を信じてくれたのかどうかは分からないが、今現在宗岡は小田切のマンションに居候として暮らしている。
職場の人間に知られても困らないように、小田切は同じマンションの別の一室を購入したようだが、宗岡からすればそれは勿体
無いと思うことだし、自分は小田切の側を離れるつもりは無いので、その部屋は要らないともう何度も言っているのだが・・・・・小
田切は笑ったまま、

 「あっても困らないだろう」

そう、言うだけだった。
優しい人だと思う。
たとえ誰が小田切の事を非難したとしても、宗岡は彼の分かりにくい愛情をちゃんと受け止めているという自信があった。





 そうして、やっと小田切を手に入れたと思っていた宗岡だったが、成人した男の時間はそれほど自由なものではなかった。
基本は定時に帰れる宗岡も、緊急の出動が頻繁にあるし、ヤクザの幹部の小田切は自分以上にスケジュールが詰まっていて、
日付が変わって帰る事もしばしばだった。
 お互いにお互いの仕事のことには一切口を出さないという暗黙のルールのようなものがあるので宗岡も何も言えないが、何時
小田切が身体を壊してしまうだろうかと心配でたまらなかった。

 それに。
宗岡にとってはもう一つ・・・・・いや最も懸念となることが一つあった。
それは、【犬】だ。
 小田切はよく宗岡の事を犬に例えて、宗岡もそんな屈折した表現を嫌だとは思わないが、小田切にはどうやら自分以外にも何
匹かの【犬】がいるらしいということがどうも引っ掛かっていた。
もちろん、この場合の犬は本当の犬ではなくて、人間だ。
そして、小田切がそんな表現をするということは、何らかの形で小田切と深い関係になった相手・・・・・そう思うのが普通だろう。
 今は、小田切は自分がいるこのマンションに帰ってきてくれるが、彼ほど美人で、頭が良くて、そして気紛れな人が何時までも自
分1人で満足してくれるだろうか。
いや、もしかしたら今現在も、他の犬をどこかで飼っているのではないか。

 小田切が誰かを犬に例えるのは愛情表現からだ。
そんな小田切の愛情を自分以外の誰が、何人が、与えられているのかと想像するだけで、宗岡の胸は嫉妬で焼きつきそうだ。
顔も見えない、それでも確かに存在している小田切の【犬】。
宗岡はその相手をちゃんと見て、蹴散らしてしまいたいと思っていた。







 自分のドタキャンを予想以上に怒っているらしい(数からすれば、小田切がキャンセルする回数の方が遥かに多いのだが)小田
切が、自分以外の人間と夜を共にする。
そう考えるとたまらなく苦しくて、宗岡はエプロンを取っただけの普段着のまま、小田切が教えてくれた場所にバイクで向かった。
(まだ部屋には入ってないよなっ)

 最高級ホテルのラウンジ。

何時、そのまま部屋に行ってしまうか分からない場所だ。
とにかく自分以外の手が小田切に触れることはどうしても嫌で、宗岡は多少のスピード違反を犯しながらバイクを走らせていた。



 ホテルマンには、普通のシャツにジーパン姿の自分を怪訝そうに見られてしまったが、今更他人の視線などは関係なかった。
チラッと見た腕時計の針は、先程小田切の電話を切ってからジャスト30分だ。
(遅かった・・・・・か?)
イライラする思いでエレベーターに乗り、そのまま最上階のラウンジへと向かう。
昨日は自分が夜勤の為に、今日はまだ小田切の顔を見ていない。
あの綺麗な顔で、少し笑いながら、

 「テツオ」

そう、早く呼んで欲しかった。



 「お客様」
 ラウンジの入口で、さすがに宗岡は止められてしまった。
それは服装のせいというよりは、自分でも気付かないほどの剣呑な表情をしていたからかもしれない。
ここで揉め事を起こされても困ると言いたげなボーイに、宗岡は意識して大きな深呼吸をしてから笑い掛けた。
 「連れが、いると思うんですが」
 「お連れ様ですか?」
 「小田切というんですが」
 「宗岡様でいらっしゃいますか?」
 意外にも、小田切は宗岡が来ることをボーイに伝えてくれていたらしく、小田切の連れだと分かった瞬間にその態度も表情も面
白いほどに一転した。
 「奥でお待ちです、どうぞ」
 「はい」
 靴音などしない絨毯の上を歩きながら、宗岡はいっそ走りたいと思う気持ちを必死に抑えていた。
小田切と付き合うようになってから、こういった高級な場所には来るようになったが、自分には分不相応だと思って今だ慣れるとい
うことは無かった。
しかし今は早く小田切の顔を見たくて、そんなことなど頭の中から全く消え去っていた。



 「こちらです」
 案内されたのは、ラウンジの奥にある個室・・・・・多分VIP待遇の人間が使う場所なのだろう。
ボーイが入口で、小さなインターホンに向かって言った。
 「お連れ様の宗岡様がいらっしゃいました」
 少しの間の後、鍵を開けるような小さな音がしてドアが開かれた。
 「ここでいい」
ドアを開けた男が言うと、ボーイは一礼して踵を返す。
そんな様子など全く視界に入らなかった宗岡は、自分の目の前にいる男を目を見開いて見つめていた。
(こいつ・・・・・俳優の白瀬(しらせ)だ)
 今年30歳になる俳優の白瀬諒(しらせ りょう)は、両親共に役者という、サラブレッドな存在だった。
ノーブルな容貌は貴公子といわれ、先日ハリウッドの映画にも出たという、若手の中では頭一つ飛び出した売り出し中の男だ。
 「・・・・・ふ〜ん」
白瀬は、宗岡の頭から足先までゆっくりと視線を動かして・・・・・口元を緩めた。
馬鹿にされたのだと思った宗岡は拳を握り締めるが、ここで騒ぎを起こせば小田切の迷惑になってしまう。
 「よく来たな」
ブランドスーツをお洒落に着こなした白瀬が口を開いた。
 「来るとは思わなかった」
 「・・・・・裕さんは?」
 「・・・・・」
 「裕さんは、中にいますか」
 体育会系の性か、年上に対してはどうしても敬語になってしまうものの、宗岡は言葉の中に自分の小田切への所有権をきっぱ
りとはめ込んで言った。
自分は小田切に名前で呼ぶことを許されているのだというように。
そんな宗岡をじっと見つめた白瀬は、更にドアを大きく開けた。
 「どうぞ」
 「・・・・・」
 ・・・・・中は、想像していたような薄暗い空間ではなった。
少し短い廊下があって、そこに更にドアがある。
宗岡は軽くドアをノックすると、中から答えが返る前に開いて足を踏み入れた。
 「早かったな、テツオ。もしかしてスピード違反でもしたか?」
 「裕さん・・・・・」
楽しそうに笑う小田切の周りには、4人の男が悠然とソファに座っていた。