RESTART
後 編
「・・・・・公立高校にお勤めでいらっしゃるのね」
「はい」
「お父様はどこにお勤めでいらっしゃるの?」
「父も教師です。小学校のですが」
目の前で繰り広げられている会話に宇佐見は眉を顰めた。
まるで結婚相手の身辺調査をするような母の陰湿な質問に、何の躊躇いも無く答えている雅人に申し訳ない思いが次第に大
きく募っていく。
母に会ってくれと言いはしたものの、彼女の常識の無い態度は簡単に想像出来て、宇佐見は一度その話を白紙に戻そうとし
た。しかし、雅人は構いませんからと言い、それでお母さんが安心されるのなら会った方がいいですよと諭されもした。
そうして、日を決めてこうしてやってきたのだが。
(相変わらず、無駄なことで人の優劣を決めようとしている・・・・・)
雅人の勤めている高校のことだけでなく、その親の職業まで聞く母が恥ずかしくて仕方が無い。
雅人は、こんな親を持つ自分に呆れないのだろうかという不安に襲われた宇佐見だが、表面上雅人はごく穏やかに、母のどんな
質問にも誠実に答えていた。
「全く、この子のやることが分からないんですの。ここまで一緒に暮らしていたのなら、このまま結婚しても構わないはずなのに。
とても良いお話はあるんですけど、どうしても本人が頷かなくて。早く身を固めて子供を作らなければ一人前と思われないと言わ
れるだろうし。紺野さんのお宅はどうなんです?」
「確かに、そう思われる方もいるかもしれませんね」
「そうでしょう?その上私の子育てにも何か言われてしまったら・・・・・」
「い・・・・・」
いい加減にしろと、さすがに宇佐見が言葉を遮ろうとした。自分の家庭の事情を雅人に曝け出してどうなるというのだ。
「お母さんは立派に子育てなさいましたよ」
「え?」
そんな宇佐見の険しい顔に一度笑い掛けた雅人は、そのまま母を真っ直ぐに見つめてそう切り出した。
「ちゃんと育ててこられたからこそ、宇佐見さんは今立派な職業に付いていらっしゃるし」
「あら」
子供と同時に自身も褒められ、母の表情が緩む。
「ですから、お母さんも少し肩の力を抜かれたらどうですか?」
「力を抜くんですか?」
何時の間にか身を乗り出すようにして雅人の話を聞き始める母を、宇佐見は信じられないような思いで見つめた。こんなふうに人
の話を聞く母の姿を初めて見た気がする。
「宇佐見さんも立派な大人の男性です。何時までも親に甘えてばかりはいられないと独立を決意されたのは、それだけ御両親
のことも思っているからだと思いますよ」
「そうかしら」
「私は宇佐見さんのご厚意で間借りをさせてもらいますが、彼に特別な相手が出来たらもちろん直ぐに出ていきます。男の2人
暮らしを心配されるでしょうが、案外部活の合宿みたいに健全でちゃんとした生活が出来ると思うんですけど」
高級住宅地にある宇佐見の実家に案内された時、自分とはあまりに違う世界に思わず口を開けてしまった。
(確かに・・・・・こんなに広い敷地内の離れなら、それだけで一人暮らしみたいなもんだよな)
そもそも宇佐見の仕事はとても忙しいようで、夜も遅くに帰宅し、家にはほとんど寝に帰って来るようなものらしい。
本当は、眠ることが出来て食事まで出してもらえるのならば随分と楽だなと考えるだろうが、宇佐見はそれを苦痛だと思ったのだ
ろう。
この家のことを何も知らない自分には何も言えないなと思っていた雅人だったが、実際に宇佐見の母親に会ってなんだかその理
由が分かったような気がした。
過保護・・・・・とは、また別の、強烈な縛り。子供である宇佐見を個人としてではなく自分の身を飾る物の一つとして思ってい
るらしい親。
そういう親は最近多い。子供は親を選べず、学生である子供達は早く大人になって自立したいと願うが、既に大人である宇佐
見はどうしたらいいのだろうか。
「・・・・・」
雅人はチラッと宇佐見の横顔を見た。
あまり感情の起伏が激しくないのは職業柄かと思っていたが、もしかしたらこの親への反抗の気持ちからかもしれない。
(でも・・・・・無駄だよ、宇佐見さん)
この親には無抵抗の抵抗は、許容にしか映らない。
「どうでしょうか」
だから、雅人は少しでも彼の負担が少なくなるように協力したいと思った。
「そうねえ」
「・・・・・」
「教師というちゃんとした職業をお持ちだし、考えもしっかりなさっているようだし」
独り言のように言った後、目の前の女性は宇佐見へと身体を向けた。
「貴継、家を出ることを許したからといって、あなたの結婚自体を諦めたわけじゃないわよ。これからもお見合いの話はちゃんと受
けて、良い話があったら身を固めること。それが条件です」
「・・・・・」
(なんだか、凄い条件・・・・・)
勝手をされることが嫌で家を出ようとしているのに、結婚のことを盾に取るとは。それこそ子供の人生を左右することなのに、どう
しても支配欲からは脱しきれないらしい。
「私は・・・・・」
案の定、宇佐見は難しい顔をしている。拒絶するんだろうなと思ったが、
「分かりました」
意外にも、彼はその提案を受け入れた。
自身の言い分を通してもらったことで、どうやら母親も渋々とだが独立を認めたらしい。それからは何処に住むのか、どういったマン
ションなのかと、具体的な話に移っていった。
「良かったんですか?」
雅人を送るために車を出した時、彼は心配そうにそう訊ねてきた。それが何を指しているのか分かった宇佐見は、彼に向けてで
はない皮肉気な笑みを口元に浮かべる。
「とりあえず、あの家を出ることが先決だ。雅人の人柄も気に入ったようだし・・・・・それよりも私は、お前があんな風にあの人と
話せることの方が不思議だったが」
息子である宇佐見さえ、時々母が何を言っているのか分からない。
「あなたのためなのよ」
二言目にはそう言って有無を言わさず自身の支配下に置くようにしていた母に向かい、けして非難することなく上手い具合に結
論を誘導していった雅人の手腕にこそ驚いた。
見掛けは童顔で、事実、自分よりかなり下であるが、雅人はちゃんとした社会人・・・・・教師なのだと改めて分かった。
「慣れているといったでしょう?それに、宇佐見さんが生徒じゃないだけやり易かったし」
「そうなのか?」
「生徒に、さっさと家を出て自立しろなんて言えないし」
その時、少しだけ雅人の表情が翳る。きっと、口に出せない忸怩たる思いを抱く場面も多々あるのだろうが、今彼が言ったよう
に自分は大人で、いざとなればあの親と縁を切ったってかまわない覚悟はあった。
「これで、同居の件は問題ないな。ああ、お前の家にも挨拶に行かないと」
「俺の方はいいですよ」
「そういうわけにはいかない。大切な息子さんを預かるんだ」
雅人を見ていれば、どんな風に育てられたのかその背景が見えるような気がする。きっと、宇佐見にとっては居心地が悪い、そ
れでも憧れてしまうような家庭のはずだ。
(・・・・・そうか、多分・・・・・)
また、真琴のことを思い出してしまった。彼に惹かれてしまったのは義兄に対する愛情の深さもあるが、真琴自身の穏やかな雰
囲気も心地良かった。
雅人には、真琴と同じような空気を感じる。いや、既に働いているだけに、雅人の方がもう少し強かな感じがするが。
これから何だか変わりそうな気がする・・・・・その変化を、きっと自分は楽しめるだろうと思った。
インターホンが鳴ったドアを開けると、そこには塚越が立っていた。
「おはようございます、塚越さん」
「おはようございます。警視正は」
「さっきまでずっと水槽を見てたんですよ。なんだか気に入ったみたいで少しも動いてくれなくて・・・・・宇佐見さんっ、塚越さんが
来られましたよ!」
玄関先から叫ぶと、ようやく宇佐見が姿を現した。少し不機嫌そうに見えるのは、途中で楽しみを遮ったせいかもしれない。
(こういうところ、意外に子供っぽいんだよな)
「宇佐見さん、今日お仕事が早く終わるんでしたら、帰りに待ち合わせてペットショップに行きませんか?そこで、水槽の中で飼
うものを一緒に選びましょう?」
そろそろ体育祭や文化祭の準備で雅人も忙しいのだが、宇佐見の機嫌は早いうちに直しておかないと後々まで引きずってし
まうのはこの二週間の同居でよく分かった。
同居初日、朝食の卵焼きが甘いか辛いかで言い合いをしてしまった後、五日連続毎日卵のパックを買って帰られて、冷蔵庫の
中がいっぱいになって困ってしまったのだ。どうやら甘い卵焼きは小学校の頃までいたお手伝いさんの手によるものらしいが、宇佐
見にとってはそれがお袋の味なのだそうだ。
「雅人」
「俺はバスで行きますから」
「・・・・・」
「行ってらっしゃい」
何度か車で一緒に通勤するようにと言われたが、ただの高校教師が運転手つきの車に乗るなんてとんでもない贅沢だし、第
一宇佐見の立場からもまずいと思う。
そう説明しても、毎日こうして声を掛けてくる宇佐見の言葉は密かに嬉しいものだった。
「・・・・・」
「行ってらっしゃい」
「・・・・・行ってくる」
「塚越さん、よろしくお願いします」
何だかこのやり取りは妻が夫を見送るような感じて気恥ずかしい。塚越もそう思っているのか何時も楽しそうに笑っているが、余
計なことは言わないで頭を下げてくれていた。
「・・・・・っし」
宇佐見を見送った雅人は、バタバタと部屋の中を簡単に片付ける。
本当は雅人の方が出勤時間が早いのだが、そんな自分の生活サイクルに宇佐見が合わせてくれて、雅人の方が少し遅いくらい
になっていた。
その代わり、帰りは雅人の方がいくらか早い。そのおかげで、お帰りなさいという言葉が言える。
「・・・・・」
仕度を終え、カーテンを閉めた雅人は、ふと壁際の水槽を見て目を細めた。
「生き物を飼ったことはない」
自宅の飼い犬の話をした時、そう言った宇佐見の目が何だか寂しそうだったので、せっかくだから2人で何か飼わないかと提案し
た。
そうはいっても2人共忙しいので、あまり世話の要らないものにしようと金魚か熱帯魚を飼うことにして、割り勘で水槽を飼ったの
は先週の日曜日。
宇佐見はかなりこの水槽が気に入ったらしく、まだ何も入れていないというのに水を入れてじっと眺めていた。
「何を選ぶんだろうな」
きっと、かなりの時間が掛かりそうだが、それでも自分も楽しみながら待てると思う。宇佐見との生活は始まったばかりだが、雅人
にとってはかなり心地の良いものだった。
何度誘っても車に乗らない雅人。確かに規律違反だが、高校までなのでばれないと思うのだが・・・・・。
(・・・・・こんなふうに思うとはな)
規律を重んじる、どちらかといえば堅い自分が、こうして考えるだけでもたいした変化だ。
「何か飼われるんですか?」
「ああ」
「熱帯魚ですか?」
「まだ決めていない。雅人と選ぶつもりだしな」
今まで生き物を飼ったことが無いと言った自分に、雅人は笑いながらじゃあ飼ってみましょうかと告げた。頻繁に世話をする時間
も無く、その自信もなくて無責任なことは出来ないと渋った自分に、
「世話は2人ですればいいじゃないですか」
と、共同作業を申し出てくれた。
心の中で無理矢理諦めるようにしていた宇佐見はその言葉が嬉しくて・・・・・しかし、どんな風にその嬉しさを表現すればいいの
か分からなくて、変な顔をしたと思う。
先週の日曜日に先ず水槽を買って家に置くと何だかワクワクとしてきて、毎日飽きもせずそれを眺めた。傍から見れば随分とお
かしな光景だろうが、そうしたくてたまらないほどに楽しみなのだ。
「塚越」
「今日は夜に公安との会合がありますが」
「・・・・・」
「腹痛になりますか?」
「・・・・・いや」
前々から決まっていた会合を、私用のために欠席することは出来ない。しかし、一瞬、そうしようかと思ってしまった自分がいて、
宇佐見は少し戸惑ってしまった。
雅人との生活は楽しく、新しい発見も多い。しかし、一方で確実に自分が変わっていくのは・・・・・怖い。
「・・・・・」
宇佐見は窓の外を見る。今まで実家から眺めていた景色は変わって、この景色にはまだ慣れていないが、いずれはこれが日常
になっていくのだろうか。
(雅人に何と言って断ればいいんだ・・・・・?)
意識を他に向けようとしても、何時の間にかこんなふうに雅人の気持ちを考えてしまっている。
「明日は、定時に帰れます」
「・・・・・」
「楽しみが延びましたね」
「・・・・・ああ、そうとも取れるのか」
この歳になっても教えられることは多い。宇佐見は頷くと携帯を取り出してメールを打った。
【今夜は予定があり、遅くなる。楽しみは翌日にまわそう】
色の無い日常に色が付き、眠っていた感情が少しずつ目覚めていくのを宇佐見は感じる。
些細な約束。しかし、自分にとって大きな楽しみは、日々の暮らしの中に散りばめられているものになった。
end
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