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 「コンちゃん、バイバ〜イ!」
 「寄り道しないで帰るんだぞ!」
 「なに、それ、小学生じゃないんだからさ〜」
 何が楽しかったのか、縦も横も立派な男と遜色しないほど育った教え子は、その笑顔だけは子供っぽいまま雅人の頭をクシャッ
と撫でて帰っていく。
 「じゃ〜ね〜、コンちゃん!」
まるでそれが合図だったかのように次々と頭を撫でられたり背中を叩かれたりして、その都度反応していた雅人は虚しくなって止
めた。
(ったく、育ち過ぎなんだってば)

 都内の公立高校である瑛林(えいりん)高校の日本史の教師、紺野雅人(こんの まさと)は、今年2年生を担任していた。
1年生ほど初々しくなく、3年生のように受験を気にする者も少ない、微妙にまったりとした2年生達は、こちらが何を言っても笑
いながら聞き返してしまう。それは雅人が教師らしくないというのも大きな問題かもしれなかった。
 体格は平均より小さく見えるし、顔も童顔で、大人っぽく見せるために掛けている伊達眼鏡も返って逆効果。
元は男子校で、今も女子の数が少ない中、同じように小柄な雅人にとっては、周りはもう林だらけだといってもいいくらい体格の
良い生徒ばかりで、日々舐められないように奮闘していた。




 教室から職員室に向かっていた雅人は、ポケットの中に入れていた携帯が震えるのに気付いた。
生徒に学校内での携帯使用は極力禁止だと言っているので、雅人も出来るだけ生徒がいる場所ではそれを使わないようにして
いる。ただ、生徒の問題行動でも連絡がある場合があるので、折り返し直ぐに掛けなおしてはいた。
 職員室ではなく、途中の資料室に立ち寄った雅人は携帯を開き、その着信の名前を見て思わず苦笑を零してしまう。心配し
ていたような電話ではなかったが、これもある意味、雅人にとっては大切な相手からのものだった。
 「えっと」
 掛かってきた番号にそのまま掛けなおすと、相手は直ぐに出る。
 【忙しいのか】
 「いいえ、廊下にいたので移動しました」
 【今日、時間は空いているか】
電話の主はあくまでもこちら側に都合を訊ねているのだろうが、その物言いと声の響きは絶対に空けろと言っているように聞こえて
しまう。
前はどうして自分などにと戸惑うことも多かったが、こんな風な付き合いを始めて一年以上経った今では、雅人も相手の性格を
少しは分かっていた。
 「空いてますよ。何時にしますか?」
 【6時半に迎えにいく。何時もの所で】
 「はい」
 電話は用件のみで切れてしまった。
 「・・・・・忙しいのかな」
携帯の時間を確認すれば、そろそろ午後3時半になろうとしている。
約束までには後3時間、様々な雑用をしていればあっという間に時間は過ぎてしまうだろう。
 「10日振りか」
 一ヶ月に4、5回、何らかの理由で会っていたことを思えば、少し間が空いた。
教師の自分も人が思う以上に忙しいが、今から会う相手はその比ではないくらい忙しい仕事をしている。だからというわけでもな
いが、雅人は無理をしていないだろうかとその方が気になってしまうのだ。

 「少しは自分のことを考えろ」

 生徒や学校のことばかりを考えている雅人にそう言った彼は、その雅人が己のことも気にしていると知ったらどんな顔をするだろ
うか。あまり感情を表に出さないが、もしかしたら苦々しい顔をされるかもしれない。
(でも、そう思うんだもんなあ)
心配性は生まれつきだから仕方が無いと、雅人は携帯をポケットにしまって資料室を出た。




 夏休み明け、そして試験前の9月半ばは比較的時間が空いている。後もう少しすれば、中間試験の問題作りで、徹夜にな
る日々もあるのだが。
 今日も午後6時過ぎには学校を出ることが出来たので、雅人は何時もの待ち合わせ場所である学校から5分ほど歩いたバス
停のベンチに腰を下ろした。部活帰りの生徒が帰るには少し早いので、視界に入る範囲には生徒の姿は無い。
 「まだ熱いよな〜」
 残暑がきついものの、教師という職業なのでネクタイにスーツは必須だ。ただし、さすがに上着は脱いでもいいので、鞄の上に置
いて、だらーとベンチの背に身体を預けた。
 「夕飯、どうするんだろ」
(今日は俺が奢りたいけど・・・・・)
 「あの人の口に合うのって、結構難しいんだよなあ」
 ごく一般的な二十代の男が行く店しか知らない雅人は、何時もそこで悩んでいた。
相手はエリートと呼ばれる職業で、家もかなり立派らしい。本人もどこか浮世離れして見えるので、彼が連れて行ってくれる店は
雅人が自分では絶対に選ばないような高級店ばかりだった。
 さすがに自身も働いているので奢られてばかりはと、雅人も毎回今度は自分がと言うのだが、彼はなかなか頷いてくれない。
 「歳の差があるから仕方がないかも」
自分とはあまりに違う彼、宇佐見貴継(うさみ たかつぐ)のことを考え、本当に不思議な縁だよなあと思わず笑ってしまった。

 知り合ったのは去年の夏の夏休み。
夏休み中の繁華街のパトロール中、いかにもな男達に絡まれている生徒を見つけた雅人が、助けるつもりが自分まで追い詰め
られてしまった時、突然姿を現して助けてくれた。
 隙の無いスーツ姿と、男らしい美貌。そして、感情の動きが全く分からない冷たい眼差し。
それは彼の職業を聞いて、初めて納得出来るものだった。

 警視庁組織犯罪対策部第三課、警視正、宇佐見貴継(うさみ たかつぐ)。
そこは暴力団などを取り締まる課で、その中でも宇佐見はかなり上の位置にいるらしい。
 本来なら、それで終わるはずだった出来事は、その後偶然に宇佐見に会ったことで少しずつ変化していった。
雅人のことを面白いと思ったのか、単に一時の息抜きの相手のつもりか、宇佐見は雅人の勤める学校にまでやってきて・・・・・そ
れからはまあ、知人以上、友人未満の付き合いをしている。

 友人と言い切れないのは歳の差もあるが、雅人の気持ちの中で宇佐見への感情が友人とは少し違うような気がしていたから
だ。
会えなかったら寂しいし、どうしているのかなと思う。
彼の豊かな知識にはとても驚かされるものの、一方で誰もが知っているようなことを知らない世間知らずな所を危なかしくも思い、
感情を見せない彼が心配でたまらなかった。
 自分が彼に向けているのは友情なのか、それとも。
ここのところ、雅人はよくそんなことを考えて、深い思考の波に埋もれていた。

 「雅人」
 「・・・・・あ」
 また考え込んでいたらしい、雅人は肩を揺すられてハッと顔を上げると、そこには今の今まで考えていた宇佐見が立っていた。
 「こんにちは」
次に口をついて出たのはそんな言葉で、眉を顰めた宇佐見に腕を掴んで立ち上がらせられた。
 「何時からここにいた?」
 「え・・・・・6時過ぎ、です」
 「馬鹿が。こんなところで転寝をして風邪を引いたらどうする」
 「うわっ」
 寝てはいなかったが、目を閉じていたのでそんな誤解をしたのかもしれない。
宇佐見は腕から手を離し、今度は肩を抱き寄せてきて、直ぐ傍に停めてあった車へと連れて行かれた。




 助手席には何時もの顔がある。雅人は慌てて頭を下げた。
 「こんにちは、塚越(つかこし)さん」
 「お疲れ様です、紺野さん」
塚越は宇佐見の補佐をしている男だ。穏やかな物腰と、案外下世話なことを良く知っているので、雅人とも話が合って会話が
弾むこともしばしばだ。
 その時、宇佐見が置いていかれた子供のような表情をしたりして、何だか申し訳ない気分になってしまうのも毎回のことなのだ
が、宇佐見と2人きりの空間よりは、塚越がいてくれる方が何だか気が楽だった。
 「忙しくなかったか」
 車が走り出してしばらくして、宇佐見がこう声を掛けてきた。
 「いいえ、今は比較的暇な時期です」
 「それなら良かった」
 「宇佐見さんこそ忙しいんじゃないんですか?」
 「私か?・・・・・仕事は確かに忙しかったが・・・・・」
 「?」
その言い方に何か引っ掛かる響きがあったが、雅人はそれを追求することはしなかった。こういう場合、雅人がどんな風に言っても
宇佐見が応えてくれることはないと学習しているからだ。
 「和食でいいか?」
 「あ、はい」
 もしかしたら、何か話したいことがあるのかもしれない。
今夜は黙って宇佐見の行動に合わせた方がいいかもしれないと、雅人は子供のように頷いた。




 宇佐見の予約した店は神楽坂の料亭だった。身分不相応だなと思いながらも、雅人はちょこんと座布団の上に座った。
部屋の中は2人きりだ。時々塚越も同席することがあるが、今回は違うらしい。
 「失礼致します」
 次々と運ばれる料理に酒。日本酒は酔ってしまう雅人のためにビールも準備されて、宇佐見がコップにそれを注いでくれた。
 「あ、ありがとうございます」
慌てて、自分も彼の猪口に冷酒を注ぐ。しばらくはそのまま、静かに時が流れた。
 「雅人」
 「はい?」
 「・・・・・私は家を出ることにした」
 「え?」
 独身である宇佐見は、まだ実家暮らしだと聞いた。しかし、広い敷地内の離れのような場所に1人で暮らしているということで、
普通の実家暮らしとは少し違うと感じていたのだが。
(・・・・・あ、もしか、して・・・・・)
 突然家を出る理由。それは、この歳の男にとっては一番大きな理由である・・・・・。
 「け、っこん、するんですか?」
 「結婚?ああ、そう言えば母がしきりに勧めてきたが」
 「違うんですか?」
 「・・・・・先週、帰宅するといきなり見合いをさせられた。そのまま私の寝室に押し込める勢いだったな」
口元を歪めて呟く宇佐見に、雅人はそんなことがあるのかとただ驚くばかりだ。
雅人自身、親から早く身を固めるようにと言われることもあるが、仕事が忙しいと説明をすると渋々だが引き下がってくれる。
まさか実家に見合い相手を呼ぶなんて、そんなウルトラCをするような親でもないので、同じことを心配することはないと思うが、宇
佐見にとったらそれは大きなショックだっただろう。
 「ほとほと、あの人のやり方には呆れた。今まではマンションを探しても直ぐにキャンセルをされたりと妨害されたが、今回は塚越
に全て任せて、バレてしまう前に買ったんだ」
 「か、買ったんですか?」
 「その方が話は早いだろう」
 早いとは思うが、それは元手がある場合に取れる方法だ。
(俺だったら、絶対にローンか賃貸・・・・・)
それでも、宇佐見が選ぶような物件には手が届かないような気がする。
 今週頭、宇佐見は母親が留守の間に引越しを済ませたが、お手伝いさんが知らせて母親は慌てて帰ってきたらしい。
その時になって初めてマンションの話をすれば、半狂乱になってしまったようだ。
 「子育てもろくにしたことが無いくせに、子供を所有物のように見ているなんて最悪だ」
 「宇佐見さん・・・・・」
 それでも、実の母親のそんな姿を見るのは辛かったんじゃないだろうか。
 「直ぐに売り出してやると息巻いたので、部屋の一部を知り合いに貸しているから無駄だと言った」
 「・・・・・そんな嘘、信じてもらえたんですか?」
 「嘘で無くなればいいだろう。雅人、お前が引っ越して来たらいい」
 「はあ?」
唐突な話の流れに、雅人は目を瞠ってしまった。
 「高校教師で人柄も良い、何より男だ。これ以上ない人選だろう」
 「お、俺なんかより塚越さんとかの方がっ」
 「部下を選べば上から圧力がかかる。私の仕事に何の関係も無い相手がいいんだ。雅人」
こんな時に名前を呼ぶなんて卑怯だと思う。そうでなくても、宇佐見の響きの良い声は耳に心地良くて、雅人は反抗しきれない
のだ。
 「雅人」
(う〜・・・・・そんなふうに呼ぶなんて〜)
 雅人と、名前で呼んでいいと言ったのは自分なのに、実際にそう呼ばれてしまうと・・・・・。
 「雅人、駄目か」
訊ねているのに、もうそれは決定事項のような響きを持っている。さすがに警察の、それも上に立つ人は違うなと思いながら、それ
でも雅人は少しだけ抵抗するように口を尖らせた。
 「直ぐに引越しは無理ですよ。色々準備もあるし・・・・・」
 「決まりだな」
その答えさえ聞けば何も問題はないという風に、宇佐見は今日始めて目を細めて笑う。そんな顔を見せるのも卑怯だと、雅人は
唸りながらビールを呷った。