竜の王様




第六章 
終わりから始まりへ



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※ここでの『』の言葉は竜人語です





 元の世界に戻ってきてから初めて迎えた土曜日。
何時もは用が無い限り起こされるまで眠っている昂也は、朝からバタバタと忙しく動いていた。
 「・・・・っし、これで良いかな」
 肩にそれほど大きく無いリュックを掛けた昂也は部屋を出ようとして立ち止まる。振り返って眺めた部屋はたった数日の滞在なのに
もう自分の空気に馴染んでいて、何だか長い不在と言うものもたいしたことではないのかもしれないと思えた。
 そのまま階段を下りた昂也は、風呂掃除をしている母に声を掛ける。
 「俺出掛けてくる」
 「あら、朝ご飯は?」
 「いらない」
 「また東苑君のとこね。泊るんなら連絡をちょうだいよ?」
 「・・・・・うん、行ってきます」
 「行ってらっしゃい」
何時も遊びに行く時と同じ会話をして、昂也はそのまま靴を履いて玄関を出た。
一瞬、振り返ろうかと思ったが、何だか変な気がして止めてしまう。何時も通りに母に声を掛けたのだ、何時も通り後ろを振り返らず
に走った。



 「おはよーございます!」
 「おはよう」
 まだ午前8時を過ぎた頃だというのに、突然押し掛けた昂也を東翔は穏やかな笑みで出迎えてくれた。
 「朝飯は食ったか?」
 「ううん、食べて無い」
その行動さえ分かっていたように、用意出来ているから食べなさいと促されて家の中に上がる。
そこにはちゃんと2人分の朝食が用意されていて、まるで予期されていたような光景に昂也はやっぱじいちゃんは凄いなと呟いた。
 「いただきます」
 正座をして、手を合わせて、箸を持って白いご飯を食べる。
家ではなかったが、何時も来ている東翔の家で食べる朝食は昂也にとっては日常で、一口一口味わうように食べさせてもらった。
 「コウ」
 「?」
 「・・・・・いや」
 龍巳がそこにいないだけで、これはよくある光景だった。しかし、東翔が言い掛けた言葉を途中で止めるのは珍しく、昂也はその意
味を考えて少しだけ苦笑してしまう。
(じいちゃんにも笑っていて欲しいのにな)
 自分の決意を唯一知ることになる相手だ。
昔から大好きで、昂也を自分の孫である龍巳と同じように可愛がってくれた東翔に向かい、昂也は大丈夫だというように笑顔を見せ
た。

 食事が過ぎ、何時ものように後片付けを手伝った昂也は、そのまま居間で正座をして東翔と向き合う。
東翔もその向かいに座ると、しばらく昂也の顔をじっと見つめて・・・・・一度目を閉じて何かを耐えるように眉間に皺を寄せたが、次の
瞬間には目を開くと手を伸ばして頭を撫でてくれた。
 「・・・・・決めたか」
 「うん」
 短い、確認するような言葉に昂也はしっかりと頷いた。
 「後悔はしないのか?」
 「・・・・・あのさ、俺こっちに戻ってきてから、直ぐに何時も通りに暮らせたんだ。トーエンはいなかったけど、家でも、学校でも、前と同
じで、本当にここが俺の住む世界なんだなって思った」
母との言い合いも、父との笑い話も。
友人達とのふざけ合いも、難しい授業も。
全てが行徳昂也という自分がこれまで生きてきた、そしてこれからも生きて行くはずの光景だった。
 それでも・・・・・。
 「なんか、なんかね、胸の奥が・・・・・モヤモヤして・・・・・本当に、俺はここで笑っていてもいいのかって、考えたんだ」
このまま自分がこの世界にいることはごく当たり前の未来だと分かっている。ただ、あの時何も言わずに切り離してしまったあの世界の
ことを本当にそのままにしてもいいのか・・・・・昂也はどうしても忘れることも、無視することも出来なかった。
 「あの世界の事情は、東苑と碧香から聞いて多少は知っている」
昂也の負担を減らすように、東翔は穏やかに口を挟んだ。
 「確かに大変だとは思うが、竜王となるものは無事に決定したんだろう?その後のことをお前が背負うことはないんだぞ、コウ」
 「うん、分かってるよじいちゃん。俺だって、自分にそんな力があるとは思って無い」
 龍巳や朱里のように不思議な力があるわけではない自分。言葉さえまともに話せなくて、かえって迷惑な存在だったと思う。
それでも、この目で沢山の人が傷付くところを見たし、死んでいく者も見てしまった。
人の死というものを東翔に教えられて多少は知っているつもりだった昂也でも、現実にそれが目の前で起こってしまうと身体が震える
思いがした。
 「何も出来ないかもしれない」
 「・・・・・」
 「でも、少しでも手伝えることがあるなら、俺はあの世界にもう一度行かなくちゃって思った」
 「コウ」
 「本当は怖いよ。今回はこうして戻って来れたけど、次もなんて確証はないし」
最悪、全く違う世界へ飛ばされる可能性だってある。
 「でもさ、じっとしていられないんだ・・・・・俺・・・・・っ」
 自分の選択が良いのか悪いのか。それはこの先の結果を見なければはっきりと分からない。ただし、動かなければ確実に後悔する
のは分かっていた。
 「動いても動かなくても後悔するなら、俺は動こうって思ったんだ・・・・・じいちゃん」
 「・・・・・」
 「俺、竜人界に行く。みんなと一緒に、あの国をつくっていく手伝いをする」
 はっきり口にしてから、昂也は大きな息をついた。こうして言葉に出したことで、もう半分以上の肩の荷が下りた気がする。
後は、もう一度あの世界に戻るだけだ。
 「力を貸して、じいちゃん」



 昂也の決断を東翔は止めなかった。時間は長く無かったかもしれないが、それまで昂也がどれほど考えてこの結果を出したのかを
分かってくれているらしい。
そして、昂也の中のいまだ消えない悩みにも気付いているだろうに何も言わないでいてくれることが、昂也自身とてもありがたくて涙が
出そうだった。
 「・・・・・」
 そして、昂也はまた裏山の滝つぼの前に立っていた。傍には東翔もいてくれる。
 「・・・・・」

 パチャッ

手で軽く水をすくうと、以前よりは少しだけ冷たさが薄らいだような気がした。
 「・・・・・じいちゃん」
 「どうした」
 「俺・・・・・間違ってない、かな」
 己の意志だけで決めた今回の行動。
しかし、それには様々なもの・・・・・家族や友達の感情を一切無視してしまったという後悔も今更ながら残っていた。
置いて行ってしまう心苦しさから、昨日学校で別れた友人達にも、今朝の母親にも、何時も通りの態度を取ったが、そこにちゃんとし
た別れの言葉が必要だったのかもしれないと思えてきたのだ。
 「お前は、もうこちらに戻って来ないつもりなのか?」
 しかし、東翔は予想外の言葉を掛けてくる。
 「・・・・・また、戻りたい」
 「それならば、行ってくるという言葉だけで十分だろう」
 「・・・・・本当に、それだけでいい?」
 「コウ、わしはこういった不思議な出来事には、その者の強い意志も大きく反映すると信じている。お前が強い意志であちらの世界
に行こうと決めたからには、きっと望む場所へ向かうことが出来るだろうし、またこの日常に帰りたいと願えば・・・・・きっと叶うはずだ」
昂也にとって、何時でも行く道を指し示してくれる東翔の言葉は重く、温かかった。
(そっか・・・・・強く、願えば・・・・・)
 全てと永遠に別れるつもりなんてない。
そう思い直した昂也は立ち上がると、今度こそ吹っ切れたように笑みを浮かべた。



 前回は制服のままだったが、今回はシャツにジーパン姿で滝つぼに足を踏み入れた。
 「コウ、それはいいのか?」
昂也が右肩に掛けたままだったリュックが気になったらしい東翔に、これは必要なんだよと答える。
 「前は本当に突然だったけど、今回は覚悟をしたつもりだから。少しは便利なアイテムを持って行っとこうって思って」
 携帯やライターなどは却下だ。電池やオイルが切れてしまえば使えないし、そもそもあの世界に人間の勝手な文明は持ち込まない
方が良いと思う。
 防水のリュックの中に入れたのはノートと鉛筆、そして万能ナイフ。
次回はコーゲンがいなくても言葉が通じるように勉強しなければと思ったし、自分の手に合う(竜人は皆規格が少し大きめなので)ナ
イフもあれば助かるはずだ。
 「今度会う時、俺もっと大人になってるかも」
 「それまでわしも生きていないとな」
 「大丈夫だって、じいちゃんは100歳過ぎてもピンピンしてる」
 「それなら、まだまだ時間はあるか」
 「・・・・・うん、あるよね」
 次にここに戻ってきた時、周りはどんなふうに変化をしているだろう。それを考えるとまた不安が湧き起こってしまいそうだが、そうなる
前に戻ってくればいいだけだ。
昂也にはどうすることも出来ないが、向こうの世界には凄い力を持った者達が大勢いる。
今度は彼らの力を借りて、前回みたいに突然ではなく、ちゃんと言葉を残してから帰ろう。

 チャプ

 ゆっくりと足を進めると、水は膝丈から腰の高さまでになった。後数メートル先の滝が落ちてくる場所に行けば一気に深くなるはずだ。
(覚悟を決めたけど・・・・・溺れて終わりなんてことあったりして)
初めて自分の意志で向かうので、成功するかどうかは本当に分からない。
 「・・・・・」
それでも、昂也は足を踏み出した。



 「コウ!」
 水の高さが胸元にまでなった時、東翔が名前を叫んだ。
水の抵抗でゆっくり振り向いた昂也は、岸辺にいて両手を水に付けている東翔に向かって叫ぶ。
 「じいちゃんっ、力貸して!」
 言葉と同時に、水が生温くなってきた来た気がした。水の抵抗も少なくなり、身体がすっと前に進む感じがする。
(凄い、じいちゃんっ)
そういえば、龍巳が人間界へと永住した竜人の末裔だと聞いた。
そう考えれば東翔も同じように竜人の血を受け継いでいるということになり、その力があれば昂也1人でがむしゃらに向こうの世界を目
指すよりは、よほど確実な援護だろう。
 「じいちゃん!」
 「コウッ!」
 「行ってきます!」
 最後の一歩を踏み出した時、ガクッと身体が水の中に沈んだ。
 「!」
深くても底があるはずの滝つぼの中に永遠に落ちていく感覚に襲われ、覚悟をしていたはずの昂也も一瞬息をつめてしまった。
(死ぬ、わけじゃない・・・・・っ!)
この苦しさは再びあの世界に連れて行こうとする力が働いたということで、今はどんなに焦ってもその力に抵抗せずに身を委ねれば良
いはずだ。
 「また、必ず帰ってこい!」
 「・・・・・っ」
(う・・・・・ん!)
東翔の叫びが耳に聞こえたような気がしたが、昂也はそのまま息苦しさを感じて・・・・・気を失ってしまった。







 普通の竜人や人間では越えられないはずの時空の扉。
一度は壊され、再生されたその扉は、再び運命の導きによって大きく口を開け、何の力も持っていないはずの1人の少年の姿を飲み
込んでしまった。


その瞬間、この人間界からその存在が・・・・・消えた。