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 伊丹と別れた尚紀は、今日は佐久間を待たずに帰ろうと思った。多分、今会ってしまうとどうしようもない感情で責めてしまい
そうだし、そんな自分をきっと後で後悔すると思ったからだ。
 幸い、もう講義はなく、チラチラと向けられる視線から顔を背けるようにしながら歩いていると、不意に鳴った携帯電話にビクッ
と大きく身体を震わせてしまった。最近、どこから洩れたのか悪戯電話も多くなってきて、電話が掛かってくるだけで条件反射
のように恐怖の方が増してくるのだ。
 しかし、恐る恐る電話を取り出してみると、そこに示されたのは佐久間の名前だった。伊丹との会話が頭の中に過ったものの、
それ以上に安堵して、尚紀はすぐに電話に出た。
 「もしもしっ?」
 『今どこ?』
 返ってきたのは、少し不機嫌そうな佐久間の声だ。
 「どこって、今帰ろうと・・・・・」
 『待っててくれないの?』
 「・・・・・約束、してなかったし」
思わず口をついて出た言葉は、自分でもあまり強くない理由だと思う。いつもちゃんとした約束をしていないのに佐久間を待っ
ている尚紀が、いつもと違う行動をすることこそ何らかの意味があるということを佐久間もわかっているらしい。
 『どこ?』
 尚紀の返事をまるで無視するようにもう一度同じことを言われ、尚紀は戸惑いながらも居場所を伝える。すると、すぐに行くか
らと言った佐久間は唐突に電話を切った。
 「・・・・・どうしたんだろ・・・・・」
 基本的に佐久間は尚紀を束縛しない。いや、もしかしたら優しい言葉と惜しまない愛の囁きで無意識のうちに絡め取られて
いるのかもしれないが、表面上ではいつでも尚紀を自由にさせてくれていた。
 だが、今回はどうも様子が違った。今の自身の状況と合わせ、それがどんなふうに面前に突きつけられてしまうのかと思うと
不安でたまらなくなった。

 それから十五分ほどして、佐久間はぼうっと立っている尚紀の前にやってきた。
 「ごめん、待ってなくて」
電話口から感じられた不機嫌そのものの冷たい表情に、何を言われたわけではないが思わず自分の方から謝ってしまった。
 「それはいいけど」
 「え?」
(じゃあ、何に怒ってるんだ?)
 確かに、今日交わしたメールでも特に変わった様子はなかった。あの電話をする前に、尚紀自身自覚しないまま佐久間に嫌
なことをしていたのだろうか、ますますわからなくなる。
 「佐久間?」
 「違うでしょ」
 「え・・・・・あ、義仁」
 妙に呼び方に拘りのある佐久間だ、すぐに言い変えたがそれでも機嫌が直ったようには見えない。
 「あの・・・・・」
 「ナオ」
 「う、うん」
 「さっき、伊丹と会った?」
 「あ、会ったけど、それが・・・・・」
どうして伊丹の名前がそこで出てくるのかまったくわからず、尚紀は無意識のうちに怪訝に佐久間を見てしまった。
佐久間はそんな尚紀をチロリと見た後、妙に冷たく笑いながら口を開く。
 「浮気?」
 「えぇっ?」
まさか佐久間に、いや、佐久間にだけは言われると思わなかった言葉に、尚紀は即座に否定することも忘れて驚いてしまっ
た。
 伊丹は佐久間と出会うずっと前からの友達で、親友といってもいい位置にいる。尚紀が佐久間を好きになり、付き合うように
なった経緯も全部相談しているし、唯一といってもいい心の拠り所だ。それは、前から佐久間にも話している。
 第一、男同士で浮気も何もないと思ったが、そこでようやく自分と佐久間も男同士だと気づいてしまった。普通なら絶対にそ
んな関係になることなど考えられないはずなのに、男である佐久間を好きになり、セックスまでした尚紀だからこそ、男相手で
も浮気ができると佐久間は思ったのかもしれない。
 「誤解だって!」
 「どこが?見ていた子から聞いたけど、凄く仲よさそうに顔を突き合わせていたって聞いたけど?俺とは恥ずかしがって外では
手も繋がないし、キスもしないのに、《友達》の伊丹なら違うってわけ?」
 外で手を繋がないのは、それを見た佐久間のファンや過去にセックスをしたらしい相手から露骨な嫌みを言われたり、けなさ
れたりするからだ。誰も見ていない場所だったら、尚紀だって自分から佐久間と手を繋ぎたいくらいだ。
 「伊丹とはただ話してただけだっ」
 「何の話?」
 「何って・・・・・」
さすがに本人の前で、佐久間が原因で陰口を言われていることで注意を促されていたなんてすぐに言えない。
口ごもったことが返って言葉の信憑性をあやふやにしてしまったらしく、佐久間に大きな溜め息をつかれてしまった。
 「俺にそのことを教えてくれた子ってさ、俺のことを好きだって告白してくれたんだよ」
 「え・・・・・」
 「そんな子が、俺に嘘をつくとは思えないけど」
 どうしてそう思えるんだろう。その子は佐久間が好きだからこそ、うがった見方で尚紀と伊丹の様子を告げたのだとどうして思
えないのか。
(俺より、その子の言葉の方を信じるなんて・・・・・)
尚紀の胸の中にある佐久間への想いが、また少しだけ減ったような気がした。




 佐久間も、頭から自分に尚紀の浮気を進言してきた女の言葉を信じたわけではなかった。女の口調の中に媚が見えたし、尚
紀に対する辛辣な嫉妬も隠し切れていなかったからだ。
佐久間自身、尚紀が男だというのはちゃんと認識していて、本人に様々な付き合いがあると理解しているし、それを制限しよう
とは思わなかった。
 ただし、伊丹は要注意な存在だった。本人は隠しているのかもしれないが、尚紀に対する特別な想いは見え見えだ。尚紀も
伊丹に対しては心を許している。それが恋愛感情ではないにしても、面白いものではなかった。
そんな中での女の話だったので、佐久間はどうしても不機嫌になってしまい、即座に尚紀に連絡をして会うことにしたのだ。
 しかし、
 「さっき、伊丹と会った?」
 「あ、会ったけど、それが・・・・・」
たったそれだけの会話で、佐久間は女の言葉がまったく見当違いだということがわかった。素直で、すぐに感情が表に出てしま
う尚紀だからこそ、本当に当惑していることが感じられたのだ。
 それでも、伊丹と会っていたことは事実だったので、佐久間は自分と付き合っているという自覚の薄い尚紀をもっと苛めたくなっ
てしまった。
 「浮気?」
 尚紀が言い訳すればするほど、自分に嫌われたくないという思いがひしひしと伝わり、佐久間はくすぐったくなるほどの優越感
に浸れた。
(本当に、可愛いな)
 必死に言いわけをすればするほど、尚紀が自分のことを好きだと実感するからだ。他の女とセックスをするのも、それを知った
時の尚紀の嫉妬する顔がとても可愛くてしかたがないから。
佐久間は、自分が歪んでいることを知っている。だが、そんな自分を好きになってくれたのだから、尚紀も歪んで欲しかった。
 「・・・・・」
 唇を噛みしめて俯く尚紀を、通り過ぎる者が好奇に満ちた目で見ている。まだ大学に近い場所なので学生も多く、その中には
自分たちの関係を耳にしている者もきっといるはずだ。
 どんどん尚紀が孤立して、自分だけを頼り、見ることしかできないようになって欲しいが、その一方で不安に満ちた尚紀の顔は
どこか艶めいてもいて、そんな表情をこんな場所で他人に見せたくないとも思う。
 「ナオ」
 今日はこのまま尚紀を連れ去り、思う存分その身体を味わおうか。まだセックスに馴染まない硬い身体を、徐々に蕩かしていく
のも楽しいだろう。
 そんなことを思いながら尚紀の腕を取ろうとした佐久間は、その瞬間手を引かれてしまった。思いがけない尚紀の反応に、佐
久間は当惑したようにその顔を見下ろす。
 「ナオ?」
 「ぁ・・・・・」
 どうやらそれは尚紀本人も思いがけなかった反応らしく、一瞬にして顔が青ざめた。だが、いつもならすぐに佐久間に許しを乞
おうとするのに、なかなか口を開かず、側に寄ってこようとしない。その態度は自分を拒絶するようにも見えてしまい、佐久間は今
度は本当に眉間に皺を寄せた。
 「俺・・・・・」
 「何?俺に触って欲しくないわけ?」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
(どうしてそこで反論しないんだ)
 このままでは佐久間の言葉を肯定することになる。
 「ナオ、どうし・・・・・」
 「佐久間君っ」
その時、突然背後から声が掛かった。




 「何?俺に触って欲しくないわけ?」
 佐久間にそう言われ、尚紀はすぐに違うと言おうと思った。大好きな佐久間に触れられるのはとても嬉しいし、触れてもらう時
だけは自分だけを好きでいてくれるのだと実感できる。
 それなのに、そう思う気持ちとは裏腹に、どうしても声が出てこなかった。このままでは今までの自分たちの関係を繰り返すだ
けで、何の解決にもならない。今、尚紀が佐久間に言って欲しいのは、そんな言葉ではないのだ。
 佐久間も、いつもの尚紀とは様子が違うことに気がついたらしい。不満そうな表情から一転、どこか焦燥を滲ませた表情で何
かを言いかけた。それは、珍しい佐久間の素の表情で、こんな状況だというのに尚紀は妙に胸が高鳴ってしまった。このまま佐
久間がもう一度好きだと言ってくれたら、今度は信じたいと強く思えたかもしれないのに、
 「佐久間君っ」
女の声が聞こえ、尚紀は思わずそちらを見てしまった。
(・・・・・誰?)
 見たことのない相手なのに、明らかに尚紀を見る目には敵意がある。それだけで尚紀はその女が佐久間に想いを寄せているこ
とがわかった。
 「中津さん」
 「!」
佐久間は相手を知っていたらしく、名前を呼んで柔らかく笑む。先ほどまでの表情が一切なくなってしまい、またいつもの仮面を
被られたような気がした。
 「どうしたの?」
 「私、佐久間君のことが気になって・・・・・だって、私の言葉で・・・・・」
 「・・・・・ああ、そのこと」
 佐久間の眼差しが尚紀に流れ、そのまま口元が歪むように笑む。
 「どうやら、まったくのシロではなさそうだし。教えてもらって良かったよ」
会話の内容で、尚紀と伊丹のことを佐久間に告げたのがこの女だということがわかった。佐久間に好意を持つせいで、多分大げ
さに伊丹とのことを告げたのに違いない。
 だが、尚紀はそれを相手に追及する気力がなかった。これで、いったい何人目だ。佐久間が魅力的で、異性にモテることも十
分わかってつきあったはずだが、それでも繰り返されるこの手のことに気持ちが麻痺してきたのがわかる。
(俺が嘘だって言っても・・・・・きっと信じてくれないんだろうな)
 尚紀の目の前だというのに、女に腕に縋りつかれても振りほどこうとせず、優しい眼差しを向ける佐久間。いったいどちらが佐
久間の恋人なのか聞いてみたい。
 ふと、佐久間がこちらを向いた。
(なに・・・・・!)
佐久間は尚紀から視線を反らさないまま、女の口元の際どい場所にキスをする。
 「中津さんのおかげで、ちゃんとナオを注意できたよ」
 「え、あ、そう、なの」
 もしかしたら、このことで自分たちが喧嘩することを期待していたのかもしれない。明るく、あっけらかんと言った佐久間の言葉
にかなり不満そうだったが、それでも、自分の側から離れない佐久間の態度に一応プライドは保てているようだ、女は尚紀に向
かってことさらにっこりと微笑んでいる。
(・・・・・馬鹿みたいだな)
 急に、今この場にいることが馬鹿らしくなった。佐久間の一挙一動に怯え、自分の感情よりも他の人間を優先する恋人がい
るだろうか。
 「・・・・・る」
 自分では思いきって言ったはずだが、口をついて出た声は情けないほど小さくて、佐久間はすぐに聞きとってくれなかった。
 「ナオ?」
 「俺、帰るから」
(言えた)
 「帰るって、どうして?」
この期に及んでも、まだ尚紀の気持ちをわかってくれない佐久間がいっそ笑える。そう思った瞬間、尚紀の中で唐突に結論が出
てしまった。

 佐久間は人を愛せない。

そう、結局はそうなのだ。ほとんど面識のない自分に佐久間が交際を申し込んできたのも、女好きのはずなのに男の自分と身
体を重ねたのも、すべて尚紀に恋愛感情があった上でのことではない。

 「なあ、俺と付き合わない?」

 その言葉をそのまま受け止めてしまった自分が馬鹿だったのだ。
尚紀は怪訝そうに自分を見る佐久間と女に対して、精一杯の笑みを向けた。