竜の王様
第六章 終わりから始まりへ
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※ここでの『』の言葉は日本語です
地下神殿の時空の扉の前には、龍巳と碧香が立っていた。
傍には紅蓮を始め、ここのところずっとこの場にいる青嵐と、黒蓉に白鳴、そして朱里もいる。
『東苑、やはりまだ早いのではないでしょうか・・・・・』
不安そうな眼差しで自分を見上げてくる碧香に、龍巳は苦笑を受かべてしまった。これはもう何度も2人で話し合って決めたことな
のに、ここに至ってどうしても納得が出来ないようだ。
『昂也が心配で待っていても、あいつはそれを喜ばないよ。それに、これは俺達の問題なんだ・・・・・碧香、やっぱり俺と一緒に行
くのは不安?』
『そんなことはありませんっ』
『うん、ありがとう碧香。そう思ってくれるなら、今日行こう』
昂也がこの世界から居なくなって数日経った。
その間、皆がその存在が再び戻って来るのを望んでいることは龍巳も気付いていたし、自分も昂也の無事な顔を見るまでは動けな
いとも思っていた。
しかし、不意にそれでは駄目じゃないかと気付く。昂也は自分のことを思って動かない龍巳を、きっと困ったような目で見るような気
がしたのだ。
それに、もとの世界で昂也と会う可能性だって残されている。どちらにせよ、龍巳が動かなければどれも可能性の域を過ぎない。
龍巳はその自分の思いをグレンに伝え、グレンもこの世界を発つことを許してくれた。
「碧香」
「あ・・・・・」
何時までも浮かない表情をしている碧香にグレンが声を掛ける。
「お前はタツミを選んだのではないのか」
「で、ですが」
「コーヤのことを考えているのかもしれないが、あれはただの人間ながらしぶとい奴だ。お前が気に掛けることはない」
真っ直ぐに向かい合いながら話している兄弟。
碧香の容姿から兄妹に見えなくもないが、お互いがお互いを思いやっているのは感じ取れた。
言葉の意味が分かったら・・・・・そう思うが、今はコーゲンに教えてもらったこの言葉だけで我慢するしかない。
「ぐ、れん」
「東苑?」
「・・・・・」
どうやら、発音は合っているらしい。自分を見るグレンの眼差しにホッとして、龍巳はその続きを口にした。
「まかせて」
「・・・・・」
「だいじょーぶ」
「・・・・・信じて良いのか」
「だいじょーぶ」
グレンの問い掛けに合っているのかどうか自信は無かったが、龍巳は教えてもらったこの世界の言葉で心配はいらないということを
伝えたかった。
たった2人きりの兄弟を切り離すように碧香を連れて行き、グレンの目が簡単に届かない世界で暮らしていても、碧香が泣くような
ことはしないと誓う。きっと、幸せにするということを信じて欲しい。
「・・・・・碧香、これほどに言っているタツミと共に行くことを拒むことはしないだろう」
「・・・・・は・・・・・い、兄様」
「辛くなれば戻ってくるがいい。私は何時でもお前を迎えよう」
碧香が涙を溢れさせたままグレンにしがみ付いた。
いったい何があったのか全く分からないまま、龍巳はただ2人を見ていることしか出来なかった。何も分からない自分がとてももどかし
くて、拳を握り締めてしまう。
(俺も、しなくちゃいけないことがいっぱいある)
昂也がよく言っていた、自分に出来ること。
それは不思議な力を鍛えるよりも先に、お互いのことを分かり合うことではないか。
碧香が人間の言葉を話せるようになってくれただけでなく、自分だって竜人界の言葉を覚え、何時かグレンに人間界での碧香のこと
を伝えたい。
碧香が何時でも笑っていたと、そうグレンに話すことが出来たらいい。
『碧香』
名を呼んで手を伸ばせば、グレンの腕の中から顔を上げた碧香が、涙を流しながらも手を握り返してきてくれる。
それにホッと安堵しながら、龍巳は隅に所在無げに立っていた朱里を振り返った。
「ほら、行くよ」
タツミから明日にでも碧香と共に人間界へと向かうことを告げられた時、紅蓮は自身がそれほど衝撃を受けなかったことが不思議
だった。
確かに大切な弟である碧香を人間界へとやってしまうのは寂しいし、心配でもあったが、タツミが傍にいるのならば碧香も幸せなので
はないかと思えた。それほどに2人の間には強い結びつきが見えたのだ。
もう一つには、碧香以上に今の紅蓮の心を支配している存在がいた。その存在が、コーヤがこちらの世界へ再び姿を現すことを気
にしている紅蓮は、何時しか碧香に対しても幸せを願う兄の心境でいることが出来た。
「・・・・・」
シュリに関してもそうだ。
何時までも異分子をこの世界に置いておくことは最善ではないし、いくら聖樹に与したとはいえまだ子供だ。ここは元の世界に戻すこ
とが良いのだとタツミの申し出を受け、今この地下神殿へと連行させた。
琥珀にもその旨を告げ、了解をさせた。
「兄様」
「行ってこい」
「・・・・・はい」
まさか、弟を嫁がせるような気持ちになるとは思わなかったが、タツミならば仕方がない。
無事に人間界へと行けるように、紅蓮は片手を泉につけた。鏡のように鎮まっていた表面が、僅かに光を放ちながら揺れ始める。
「タツミ」
碧香の腰を抱き、朱里の腕を掴んだタツミが真っ直ぐな眼差しを向けてきた。
「碧香を頼むぞ」
『絶対に、碧香を泣かすようなことはしませんから』
お互いの言葉は分からない。それでも、紅蓮はタツミの決意が聞きとれたような気がしてふっと笑みを浮かべると、
バシャッ
そのまま、3人は泉の中に飛び込んだ。
絶対に会えないとは思わない。それでも、しばらく可愛い弟の顔を見ることは出来ないと思うと、紅蓮の胸の中に寂しさがよぎった。
(・・・・・早く、来い)
この寂しさを癒せるのは、あの眩しいほどに光を背負ったコーヤしかいないのだ。
紅蓮は3人を飲み込んだ泉を見下ろしながらもう一度願おうとしたが、ふと、妙なざわめきを感じて顔を上げた。
「・・・・・」
(今、何か・・・・・?)
「紅蓮様?」
紅蓮の妙な行動を訝しんだ黒蓉が声を掛けてくるが、紅蓮は何かを探るような鋭い眼差しで空を見上げたまま動かない。
竜王に選ばれたから分かるのか、それとも望む存在に似た気配だから引っ掛かったのか、紅蓮がもう一度その気配を追おうとした時
だった。
「あーっ」
「青嵐」
それまで布の中で目を閉じて眠っていたと思った青嵐が、不意に顔を上げて大きな声を出した。
「紅蓮様っ」
「来たか・・・・・っ!」
紅蓮の顔が、意識しないまま綻んでしまう。
(どこにいるっ、コーヤ!)
この地下神殿の時空の扉に現れなかったのならばこの世界のどこに現れたのか、直ぐさま捜さなければならない。
そして、今度こそコーヤの全てを我がものにするために、言葉も行動も尽くさねばならないと、紅蓮は青嵐を抱き上げて地下神殿を後
にするが、その足取りも意識しないままに軽かった。
「揺れた」
「え?」
紫苑の部屋から戻ってきた江幻は、いきなりそう言って立ち上がった蘇芳の顔をまじまじと見た。
何かを視ていたのか、蘇芳の手には玉があり、それがぼんやりと輝いているのが江幻の目から見ても分かる。
「気が揺れたんだ。異物が入り込んだ」
「え・・・・・それって、まさか?」
「コーヤだ」
毎日鬱屈した表情だった蘇芳が、こんなにも生き生きとした表情に変化しただけでも江幻はその意味が分かった。しかし、それにし
ては王宮内は静かなままだ。
「地下神殿の時空の扉ではないのか」
「ああ。この世界には所々知られていない扉があるようだしな。そのどれかは分からないが、確かに今こちらの世界にやってきたと思
う。ったく、コーヤの奴、相変わらず予想を裏切る奴だよ」
楽しげな口調では文句は文句になっておらず、江幻ももちろんコーヤの再びの出現を嬉しく思う。
しかし、王宮の地下神殿で無ければ、早急にその身を保護してやらなければならない。
(今回の戦いで重要な位置を占めたコーヤだけど、竜人達にはその存在は知られていないし)
紅蓮の人間嫌いが改善されたからといって、普通の民達の感情が直ぐに変化するわけではない。もしも、人間に対してよくない感
情を持つ者に捕らわれたとしたら・・・・・。
「蘇芳」
「直ぐに出る」
「場所は分かっているのか?」
先読みでその位置を把握しているのかと訊ねれば、蘇芳は意外にもいいやと返答してきた。
「特定の場所までは分からない。だが、俺なら絶対に見付けることが出来る。ぐずぐずしていたら置いて行くぞ、江幻」
「分かった」
王宮内の負傷者はまだ完全に回復していないが、既に自分の手を離れてもいい状態にはなっているはずだ。
それに江幻はコーヤに少しでも早く会って、よく戻ってきてくれたと告げたかった。
「直ぐに発とう」
紅蓮よりも、そして青嵐よりも、出来れば蘇芳よりも先にコーヤの笑顔を見たい。
「ただいまっ、コーゲン!」
そして、思い切り強く抱き締めて、その勇気を称えようと思う。
「ほら、行くよ、蘇芳」
わざわざ旅立ちを告げる者などここにはいないと、江幻は数少ない自身の荷物を手にした。
王都から遠く離れた東の森。
魔物が住んでいると言われる湖の傍に、全身濡れたまま倒れている小柄な人影があった。
『・・・・・ん・・・・・』
随分長い間そのままの姿勢でいたその人物は、やがて大きな息をつくとゆっくりと上半身を起こす。
『・・・・・あれ?ここって、王宮じゃない?・・・・・うわ〜、嘘だろっ?』
焦ったように辺りを見回すと、直ぐ側にしっかりと手にしていたはずの鞄を見付けた。見慣れたそれには《KOUYA》と書かれてあるキ
ーホルダーが付けられている。
『良かった〜、これもちゃんと持ってこれたんだ』
KOUYA・・・・・昂也はそう呟いて少しだけ笑うと、ギュッとその鞄を抱き締めた。今の自分にとってこれだけが、もとの世界と今の自
分を繋ぐ大切なものだった。
そして、昂也は改めて周りを見てみる。鬱そうとはしていないが、どうやらここは森の中で、自分が願っていた王宮の地下沈殿では
ないことは確かだ。
もちろん、あの場所に上手く辿りつけばいいとは思っていたが、こんなにも条件が違う場所だとは思わなかった。
濡れてしまっている服を見下ろしながら、昂也はどうするかなあと大きな溜め息をついて草の上に大の字になる。
『・・・・・』
サワサワと、風が頬を撫でた。
少しだけ温かな風と、見知らぬ土地の匂い。
『・・・・・探してみるか』
じっとしていても始まらないかと、昂也は立ち上がった。肌に張り付く濡れた服は気持ち悪いが、歩いているうちに乾くだろう。
願わくば風邪をひかないようにしたいと思う。
(ここがあの世界かどうかは分かんないけど、ちゃんと願ったもんな)
あれだけ強く願って滝つぼに飛び込んだのだ。ここがあの竜人界だと信じて、早く王宮に向かおう。竜になれない自分は歩くしかない
が、何時か辿りつくはずだ。
『あっ』
その時、遠くに人影が見えた気がした。
とにかく前進あるのみだと、昂也はその人影に向かって走った。
止まっていたはずの時間が、碧香と龍巳が人間界へと戻り、それと入れ替わるかのように昂也が再び竜人界に戻って来たことで、
再び大きく動きだす。
竜人界と、人間界。
二つの世界の新たな物語は既に始まっていた。
竜の王様 完
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