プロローグ







 その男の名前は大学内でもかなり有名だった。
整った容貌と、高身長。
成績もよく、サークルから助っ人を求められるほどに運動神経も良くて。
穏やかに笑い、誰にでも優しくて、陽気で。
 それだけ完璧な男は女にも当然にモテたが、それはとても女癖が良いと言えるものではなく、来る者は拒まずに受け入れ、い
い女と言える者達は遠慮なく食い散らかしていた。

 それでも、男が女達から憎まれることが無かったのは、ただ1人のものになっていないからだ。
誰もが特別の存在になりたいと思いながら、どこか一線を引いている男には本命がいるという噂があり、その本命とどうしてもう
まくいかないから他に手を出しているのだとまことしやかに囁かれていたが、男は笑って肯定も否定もせず、
 「みんな、可愛いから困るんだ」
と、魅力的な笑顔で言うだけだった。








 「・・・・・」
 「ハッチ」
 「ん〜?」
 「ちゃんと噛んで食べてるのか?飲んでるだけじゃ栄養にならないぞ?」
 溜め息混じりの言葉にようやく顔を上げた八谷尚紀(はちや なおき)は、自分が食べていたカレーライスの皿と目の前の友人
の顔を交互に見つめた。
 「俺、飲んでた?」
 「そんな勢いだったってこと。別に急ぐ用事もないんだろ?飯くらい落ち着いてちゃんと食わないと、お前何時まで経っても肉が
付かないって」
 「・・・・・う、そうなのか」
 確かに尚紀は早食いで、食事は何時も10分足らずで済ませてしまうことが多かった。
量はそれなりに摂ってはいるのだが、ちゃんと噛んでいるとはちょっと・・・・・言い難いかもしれない。
(それで俺、太らないのか?)
 身長168センチに対し、体重は50キロ代で、女友達からは女の敵と言われるほどに腰も細く、全体的に華奢な身体つきを
していた。
 染めても、ちゃんと染まりきれない頑固な髪は仕方なく黒いままで、それでも髪以外の栄養不足は成長も妨げているのか、未
だ目が大きい童顔に、髭もろくに生えてこなくて・・・・・そう考えれば、全てが食生活に関連しているのではないかと急に尚紀は
心配になってしまう。
 「お〜い、ハッチ」
 別に1人暮らしで生活が困窮しているというわけではなく、過保護な父がちゃんと朝食と夕食は作ってくれているので栄養が偏
るはずはないのだが、いかんせん尚紀に甘い父は、尚紀の好きなもの中心の食事にしてしまうので、もしかしたらそこに何か理由
があるのかもしれないと思った。
 「おいって、そんなに考え過ぎるなって。お前単純だから、安易に人の言ったことを信じやすいけど、別にそれだけが原因じゃな
いと思うぜ?遺伝だってあるだろうし、まだまだ成長途中かもしれないし」
 「・・・・・それって、嫌味」
 まるで親兄弟のように説教をしてくる高校時代からの親友、伊丹佑輔(いたみ ゆうすけ)は180を軽く超す身長に、甘いマス
クのイケ面で、まだまだ成長途中のような自分とは違い既に大人の男の雰囲気さえ醸し出している。
 大学で一番人気の、それこそ別格のモテ男とまではいかないが、伊丹もそれなりに遊んでいるはずで、何だか自分だけが置い
て行かれている格好で面白くなかった。
 「ハッチ」
 現に、2つ席をおいた所に座っている女生徒も、先程からチラチラと伊丹を見ている。
鈍感といわれている自分とは違って敏いはずの男がそれに気付いていないわけが無いだろうに、伊丹はそれには反応を示さず、
自分の右の耳たぶ、母の形見の小さな金のピアスを触りながら、悪いと謝ってきた。




 昼食が済んで、サークル仲間から携帯に連絡が入った伊丹はそちらに行かなければならないらしかった。
 「悪い」
 「別にいいって」
小学生ではないのだから、自分1人で行動することに苦痛は感じない。
 そのまま伊丹と別れて構内を歩いていた尚紀は、
 「?」
不意に、僅かな物音を聞きとって足を止めてしまった。
(なんだ、今の・・・・・)
悲鳴のような、女の声。何か起きているのかと心配になってしまった尚紀は辺りを見回し、直ぐ近くの資料室に目が行く。
(ここって、ほとんど人の出入りが無い場所だっけ・・・・・)
 一度だけ、准教授に手伝いを頼まれて来たことがあるなと思いながら近付くと、今度はもう少し大きな声が確かにその場所か
ら聞こえてきた。
 「う・・・・・っ」
(ど、どうしよ、助けられるか?)
 中で一体何が行われているのか想像もつかなかったが、確かなことは女がそこにいて、何らかの声を出す状況になっているとい
うことだ。
自分のような非力な人間に何が出来るかととっさに考えたものの、それでも聞かなかったことには出来なくて、尚紀は何時でも外
部と連絡が取れるように携帯を手にすると、そっと物音をたてないようにドアを開けた。




 その数分後、尚紀は走っていた。
 「はあっ、はあっ」
誰かが後ろから追いかけて来るのではないかという恐怖と、見てはならないものを見てしまった罪悪感で、小さ過ぎる心臓はバク
バクと煩いくらいに高鳴っている。
(あっ、あんな場所でエッチするかっ?)
 何時、誰が来るかも分からない場所で、ひそやかにとは言い難いような声を上げてセックスをしていた2人。
女の方の顔は、こちら側を背にしているのでよく分からなかったが、長い茶髪を緩やかにカールした細身で、大きく肌蹴た服の胸
元からはチラチラと白い胸が見えた。
 男の方は少なくとも上半身の服に乱れは無かったものの、グチュグチュといった生々しい音から察するに、多分・・・・・下半身の
そこだけを露出して抱いていたのだと思う。
 「あれって・・・・・佐久間(さくま)、だよな?」
確認するようにその名前を口にした時、チラッと顔を上げて視線が合った男の顔を再び鮮やかに思い出してしまった。

 佐久間義仁(さくま よしと)。
字ズラを見ればどんなに真面目で、いい人間なのだろうかと想像出来るが、実際のこの男はとんでもなく女癖の悪い遊び人だっ
た。
 明るい色の茶髪に、耳元のピアス。
切れ長の目に、高い鼻に、少し薄めの唇。
身長は180センチ半ばまであり、バイトでモデルをしているだけに手足が長く、それでいて脆弱な感じがしない体格で。
 頭も、運動神経も良く、本当ならば出来過ぎで嫌味な男なのだが、唯一にして最大の欠点が女癖だった。
来るものは拒まないくせに、関係を持つのは誰もが認める極上の女達ばかりで、それなのにその誰をも恋人という位置に据える
ことは無く、
 「俺、気持ちのいいことが好きなんだよ」
などと嘯いても、周りから信奉者が減ることは無い得な男。

 尚紀も、この男のことは顔も名前も知っていたが、自分とはあまりにも違い過ぎる存在だとして、あまり気にすることも無かった。
いや、本当は羨ましいと思うところも多々あるものの、女癖の悪さはとても受け入れることは出来ないのだ。
 両親の仲が良く、母が病気で5年前に亡くなっても、今もって父は母が一番だったと惚気るような人で、何人もの相手を不誠
実に愛する・・・・・いや、関係を持つ佐久間は、尚紀の常識の中には住まないのだ。
 「・・・・・あ〜あ」
 嫌なものを見てしまったと思うものの、今更時間を戻すことは出来ない。
とにかくさっさと忘れた方がいいとなんとか思い直して、尚紀は足早に構内から出て行った。








 本当は、それで終わるはずだった。
元々、全く繋がりの無い尚紀と佐久間が広い大学の構内で会うことなどほとんど無く、数日経つと尚紀の記憶の中からもあの
日の出来事はテレビか漫画で見た光景・・・・・そんなふうに記憶が塗り替えられていたのだが。

 「なんだ、今日もカレーか」
 「今日はカツカレー。前のはシーフード」
 「でも、カレーだろ?」
 「味は全然違うんだよっ」
 カレーを頼んでしまうのは、悩まなくてもある程度の味のものが食べられるということと、母が亡くなってから父がよく作ってくれた
ものなので馴染みが深いということもあった。
 ただ、以前に伊丹に注意されたように、噛まずに飲み込むようなことはしていないつもりだし、ちゃんとサラダもとっている。
文句があるのかと睨めば、まるで仕方が無いなという宥めるような眼差しを向けられていて・・・・・本当に自分と同じ年なのかと
年齢詐称を疑ってしまいそうだった。
 「なあ」
 「・・・・・」
 「最近、変わったことないか?」
 「・・・・・変わったこと?・・・・・って、何だよ?」
 謝っても簡単には許さないと思っていたが、伊丹は全く別のことを言い出して、何だか気になる切り出しに尚紀も思わず聞き
返してしまった。
 「ん〜、ちょっと、噂に聞いて」
 「噂?」
 「大学内で捜し人っていうか・・・・・その特徴がお前に似てる気がしてさ。でも、本人がその理由が分からないなら俺の気のせ
いかもしれない」
 「何だよ、気になるじゃん」
 自分の知らないところで、自分のことが話題になっているかもしれない。それが本当に伊丹の気のせいなのかどうか、全てを白
状させてやろうと身を乗り出した時だった。
 「きゃあ!」
 「ウソッ」
 急に学食の中がざわめき始め、一方方向に視線が流れていく。
何だろうとつられるように視線を向けた尚紀は、そこに立つ男の姿に思わず目を見張ってしまった。
(ど、どうして、下半身病気男がっ?)
 尚紀の中では既に病気だと決定付けられた女癖の悪い男、佐久間が、両腕に綺麗な女をしがみ付かせるようにして立ってい
た。
まるでモデルのような立ち姿の佐久間は何かを探すように学食の中を見回していたが、ふと尚紀と目が合って・・・・・なぜかふっと
目を細められてしまった。
(な、な、なんだっ?)
 目が合ったのは気のせいだと思いたかったが、連れの女達に身を屈めて何事か囁いた佐久間は、身軽になった身体のまま、
明らかにこちら、尚紀がいる方へと近付いてきた。
 「おい、ハッチ?」
 「ハッチ?」
 「うわっ」
 訝しげに訊ねようとして来る伊丹の言葉に重ねるようにそう言った佐久間は、勝手に尚紀の隣に腰掛ける。
右半身が硬直してしまったように動かなくなった尚紀の様子を見て取った佐久間は、口元から笑みを消さずにいきなり尚紀のピ
アスに触れてきた。
 「なっ、何するんだよっ!」
 相手が誰なのか、ここがどこなのかを考える前に、尚紀の口からは文句の言葉が放たれる。
色めきたつ周りとは反対に、なぜか楽しそうに笑った佐久間は、
 「やっと見つけた」
なぜか、不思議な言葉を呟いた後、魅惑的な笑みを真っ直ぐに尚紀に向けてきて言った。
 「なあ、俺と付き合わない?」